第27話 怪物たち③

 芙蓉は身体が揺さぶられていることに気づいた。意識が覚醒していくにつれて、目覚めた視力がかすかな光を認識する。


「大丈夫か?」

「……は、い……」


 声の主はカティアだった。彼女はほっとしたように息を吐き、縛られた両腕で芙蓉をゆっくり起き上がらせる。ガントレットのない手は骨ばっていて固く、肉刺の潰れた感触があった。

 芙蓉の手首も縄で固く一纏めにされていた。刺すような頭痛に顔をしかめながら、やっとのことで石壁に背を預ける。ひんやりとした冷感が心地よかった。


「……ここは……?」

「すまない、わたしもよくわからないんだ。目が覚めたのもついさっきでな。まあ、ろくな場所じゃないことだけは確かだ」


 お互い小声だったが、しんとした周囲にはよく響いた。

 壁に掛けられた松明の心細い灯りを頼りに目を凝らす。岩をくり抜いただけの天井に見当たらない窓、そして鍵のかかった鉄格子。囚われていることは明白だったが、理由だけがわからなかった。

 あの時の血走った女の眼球が強く記憶に残っている。深い恨みそのままをぶつけられたように思うが、芙蓉にはまるで心当たりがない。


「しかし結構な勢いでやってくれたな……」


 カティアもまとめ役の女に同じ仕打ちを受けたらしい。芙蓉はひとまず、こめかみを押さえる彼女と自分の怪我を魔術で治療することにした。


「手間をかけるな。でもありがとう、君が一緒で心強い」

「こちらこそ。私も一人じゃなくてよかったです」


 傷が塞がると、カティアは立って牢内を見回り始めた。ぺたぺた石壁を触り、格子の強度を確認するように数回蹴る。また、小石を投げて二人以外の存在の有無を確かめた。


「……なるほど、ここには我々だけみたいだ。とはいえ、こうして生かされているのは後で何かに利用されるためかもしれない。彼らが来る前に脱出方法を考えよう」

「はい。でも手がコレなのは不便ですよね……何か切るものがあればいいんですが……」

「身包み剥がされているからな……」


 どちらも服だけを身につけている状態だった。カティアなどプレートの胴衣を外されているため、夜着のような薄手のチュニック一枚。それでも彼女は「見られて困る鍛え方はしていない」と堂々としていた。

 どうやら一通りの武器や防具を持っていかれてしまったようだ。ポーションの入ったポーチも、ニシェルが挿してくれたダリアもない。当然料理用の小型ナイフすら没収されていて、芙蓉はため息を吐きかけ──ふと気がついた。


「石って、刃物の代わりになりますよね?」


 歴史の教科書に載っていた石器を思い出す。多少作りが荒くとも、摩擦熱が手伝えば切断できる可能性があるかもしれない。

 芙蓉は石壁に魔力を流し込み、拳大の石を切り離した。そして一部を削って刃のように尖らせ、出来上がった石のナイフをカティアに渡す。試しに縄を擦ってもらったところ、時間はかかるが一本目を千切ることができた。


「あああ切れた! よかったー!」

「フヨウはさすがだな! 隊に勧誘してもいいか?」

「こ、光栄ですがお気持ちだけで充分です……!」


 二人はなるべく物音を立てないよう、しかし素早く石を往復させる。

 何十回目かの繰り返しの最中、不意にカティアが問いかけた。


「聞きたいんだが……君の魔術はどこまで可能なんだ?」


 例えば、と視線が真横の石壁に移動する。彼女のその提案に芙蓉は目を見開いた。



       ◆ ◆ ◆



 ノン集落の住民である男達は、ランプを掲げながら階段を降りていた。会話は最低限のみで、全員が脂汗を滴らせながら眼をぎょろつかせている。呼吸は急いていて狂い気味。誰もが「何か」に追い立てられるように一心不乱に地下を目指している。

 やがて階段が途切れ、石壁に囲まれた空間が現れた。真正面の突き当たりには鉄格子があり、その中には目的のものが入れられている。彼らはゴクリと唾を飲み込んだ。ランプを抱え直し、汗を拭って進む。


