第21話 すきなひと③

 二人が完全に姿を消すまで見届けた芙蓉は、溜めに溜めた息を全力で吐き出した。


「いやっ、もうっ、すっごい……!」

「よかったですね」

「よかったですよね~~~!! 報われて、本当に……私もう途中何回叫びそうになったか──」


 ──ゴォン!

 目の前に巨大なビアジョッキが着地する。それに這う一分の隙なく磨かれた爪からきゅっと締まった手首、白く優雅な腕をそろそろと辿っていくと、人一人あっさり殺せそうなほどの眼光が芙蓉を捉えていた。


「何てことしてくれたんですう……?」

「ヒッ!」

「上手くいっちゃったじゃないですかあ……長年のあたしの苦労が水の泡ですよお……どう責任取ってくれますう……?」

「うっ……や、やっぱり、そうだったんですね……」

「あン?」


 髪をかき上げたラデルが苛々と下唇を突き出す。一見がさつでも似合ってしまうから不思議だ。どんな仕草も悔しいくらい様になる人間──なのに、それを以てしても意のままにならない相手がいた。


「──好きだったんですね、マレットさんのこと」


 ラデルは無言でジョッキを傾けた。一息もつかず威勢よくエールを飲み干すと、間髪入れず芙蓉の腕を引いて歩き出す。


「ラデルー!」

「ラデルちゃん踊るのー? 俺とどう~?」

「うるっせ──! お前らとは踊らん! 話しかけんなッ!」

「え、お、踊るんですか、私作法わからないんですが、」

「どうでもいいですよ、そんなもの。どうせ皆酔っ払って何が何だかわかってないんだから」


 焚き火台の近くは、むっとした熱気が充満していた。暗闇で火の粉が星のように煌めく。

 ラデルに手を取られ、促された芙蓉は礼をする。滑り出すように始まるダンス。眼前のとんでもなく美しい女が炎の精に見えた。


「……あたし、そんなにわかりやすかったですか」


 伏せられた豊かな睫毛が火に照らされる。いささか強引に回転させられ、芙蓉の首がグキッと鳴った。


「いえ……私も最初はパストルさんが好きなのかと思ってました。でも、あの時……」


 踊る相手が決まっている。その発言によってパストルとの仲が決定的なものだと信じ、耐え切れずに逃げ出したマレットの背中へ、ラデルは拗ねたようにぶつけたのだ。


『そうやって勘違いして、好きな人なんていなくなればいいのに』


 そこで芙蓉は「もしかして」と思い当たった。狂おしい恋慕を無理矢理自分の中に押し止め、綺麗な上澄みだけを視線に乗せて「気づいて」と訴えかける。ラデルの表情が、パストルがマレットに宛てるものと全く同じであることに。


「……ですよねえ。わかりやすかったらマーレだってとっくに気づいてますもん」

「パストルさんの傍にいたのも、誰と踊るか言わなかったのも、マレットさんに誤解させるためだったんですね。あなたが懇意にしているのを見れば、マレットさんの性格なら諦めるだろうと」

「何なんです? 神官って心の中読めるんですか? はいはい、どーせ性格悪いですよ。仕方ないでしょ、マーレが誰かを好きになるなんて初めてだったんだから……」


 幼馴染に捧げた恋心。その全部を火にくべるように、ラデルは過去を思い返す。

 いつ何時も誰より近くにいて、十年以上も一緒に生まれ育った。大人しくて引っ込み思案で、でも底なしに優しくて。ラデルにとって、マレットは世界一可愛い女の子だった。彼女が振り向いてくれないのなら、馬鹿の一つ覚えみたいに褒められる外見なんて宝の持ち腐れでしかなかった。

 それでも、ラデルの容姿は虫を吸い寄せる大輪として機能した。雄が彼女に群がるほどマレットの存在は霞んでいく。ラデルは心底安堵していた。

 ──アイツらにマレットを気づかせなければ、ずっと一緒にいられる。

 マレットは己の可能性を諦めていた。ならば、後はラデルが虫共を一網打尽にしていればいいのだ。誰にも靡かず、誰にも媚びない。ラデルの中にはマレット一人だけだから。叶わなくてもいい、変わらず互いの一番近くにいられれば。

