第23話 あなたは私を騙すことができない②
ぽた、と赤い滴が落ちる。ニシェルの顎から伝うそれは、彼女の服や靴にいくつもシミを作った。当の本人は気にした風もなく、機械的に咀嚼を繰り返している。
「ま……魔物を食べる人もいるんですね……」
「……俺も初めてです」
「あまり近づかないで」とルシュの腕が遮る。互いに首筋の汗が鬱陶しかった。
無表情のニシェルが何かを吹き出した。地面を跳ねる骨の欠片にいたたまれないような気持ちになり、芙蓉はへらりと笑う。
「あの……もしかして食べるもの違った……?」
一瞬、ニシェルの瞼が閉じられる。次に開けた時、その瞳は普段のブルーブラックから宝石のようなエメラルドグリーンに変化していた。
「──そうでもないわ。
薄い唇が皮肉げに弧を描く。初めて耳にする口調だった。声色は間違いなくニシェルのものだが、鋭い圧のある大人びた物言いは彼女の年齢と遥かに乖離している。二重人格というよりは、まるで誰かがその身体に移り住んだと感じるほどに。
存在感もまた圧倒的だった。静止していればマネキンの如きニシェルとは反対に、今の彼女は立っているだけで関心を惹きつける。ざわりと総毛立つような、意味もなく落ち着かなくなるような。神秘的で畏怖の念を抱かざるを得ない貫禄があった。
「あなたは……ニシェルちゃん? それとも──」
「名乗る気はないわ。今ここにいるのも、
わめいたニシェルの瞼がエメラルドグリーンを覆う。現れたブルーブラックの少女は「フェリア……」と呟き、もう一度目の色を変えた。
「フェリア?」
「……正しくはフェリアドールよ。全くもう……」
妹に振り回される姉みたいな顔でフェリアドールは嘆息した。不思議な気配とは裏腹に、疲れたように血を拭う仕草はどこか人間臭い。
「さて、悪いけど私達はお暇するわ。そろそろ
「限界、というのは……さっきの女性のこと?」
「そ。母親からそう思われたら、人間の子供ってもうおしまいでしょ。だから行くのよ」
あっけらかんとのたまい、フェリアドールはくるりと方向転換した。二人は慌ててその後を追う。
「ちょっ、ちょっと待って、どこ行くのっ?」
「どこでもいいでしょ──あ、こら! ニシェル!」
途端、全身が錆びついたようにフェリアドールの挙動がぎこちなくなった。中途半端に上げた足が地に降りれずに固まっている。どうやら身体の主導権は両者にあるのか、一方の独裁は通じないようだ。
ギギギ、とロボットじみた腕がポケットを探る。その行動に気づいたフェリアドールの目尻が吊り上がった。
「ちょっと……諦めなさいって言ったわよね、私。見たでしょ、あの人達の顔。もう無理なの」
止めようとするフェリアドールと動かそうとするニシェルが拮抗し、取り出された橙の花はぶるぶると揺れている。
「受け取ってもらえるわけないでしょ。仕方ないの。いいからそれ離しなさいって……!」
手放そうとする力と握り締める力がせめぎ合う。茎が折れ曲がりかけ、芙蓉は焦って声をかけた。
「ニシェルちゃん、その花がどうかしたの? 誰かに渡したい?」
「ああ、ちょうどいいわ。これ渡してきてくれない? この子の母親、わかるでしょ。ねえニシェル、それでいいわよね?」
全くもってよくないらしい。「ちょっとー!」と叫んだフェリアドールと入れ替わり、虚ろな眼差しの少女が花を両手で包んだ。
芙蓉は腰を折り、目線を合わせて問う。
「……お母さんに自分で渡したい?」
「ん……」
「わかった。私、お母さんとお話してくるね。ニシェルちゃんのお土産受け取ってくださいって」
ルシュも頷いてみせた。たとえ人間でなかったとしても、その想いは人間のそれと変わらない。彼女は母親が好きで、喜ぶ顔が見たい普通の幼子なのだ。