「…………え」


 鍵を取り出そうとした指先が空を掻いた。隣にいた男がランプを格子に叩きつけ、内部を照らす。別の男も壁から松明を外した。


「……おい、おいおいおい何でいねえんだよ!?」

「どこ行った!? は、早く鍵開けろ!」

「待てって……!」


 濡れて滑る鍵を何度も掴み直す。動揺が伝わり、鍵穴が激しい金属音を鳴らした。

 ようやく開かれた扉の先では、やはり目当てのものが忽然と消えていた。


「穴開いてんぞ!」


 一人が牢内の石壁を指した。ぽっかりと空いたスペースは大人が腹這いになって何とか入れそうなほどだ。男達の顔色はみるみる真っ青になった。


「だから魔術師なんてさっさと喰っちまえばよかったのに!」

「しょうがねえだろ、女は後にしたいって言うんだから! お前今の言いに行けよ!?」

「ふざけんな、お前らも道連れだよ! 連帯責任だろ!」

「やめろって、とにかく探──ぐっ!?」


 鍵を持っていた男の背がどつかれた。前のめりに飛び出した勢いで二人を巻き添えに転び、三人は牢内にどっと倒れ込む。

 鉄格子の甲高い軋みに慌てて顔を上げる。扉の向こうには女が二人立っており、うち赤毛の方は見覚えのある鍵を握っていた。彼らはそこで閉じ込められたことを思い知る。

 彼女達の横の壁には牢屋と同じ穴が開いていた。


「お……おま、おまえ……!」

「上手くいったな。では塞いで行こう」

「はい」

「待てッ!!」


 ほとんど悲鳴だった。びくともしない鉄格子を額にめり込ませ、男は隙間にねじ込んだ鼻から汁を垂らしている。


「た、たのむから、に、に、にげ、逃げるな、頼む、頼む、うう」


 涙が、洟が、唾液が、ぼたぼたと地面を抉る。とうとう下履きの裾からも流れてきた液体に芙蓉は後ずさった。

 瞳孔が完全に開いた、紛れもない恐怖の感情だった。人としての尊厳すら蹂躙されるほど、彼らはその「何か」に怯え、支配されている。尋常でない三人の恐慌状態に中てられ、上手く息が吸えなくなっていく。


「出せよぉ! 出せええエエエエ!」

「あ、あ、あ、おねがい、おねがいします、にげないで、にげないで」

「塩を揉み込んで、葉っぱでくるむんだ、それが一番おいしい、じゃないとおれもおいしくなる、ああ~~どうしよう~~」

「……行くぞ」


 カティアに手を引かれ、牢屋に背を向ける。わんわん反響する慟哭に後ろ髪を引かれるような気がして、芙蓉は強くかぶりを振った。いつまでも脳裏にこびりつきそうな声だった。



       ◆ ◆ ◆



「大丈夫か?」

「はい……ちょっと、びっくりしましたが……」

「そうだな……どうもノン集落ここには事情があるらしい。先の失踪事件のことは知らないと言っていたが、もしかしたら無関係ではないかもしれないな」


 地上へ出ると、辺りは陽の陰った森に包まれていた。集落の景色はなく、どこか別の場所に移送されたらしい。

 問題はここがどこなのか、だ。土地勘がない夕闇をちっぽけな石のナイフで行くには、先程の男達の様子が衝撃的過ぎた。もしも暗がりから突然その「何か」が現れたら。そう考えただけで身震いする。