 そんな折、後にラデルの恋敵となる青年が隣村に引っ越してきた。


「あーあ、パストルがあたしに興味さえあればな。マーレの方は一回諦めさせたのに、鈍いわしぶといわで計画狂っちゃいましたよ」

「まさしく愛ですね!」

「……あたし一応失恋してるんですけどお?」

「いひゃい、いひゃい」


 頬をつねられて芙蓉は降参した。ぶすくれたラデルはオモチャを買ってもらえなかった子供のようで、あの鋭い瞳も不思議と怖くはなかった。

 

(選ばれる側にも、同じくらい悲しいことや苦しいことがあるのかも)


 それなら今夜はとことん付き合おう。芙蓉はラデルに声をかけようとする男達を遮って、もう一度深々とお辞儀をした。



       ◆ ◆ ◆



「お世話になりました……!」

「いえいえ、気分は良くなりました?」

「はい、おかげさまで……」


 空の小瓶を握り締め、マレットは恥ずかしそうに縮こまる。ついさっきまで二日酔いに苦しんでいたのだが、芙蓉の渡したポーションですっかり回復したようだ。


「フヨウさん……色々とありがとうございました。昨日のことは、その……断片的な記憶しかないんですけど……」

「?」

「今、幸せだから……もし、万が一騙されてたとしても、いいやって思うんです」


 マレットが蚊の鳴くような声で囁く。握手する手が冷たいのは、不要だとわかっていても張ってしまう予防線のせいだろう。彼女は恋人の存在を実感している一方で、それがかつての体験の再来にならないかと恐れている。


(根深そうだな……でも、何となくわかるな……)


 やっぱり芙蓉は肯定も否定もできなくて、大きく首を縦に振った。

 そこへふらりとラデルがやって来て、「おはよう」とマレットの頭を撫でた。同性の気安さで遠慮なく彼女に触れるラデルを、パストルが複雑そうに横目で見やる。


「パストルさん」

「はい?」

「マレットさん、あなたのことがとても好きだけど、どこか踏み出せていないところがあると思います。たぶん、パストルさんの方がわかっていらっしゃるでしょうけど……どうか辛抱強く待ってあげてください」

「……はい、わかりました。頑張ります、ラデルに取られないように……」


 鬼の形相でこちらを睨みつけているラデルに、芙蓉とパストルは冷や汗を流した。


「じゃあ……皆さん、お元気で」


 手を振ると、急にラデルが大股で近づいてきた。そのまま反転させられ、村の入り口に連れていかれる。どうやら馬車まで見送ってくれるらしい。


「……あたし、ここを出るから」


 ぽつりと零された宣言に、はっとして顔を見上げる。ラデルはちらりと目線を寄越して、悪くなった芙蓉の顔色に苦笑した。


「違うよ、旅人さんのせいじゃない。マーレに好きな人ができてから少しずつそう思うようになったの。……本当はさ、あの二人がくっつくんだろうなって、何となくわかってたんだ」

「ラデルさん……」

「ちょっと、何その呼び方。よそよそしくない? 昨日あれだけ踊った仲なのに。ウチの村じゃもう結婚してるようなものだよ」

「えぇ……そっちこそ『旅人さん』って」

「──フヨウ」

「ウギャーッ! 耳が! 耳がァ!」

「アッハッハッハ!」


 前方に太い街道が現れる。ラデルは、熱い吐息に驚いている真っ赤な芙蓉の背を軽やかに押した。


「まあ? あたしにマーレを諦めさせた責任はまだ取ってもらってないけどね?」

「えー!? いっぱい踊ったのに!?」

「一晩踊ったくらいじゃ、変わるのは呼び方くらいでしょ。こっちは十年以上片想いしてたんだから。半分はパストルに取らせるとしてー、フヨウには何してもらおっかなー?」

「そ、そういえばそうか……すみません、軽はずみに……わかった、私にできることなら!」


 そう向き直った芙蓉があまりに真剣な顔つきで、ラデルは逆に呆気に取られてしまった。


「ちょ、ちょっと……冗談だよ、そんな真剣に取らないでいいよ……」

「えっなんで!? だって、十年本気の人に見合わないのは本当のことだし……」


 「頑張るから何でも言って」と一点の曇りもない眼差しがラデルを貫く。なぜか心臓が揺れたその瞬間、いつも脳裏にいたはずの世界一可愛い女の子を忘れた。突然硬直したラデルに芙蓉は首を傾げる。