だから芙蓉は力になりたかった。目の前の願いだけでも叶えてやりたかった。ニシェルが本当の意味で幸せになれないと、痛いくらいにわかっていたから。
◆ ◆ ◆
ルシュとニシェルに外で待機してもらい、芙蓉は単身で再度村の土を踏んだ。
四方八方から視線で追われながら、どうにか彼女の生家に辿り着く。ノックしようとした矢先、玄関前にいくつも並ぶ茶色く干上がったものに気がついた。花だ。それも全て同じ、ユリのような形をしていた。
ニシェルが置いたのだろうか。思わずしゃがみ込んだ芙蓉の頭上に影が差す。
「…………何か用?」
「、あっ、すみません突然!」
扉の奥から、鼻頭に皺を寄せた女が首を出していた。濁ったブルーブラックでじっとりと芙蓉を見下ろしている。
「初めまして、芙蓉と申します。この度は差し出がましいことをしてしまい、申し訳ございませんでした。ただあの、お子さんがどうしてもお母さんにお渡ししたいものがあると──」
「あんなの、もうアタシの子供じゃない」
温度のない声音だった。言葉に詰まる芙蓉へ、ニシェルの母親は吐き捨てる。
「今までほとんど喋らなかったのに急にべらべら話し出すわ、異様に食べるわ独り言が多いわで気味悪いったらありゃしない。夜は灯りもつけずにニタニタ笑って……おまけに魔物なんか食べてるのよ!? 普通の子供がそんなことする!?」
「っ、それは……」
「あれがそんなことするから、魔物の仲間が怒って報復に来てるんじゃないかってアタシまで疑われて……旦那が死んでから嫌なことばっかり……アタシが何したっていうのよ……」
心底疲弊した様子で母親はため息を吐いた。よく見れば酷い隈をこさえている。彼女にもまた困惑と抵抗があるのだろう。血の繋がった子供を置き去りにするほど、突然訪れた非日常に母親自身も壊れかけているのは感じ取れた。
それでも、と芙蓉は思う。おそらくこれが親子の最後の逢瀬になる。母親はニシェルを諦め、そんな彼女をフェリアドールが連れ去ろうとしているのだ。せめて少しでも誤解が解ければ、それぞれにわずかでも救いがあるのではないか、と。
「……戸惑われるのも無理はないと思います。でもニシェルちゃん、それを見つけてずっと嬉しそうにしていて……自分であなたに渡したいって言ってたんです。お母さんが好きで、お母さんの喜ぶ顔が見たいのは、今までの彼女と変わらない部分ではないでしょうか」
「…………」
「お願いします。一目会って、ニシェルちゃんから受け取っていただけませんか」
母親の眼がじっと芙蓉を映す。芙蓉も目を逸らさなかった。二人の間に静寂が流れ──次いで雷のような怒号が轟いた。
「魔物だぁ──ッ!!」
擦り切れた悲鳴を上げ、村人達が上空を仰ぐ。
芙蓉は一時、ただの鳥の群れかと空目した。風を叩く両翼やどっしりとした三前趾足が巨大なハゲワシを連想させたのだ。けれど、驚くべきはその頭部だった。鳥の下肢から続く上半身と顔貌が人間の女に酷似しているのである。
怪鳥・ハーピー。魔石を持つ鳥の魔物で、空中からその鋭い爪で獲物を急襲する。肉食かつ残虐な性質があり、特に武装していない者や弱そうな者は率先して狙われやすい。
つまり村人達は格好の標的だった。羽根と髪を撒き散らし、ハーピー達は嬉しそうにひしゃげた鳴き声を響かせる。
「全員家に入って! 窓を閉め──ぎゃっ!?」
一羽のハーピーが村人に襲いかかった。至近距離で吠え立てて鼓膜を破き、その肩に鉤爪を食い込ませる。そこに一羽、もう一羽と加わり、寄ってたかって持ち上げようとした刹那──地中から石の塊が飛び出した。
執拗な攻撃が中断され、女はおそるおそる薄目を開ける。自身の頭から爪先までをハーピー達から遮るそれは、紛れもない石の盾だった。