 しきりに目玉を動かす芙蓉を落ち着かせるように、カティアは肩を擦ってやった。


「不安なところに長くいさせてすまない。でもわたしがついている。兵として必ず君の安全を約束するから、どうかもう少しだけ頑張ってくれ」

「……はい。ありがとうございます」


 頼もしく優しい言葉に胸が温かくなる。民を守る衛兵の長らしく、カティアは常に誠実で慈悲深い。スタニクはなぜそんな彼女に突っかかるのだろうか。


「……さて。ここから離れたいのはやまやまだが下手に動けないな。ただ、朝までこのままなのもまずい」


 カティアがブーツの内側から赤い玉を取り出した。小指の先端くらいのそれは、救難信号を発する支給の煙玉だという。


「これで気づいてくれればいいんだが──」

「ケルッ」


 ──心臓が凍った。木々の間から、こちらを覗く猛禽の双眸が光っている。


「ギ、ギギ」

「クルルルルッ」

「なんで、ここに……」


 ざわめく葉の音と木霊する鳴き声の輪唱。見渡せば、枝に食い込む太い鉤爪がずらりと並んでいる。人間に似た相貌が、人間には成し得ない関節の曲げ方で逆さまになっていた。


「ギギギ……ギャァァアアアッ!」

「下がれ!」


 飛びかかってきたハーピーをカティアがいなす。拍子に煙玉が零れ落ち、跳ね返って割れた。もくもくと昇っていく赤い煙に魔物達は威嚇するが、攻撃性のないものだと悟るや否や、一斉に飛び立って旋回を始めた。瞬く間に空へ浮かび上がる乳白色の渦が信号を取り囲んでいく。

 二人は悔しげに天を睨んだ。


(十? 二十? わからない、とにかく多い! どうにか降りてくれば……何かで注意を逸らす? ああどうしよう、早くしないと風で煙が散っちゃう──)


 はた、と思い当たる。魔術師の才能たる示現性と行使力は、全ての想像を魔力で形にするのだということを。


(大神官とヘレネさんに見せてもらったでしょ……鋭利で、どこまでも伸びて、何でも貫く槍……まともに刺されば御の字だけど、せめて地上に叩き落とせれば──!)


 カティアは見た。つい先程まで縮こまっていた魔術師の卵が背筋をピンと張ったのを。その瞳に、闘う意志を確かに宿したことを。

 揺らめく空気の中、芙蓉の掌が地面に打ちつけられた。刹那、ゴゴ、と足裏に感じる振動。地震の前触れのような予感を打ち破り、地中から複数の物体が射出した。

 それは槍というには少々不格好だった。粗削りで凹凸だらけ、尖りきれないただの棒もあり、おまけにモグラみたいな生物すらくっつけている。大神官の流麗な武具のような見た目や、ヘレネサイアの攻撃性能の高い先端には遠く及ばないものだった。

 けれど、ハーピー達を散らし、注意を惹くには事足りた。一部はそのうちの何体かに激突して撃ち落としたらしい。カティアがすぐさま身を翻し、のたうち回る数羽に石のナイフを突き刺した。


「ギギャ──ッ!」


 醜く歪んだ形相が吠える。髪を逆立たせ、振りかざした脚は魔術の石盾に阻まれた。そこへ死角から岩槍が伸びる。体勢を崩したハーピーは足首を掴んだカティアに引きずり降ろされ、胸の中央を穿たれた。


(いける……!)


 盾も槍も機能している。魔力配分にさえ注意すれば、と意気込んだ芙蓉の身体を落雷が駆け抜けた。


「ぎっ……!?」

「フヨウ!!」


 顔面からどうと倒れる。フラッシュが焚かれたように目の前がチカチカして、頭の中で割れんばかりの拍手が鳴り止まない。後頭部がじくじくと熱されている感覚だけが鋭くあった。

