第22話 あなたは私を騙すことができない①

 オリーブオイルを吸ったバゲットが甲高い音で熱されていく。ルシュは時折それらをひっくり返し、両面がこんがりするのを待っている。

 ビンズの村を出発して二日。出掛けに購入したバゲットがかなり固くなってきたため、夕食に食べやすくアレンジしようと二人は決めた。今夜は主催者二名、参加者二名、飛び入り参加ウェルカム(ただし魔物は除く)のバゲットパーティーである。

 ルシュがバゲットステーキを焼いている間、芙蓉はスープを仕上げていた。魔力で育てたタマネギを薄切りにし、しんなりするまで炒めてから作るオニオンスープ。バゲットとの相性も良く、グラタンスープにすれば腹持ちも良い。


「フヨウさん、こっちもう少しで空きます」

「了解です!」


 こちらも頃合いだ。芙蓉は鍋から離れ、荷物からトマトの種を取り出して地面に埋めた。その場に魔力を込めると、みるみる成長した茎があっという間に芙蓉を追い越す。支柱代わりに傍の若木へ括り付け、鮮やかな赤色を慣れた手つきでもいだ。

 トマトを受け取ったルシュは、トッピング用とソース用にナイフで切り分けていく。彼は刃物の扱いが非常に巧みだった。芙蓉は空いたフライパンでオニオンスープ余りのタマネギを炒めながら、横目でこっそりとその技を鑑賞する。

 炒め終えたタマネギにトマトを加え、調味料とハーブを足して煮込む。ここに酸味を和らげるためのハチミツを混ぜたらトマトソースの完成だ。後はバゲットの上にこのソースを塗り、野菜類や燻製ベーコン、チーズを乗せればピザトーストになる。

 蓋の中で焼き上がりつつあるバゲットを囲み、二人はとろけたチーズの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


「いい匂いですねー……明日の朝はどうしましょうか。甘いのとかできるかな……」

「チョコがありますよ」

「あああそれ絶っ対おいしいやつ……バゲットカリカリに焼いてラスクみたいにして塗りたいやつ……」

「あとは……あっちにミラベルが生ってたので、そのまま乗せるか煮て塗るか」

「……両方いきませんか?」

「そうしましょうか。でもその前に──」


 ルシュの手には短剣が握られていた。芙蓉が目を見開くと同時に、漣のような揺らぎが結界に走る。息を飲み、構えるルシュの背後でおそるおそる立ち上がる。

 ──今、何かが通り抜けた。

 張り巡らせている結界は、ある程度の大きさの存在を感知する。特定の相手を弾く等、エウリヤナほどの技量がない芙蓉にできる最大限の効果だった。幸いにもこれまでは動物がせいぜいで、魔物に襲われたことはない。

 その幸運はルシュの助力のおかげでもあった。獣人の血による鋭い感覚は、結界に近づくものを敏感に察知しては「ウサギですね」「大丈夫、ただの鳥です」と武器を取り出すまでもなく芙蓉を安心させた。

 そんな彼が身構えている。ただならぬ空気に、芙蓉も呼吸を潜めて五感を研ぎ澄ませた。

 日はとっくに暮れており、木立の合間は真っ暗で何も見当たらない。けれど、耳に届くかすかな足音に肌が粟立つ。


(近づいてくる……!)


 やがて、それは大木の後ろからぬるりと現れた。

 ぽかんと口が開く。そこにいたのは、掴めば折れてしまいそうなほど細い手足に小さな頭、ぼんやりとした眼差しでこちらを窺う──幼い子供だった。


「え、どっ、え……どこ、どこから来たの……? お父さんとお母さんは……?」


 芙蓉は噛み合わない歯の根で問いかけた。女の子が一人で出歩くにはありえない時間帯だ。足や影は確かにあるが、人間に化ける魔物がいるというこの世界に、五体満足の「ゆ」で始まり「い」で終わるものがいないとも限らない。

 問いには答えず、少女は棒立ちのまま動かない。ルシュに視線を向ければ剣は下ろされていて、ひとまずの臨戦態勢は解かれたようだった。しかし、そのキトンブルーは彼女の一挙一動をつぶさに監視している。