「ケルルルッ」
「ギ、ギッ」
魔物達は首を傾げて辺りを見回し、その魔力溜まりを捕捉した。柔らかい肉の生物、内に流れる魔の力、あまつさえ武器の一つもない。三羽は唾液を垂らして不気味にほくそ笑んだ。
新たに餌と定められた芙蓉の背筋を悪寒が這う。直後、背後から強い力で肩を掴まれた。
「入って!!」
壊れそうな勢いで母親が入り口をせき止めた。板とテーブルで固定しても、不快な絶叫と蹴りの連打に木製のドアが軋んでいる。
別のハーピーが家の側面の窓を割った。凶悪な爪が窓枠を掴み、体躯をねじ込もうとしている。その隣の窓にはさらに違う個体が見えた。
ギャアギャアと囃し立てるようにハーピー達が鳴いている。三羽どころではない、群れの全てがこの建物の周りに集まってきていた。あちこち破壊される音が耳に飛び込んできて、芙蓉の血の気が引いていく。
(だめだ、このままじゃ侵入される……! 私が外に出るしか、でもどうやって──)
とうとう、扉の中央に穴が開いた。母親が短く叫んで口を押さえる。突き出されていたのはハーピーの脚──ではなく、真っ赤に濡れた小さな手刀だった。
「おかあさん」
大人しい声量は相変わらず。ただし、その口振りには戦士のような勇ましさがあった。
「わたしがまもるから、なかないで」
けたたましい威嚇が一斉に響き渡った。
吹けば飛びそうなほど幼い少女の腕から、ずるりと死骸が抜け落ちる。魔物の強化された皮膚を素手で貫く、普通の人間ではありえない膂力にハーピー達は身構える。
その後ろから、銀の短剣が眉間を貫通した。
「ギ、キ……」
横薙ぎに払われた刃がハーピーの右目を切り裂く。そのまま別の一羽の顎下に突き刺し、ぐらついた首をルシュは容易く折った。
流れ作業のような殺され方だった。目の当たりにした明らかな力量差に、ハーピー達は後退する姿勢を見せる。この魔物が非武装者や弱者ばかりを狙うのは、武装した相手や実力者には仕掛けられない臆病な部分があるためだった。
強者二人はそれを見逃さず、慈悲も与えなかった。特にニシェルの闘争心は凄まじかった。羽もないのに空中を飛び回り、空が主戦場のはずのハーピーを捉えてはその胴体を上下に泣き別れさせた。逃げようとすればどこからか突風を呼び、魔石ごと細切れにした。終始エメラルドグリーンがギラギラと光っていたが、間違いなく内側からの殺意が滲み出ていたと芙蓉にも理解できたほど。
ご愁傷様。避けられないハーピー達の運命に、芙蓉は半目で呟いた。
◆ ◆ ◆
「フヨウさん、終わりました。大丈夫ですか?」
「はい、私は無傷です。ありがとうございます」
ようやく外気に触れた芙蓉は、嵐が過ぎ去った後のような光景に冷や汗を流した。およそ三十羽ほどのハーピーの骸と夥しい羽根、そして血痕があらゆる場所に飛び散っている。修復と掃除が大変だ。
ニシェルの母親も、芙蓉に続いておっかなびっくり家を出た。靴の裏の水っぽい感触が気持ち悪い。
「おかあさん」
文字通り飛び上がってしまった。振り向けば、我が子だったはずの少女が花を一輪持っている。
「これ……あげる」
血まみれの手のせいで花弁も斑に汚れている。お世辞にも綺麗とはいえないそれを、彼女は特別な宝物のように差し出した。
「…………」
母親は無言でそれを見つめる。芙蓉は彼女の数々の発言を辿り、いっそニシェルの耳を塞いでおいた方がいいのかもしれないと思案した。身を挺して肉親を守った彼女に、これ以上残酷な言葉をぶつけないでほしかった。
誰かの喉が鳴る。赤くくすんで尚咲き誇る花を、震える指先が恐々となぞり──。
「あ……」
母親が、受け取った。
「…………っ!」
ニシェルの頬がぱっと上気する。彼女の願いは、至上の人によって聞き届けられたのである。