 彼女の横には拳二つ分ほどの岩の塊が落ちていた。頭上に舞い降りた一羽のハーピーが邪悪にほくそ笑む。

 ──そして、うつ伏せの芙蓉に凶悪な爪が迫る。


「やめっ──」


 勝ち誇った表情のハーピー、その首に銀色の線が走った。


「ケル……?」


 にわかに溢れ出す体液。反動でずれた首が滑り落ちたが、体躯は宙に留まっている。不思議な光景と閃く刀身の軌跡に、カティアは思わず見入ってしまった。


「何してんすか」

「うわっぷ!?」


 突如視界が遮られる。引っかけられている重い布のようなものを焦って取り去ると、すぐ傍にくすんだ金髪がしゃがみ込んでいた。


「大丈夫っすか。応急処置くらいならできますけど」

「だいじょうぶ、です……自分で治せるので……」


 弱々しい応答が絞り出される。我に返ったカティアは芙蓉に駆け寄った。


「フヨウ! フヨウ! 大丈夫か!?」

「はい……イタタ……」

「いいからアンタはそれ着ろよ。いつまでそんな恰好してんすか」


 投げつけられたのはスタニクの胴衣だった。ぶっきらぼうな部下にカティアは首を傾げる。


「わたしはなくても大丈夫だぞ? 君こそ着ていないと危ない」

「アンタが裸みたいな方が危ねえっつの! 隊の風紀乱してんのが誰か報告してもいいんすか!?」

「風紀? わたしみたいなのにどうこうなる奴はいないと思うが……まあいいか。ありがとう、スタニク。無事で何よりだ」


 スタニクは口をぱくぱくさせ、八つ当たりするように瀕死のハーピーに止めを刺した。芙蓉は魔力を患部に集中させながら、心の中でそっと手を合わせる。カティアに皮肉は通じないのだ。


「ゲブッ」


 また一羽、堕ちてきた魔物が目と鼻の先に転がる。どれも一様に驚いたような表情だった。そのあまりに巧みな短剣捌きは、死んだことを自覚させる暇がないのかもしれない。


「凄まじいな……」


 感嘆と、わずかな畏怖を孕んだ口調だった。見上げる先には雪のように舞い散る羽根と、次々に墜落していく魔物達。それは、ともすれば追放された堕天使の成れの果てのような有様だった。

 いつの間にか、あれほど鳴り響いていた癇声かんごえが一つも聞こえなくなっていた。


「…………フヨウさん」


 剣を収めたルシュが跪いた。フードの隙間から見える眼差しは昏く悲しい色をしていて、芙蓉は反射的にきゅっと口角を持ち上げる。


「よかった、会えた……ありがとうございます、ルシュくん。怪我はありませんか?」

「……俺は……俺のことは、いいんです……フヨウさんが……あの時ついていかなくてすみません……」


 芙蓉の怪我はすっかり治っていたが、ルシュの目線は逸らされなかった。傷はなくとも、服に染み込んだ血や手首の縄の痕からどんな目に遭ったのか想像できてしまう。それなのにこの雇い主は「治ったから平気」と笑っている。

 あの時ビンズの村と同じだ。完治すればそれで終わりなわけじゃない、傷ついた精神がまだ癒えていないことはわかるのに、あの男が「探るのは越権行為だ」と脳内で糾弾する。どうしたらいいのだろう。彼女に出会ってから時々こうした真逆の感情に引き裂かれそうで、ルシュはその度に動けなくなる。

 俯く少年にあたふたしている芙蓉を見かね、カティアが両手を打ち鳴らした。


「お互い積もる話はあるだろうが、一旦ここを離れよう。スタニク、道はわかるか? 案内を頼みたい」

「へいへい──」

「戻れ貴様らッ!」


 怒声が静寂を切り裂いた。振り返ると、ランプや松明を抱えた集落の面々が息を切らして走ってくる。


「どうやって檻を、いやどうでもいい、今すぐ戻るんだよ! 早くっ!」

「塩は!? 味はつけたのか!?」

「わからんからもう一回だ! とりあえず男は殺しておけ!」


 彼らは慣れた手つきで農具や包丁を構える。もう幾度となく繰り返されてきたことなのだろう。集落への来客を監禁し、時には殺し、味とやらをつけることが、例の失踪事件と繋がっていることは誰の目にも明らかだった。


「もう喰われるのはたくさんだっ!!」


 彼らの中に正気はない。この集落の全ては恐怖と狂気に呑み込まれていた。

 見切りをつけた一行は立ち上がり、臨戦態勢を取った──その時だった。


「おお~~~い、ごはんまだか~~~?」


 ずん、と世界が震動した。

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