 ──不意に、「グウゥ」と何かが鳴いた。


「…………っ」


 少女が慌てたように腹部を押さえる。その仕草にはっとした芙蓉はフライパンの蓋を開け、黄金の糸を引くバゲットを差し出した。


「う、ウェルカムトーストです」


 何せ今宵はバゲットパーティー、飛び入り参加募集中なのだから。



       ◆ ◆ ◆



 少女は大変よく食べた。ピザトーストを五切れ頬張り、スープを三杯お代わりし、それでも足りずにバゲットステーキを食べ尽くした。芙蓉とルシュは朝食用のチョコを溶かす羽目になったが、それも半分ほどは彼女の胃袋に納まってしまった。


「お腹いっぱいになった?」


 こくん、と首が振られる。少女──ニシェルは一度名乗ったきり喋らなかったが、隣に座ることに抵抗はないようだった。芙蓉とルシュの間に腰掛けた彼女は無表情で腹をさすっている。


「もしかして、お父さんお母さんとはぐれちゃったのかな? お家は近く?」

「…………」

「ごめんね、帰りたいよね。でも今日はもう真っ暗で危ないから、ここにいてくれる? 明日の朝、お家まで送っていくね」

「…………」

「大丈夫、すぐご両親と会えるよ」


 反応は乏しいが、ブルーブラックの双眸には芙蓉が映っている。無口なのが不安故か生来の性格かは不明だが、言葉の意味は理解できているようなので問題ないだろう。芙蓉はそう結論付けて、少女の身体をマントで包んだ。


(五、六歳……くらいかな。ご両親も心配してるだろうな……)


 今やどう見ても普通の人間の子供だった。頼もしい護衛の警戒がなかなか解けなかったのは、夜の森を徘徊する少女という非日常的な光景に遭遇したためだろう。

 寝かせたニシェルから距離を置き、地図を広げて現在地を確認する。ここから一番近いのは半日ほど歩いた距離にあるトーハという村だ。


「ここの子ですかね……でも随分遠いなあ……」

「あるいは誰かと移動中にはぐれたか。装備が近距離向けです」


 ニシェルの背負っていた革袋には、少々の着替えと水袋、そして食べ終えた果実の芯が入っていた。ルシュの言う通り、保護者と小旅行の最中だったという線もあり得る。それならばあまり大規模な移動はしない方がいいかもしれない。


「親御さんが捜してるかもしれないですね。とりあえず、聞き込みしつつ一旦屋根のあるところに行きましょうか」

「はい。トーハでも見つからなければ知らせを出しましょう。衛兵が保護してくれるはずです」


 背中越しに密やかな相談が交わされる。彼らの囁きに耳をそばだてる少女の眼は、瞬くことなく闇夜を見つめていた。



       ◆ ◆ ◆



 翌朝の少女も大変よく食べた。ハチミツやミラベルを乗せたバゲットラスクをぺろりと平らげ、くり抜いたバゲットにジャガイモとチーズを詰めたものもスープ片手に流し込んだ。さらに追加で仕留めた鳥も二、三羽調理することになり、芙蓉とルシュは朝から大忙しだった。

 ようやくニシェルが満足し、三人は街道に出て馬車を拾った。そこで彼女は昨夜振りに声を発し、トーハからやって来たことを話したので、彼らは村を目指すことにした。

 おそらくピクニックか何かに出かけ、迷子になってしまったのだろう。子供の行動力は案外思いがけない場所に本人を連れていくこともある。何はともあれ、行先が判明したことに芙蓉とルシュは安堵していた。


「さて、そろそろお家に着くよ。この辺り見覚えあるかな?」


 トーハの村は小高い山々の麓にあった。ニシェルを覗き込むと、彼女はきょろきょろと周囲を見回している。そして何かを見つけたのか、繋いでいる芙蓉の手を何度も引っ張った。