そうして顔を赤らめたまま、一人娘は弾んだ声で笑った。
「ばいばい!」
唸りを上げて疾風が吹きつけた。土煙が巻き上がり、反射的に瞼を閉じる。再び開けた時には、その子供は幻のように影も形もなくなっていた。
それ以降、トーハの村人がニシェルという少女を見かけることはついぞなかったという。
◆ ◆ ◆
ニシェルの記憶は曖昧だ。年齢のせいもあり、そこまで深く物事を考えられず、一から十まで覚えていられるわけでもない。
けれど、父親がいなくなった日のことは克明に呼び起こせる。母親が溶けて消えてしまいそうなくらい泣いていたからだ。
彼女の一番が父親であることを、ニシェルは幼心に知っていた。だから悲しむのは当然だと思っていたし、自分が視界に入らないのも納得できた。でも、できることなら元気でいてほしかった。ニシェルは彼女が大好きで、笑いかけてくれると幸せだったから。
そのためにすべきことだと考え、ニシェルはあの日そこに登った。村外れの崖に咲く大輪、あれを持ち帰ればきっと母親は手放しで喜んでくれる。父親が記念日に渡す花束を、彼女は涙ぐんで受け取っていたのだ。
──その瞬間のことはどうしても思い出せない。気がつくとニシェルは家に戻っていて、自分の中に別の存在がいた。名をフェリアドールといい、「身体を借りる」と彼女は告げた。
それからというもの、ニシェルの生活はすっかり変わってしまった。所構わずフェリアドールと姉妹のようにお喋りし、食べても食べても腹を空かせ、暗闇でもすいすい移動できる自分を面白がった。
今なら何でもできると思った。あの険しい崖すら、フェリアドールの能力でひとっ飛びなのだ。たくさん花を摘んで家中に飾ったら、夫がいなくても母親は笑ってくれるに違いない。
なのに──彼女は一本たりとも受け取ってくれなかった。
「気は済んだ?」
頭の中に木霊する涼風のような声。退屈そうに頬杖をつく緑の妖精の姿が、ニシェルにはありありと想像できた。
うん、と返事をすると、両腕を目一杯伸ばしたみたいに声は言う。
「じゃ、今度こそ行きましょ」
言いざまが旅慣れた根無し草のそれだった。その通りだ。この妖精に家へ帰るための羽はない。
返事をしようとしたニシェルは、自身の気道が団子結びでもされたように詰まった気がして、足を止める。
「…………」
覚悟していたつもりだった。花を渡すことだけを楔に戻ってきて、それを受け取ってもらえたら心残りはなくなるはずだと。
なのにどうしたことだろう。返事ができない、足が動かない──旅立ちを受け入れたくない。
「……ぉかあ、さん……おかあさん……っ!!」
景色が滲む。鼻の奥がツーンと痛んで、口角が引きつった。
本当は、花なんて玄関先に並べられたままでよかったのに。そうしたら、どれだけ遠いところにやられたって、何度だって帰ってこられたのに。
受け取られてしまったから、もうどんな言い訳も聞き入れてもらえない。
「……意地悪で言ってるんじゃないの、本当にこれ以上は無理なのよ。ねえ、泣かないでよ……」
声の主は人間のように困っていた。彼女の優しさはわかっていたけれど、どうしても涙が止まらない。
水の中かと錯覚するほど目の焦点が定まらない中、不意に誰かに包まれた気配がした。温かい掌が幾度も背を擦る。怖い夢を見たニシェルを宥めてくれた、いつかの母親の手とそっくりだった。
ああ、ならばこれは彼女だ。もうずっと夢みたいなことばかりだから、慰めに来てくれたのだ。ニシェルは顔中ぐちゃぐちゃにして、家族だった頃の母親の面影に縋りついて笑った。
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