 指差した先が示すのは、仰向けに転がりそうなほど高く聳え立つ崖と、その中腹にある橙色の花だった。大きな花弁がユリに似ている。


「わあ……崖でもちゃんと咲くんだねえ。あれが欲しいの?」


 いつになく何度も頷いて主張するニシェル。放っておけば駆け出してしまいそうな様子に、芙蓉とルシュは顔を見合わせた。


「取ってきます」

「ありがとうございます! じゃあ私はお手伝いを……」


 崖の表面に手を添えて魔力を流す。すると一部の岩が形を変え、足場のように盛り上がった。それをルシュの歩幅に合わせ、所々に配置していく。

 足掛かりを蹴って軽やかに登りきったルシュは花を摘み、芙蓉が付近の植物から伸ばした蔓を伝って鮮やかに着地した。


「はい」

「ありがとっ……!」


 受け取ったニシェルが初めて笑った。開けられた大口の横にえくぼができていて、つられた芙蓉の眦が下がる。


「少し元気がないかな? よいしょ、と」


 指先から注ぎ込まれる魔力に呼応し、花が垂れていた頭部を持ち上げる。葉の先端に至るまでぴんと尖ったそれを、ニシェルは嬉しそうに陽にかざした。花が好きなのだろうか。


「お土産できたね。よかった、よかった」


 踵を返そうとすれば、ふと視界に黒いものがちらついた。咄嗟に足を止めた芙蓉をルシュが振り返る。


「フヨウさん?」

「あ、いえ……」


 崖の下、生い茂る草の隙間から覗く地表の跡。既に乾いて砂が混じっているが、こびりついたどす黒さに嫌な予感を禁じ得ない。


「……落ちちゃう人もいるのかなって」

「……そうですね」


 これ以上いると想像してしまう気がして、二人はニシェルの後を追った。

 彼女は柵が張り巡らされた村の入り口に寄りかかっていた。芙蓉達が近づけば、刷り込まれた雛のようにいそいそとその手を掴む。興奮して忙しい芙蓉の表情にルシュは苦笑した。


「ごめんください」


 土埃の舞う村内は寂れた雰囲気だった。木々は枯れかけており、年季の入った建物には色の薄い蔦が力なく這っている。

 呼びかけると、ややあってから数人が顔を出した。来客をもてなそうとしたのか金蔓と考えたのか定かではないが、彼らは不器用に口角を持ち上げて距離を縮め、その存在に気づき──女の一人が金切り声で叫んだ。


「イヤ────ッ!!」


 芙蓉の肩がビクッと跳ねた。髪を振り乱してわめく女は血走った目でを見ている。


「なんで!? なんでいるのよ! まさか連れてきたの!? !!」


 信じられないと言わんばかりの目つきだった。女どころか、村人の誰もがニシェルに後ずさりしている。


(置いてきた……? じゃあ、あれは旅行の荷物なんかじゃなくて──)


 心臓がドクリと脈打つ。餞別にしてはささやか過ぎる中身に、芙蓉は村人達の真意を悟ってしまった。その残酷さに足の先から凍りつきそうで、無意識に繋いだ手を握り直す。

 一方、目の前の彼らどころか、込められた力の感触にさえニシェルは微動だにしない。その瞳には何の感情もなく、花で喜んでいたことが嘘みたいだった。およそ子供らしくない振る舞いに、昨晩の警戒心が再びルシュの中に生まれた──その時だった。

 


「っ!?」


 飛び散る砂利の音が後方で上がる。振り向くと、ルシュの視力でも捉えきれない速さで駆けていく背中があった。


「フヨウさん!」

「え……あれっ!? ニシェルちゃん!?」


 やはり普通の子供ではなかったのか。歯噛みして追いかけるルシュの鼻腔に、今度は嗅ぎ慣れた臭いが漂ってくる。彼は芙蓉を押し止め、腰元の短剣を引き抜いた。

 ルシュが鋭く見据える先には、横たわる鳥のような生物と、その前にしゃがみ込むニシェルの姿があった。一面の血の海に膝をつき、何かをごそごそと漁っている。湿った音がひっきりなしに木霊していた。


「に……ニシェルちゃん……?」


 震える声で芙蓉が呼んだ。途端、ニシェルの動きがスイッチを切ったかのように止まる。ゆっくりと捩じられた顔が露になった瞬間、芙蓉は喉の奥で悲鳴を噛み殺した。

 その口元は、夥しい血液で真っ赤に染まっていた。

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