 ──違う、ちょっと心配になっただけ。あまりにも疑わないから、よくこれで旅なんかしてるなって呆れただけ。

 生唾を飲んで自身に言い聞かせる。そうして芙蓉を無理に視界から追いやったラデルは、護衛の少年に問いかけた。


「……ねえ、あたしが言うのもナンだけどこの人チョロくない? 護衛大変じゃない?」

「いえ。それがフヨウさんなので」

「そういうものなの? なら……気をつけてねホント、すぐ騙されそう」

「なんでかめちゃくちゃ哀れまれてる……!?」


 狂った脈拍は元に戻っていた。そうだ、勘違いだ。失恋したてで情緒が不安定なだけだと、ポーカーフェイスの下で汗を拭ったラデルを、死角から更なる追撃が襲った。


「あの……冗談でもいいよ。でも私、ラデルの事情を知らなかったとはいえ、一度マレットさんの味方をしたから。今度はラデルの味方をさせてほしいよ。今更何をって感じかもしれないけど……」


 芙蓉はそう告げて、困ったような八の字眉で笑った。

 この人、本当に無防備なんだな。ラデルはそう確信した。各々の恋愛対象が異なれば、当然事態は丸く収まるはずがない。パストルとマレットが相思相愛の時点でラデルの結末は火を見るよりも明らかであり、それがこの神官見習いの仲介で少々早まっただけなのだ。恋人や結婚相手といった確かな形になれなかったとしても、パストルならばマレットに寄り添い続けただろう。だから同情や罪悪感を抱く必要はないし、そんなものは付け込まれる隙にしかならないのに。


「じゃあ……手紙書いてよ。あたし、仕事探して家借りるから。そしたら届け先が固定されるでしょ」


 なのにラデルの口は勝手に動いていた。それでも、一も二もなく首肯した芙蓉の寛大さに、自分の全てが受け入れられた心地がした。

 ふと、小さな馬の嘶きが聞こえた。


「同年代はマレットしかいなかったし、男が寄ってくると女の人からはよく思われないんだよね。だから愚痴聞いてもらう相手もいなくって」

「うん、愚痴、いいよ。私の方の宛先は……えーっと……」

「俺にしてギルド宛に送ってもらえれば、どこにいてもギルドから転送されてきますよ。配達用の鳥がいるので。それをフヨウさんに渡せばやり取りできると思います」

「え、え、そうだったんですね! じゃあ私はラデル宛に、ラデルはルシュくん宛にということで! 落ち着いて住所決まったら教えてね」

「……うん」


 やがて、車体をガタゴト揺らしながら馬車がやってくる。車上に乗り込んだ芙蓉とルシュへ、ラデルは声を張り上げた。


「じゃあね! さっき言ったこと、忘れないでよ! あと気をつけて! ヘンなヤツに騙されないように!」

「うん! ありがとう! ラデルも、たくさん言い寄られても気をつけてね!」

「あたしは慣れてるから大丈夫だって! すぐ追っ払えるよ!」

「気持ちの問題だよ! 断るのも気を遣うと思うから!」


 その美しさが衆人環視に晒されることを、ラデルが望んでいるとは芙蓉には到底思えなかった。不躾に値踏みされたり、野次を飛ばされたり。選ばれる側にも色々な悲しみや苦しみがあるのだと知ったから。


「その人たちを肯定するわけじゃないけど!」

「うんー?」

「でもねえ、ラデルは本当に綺麗だよ! またね──!」


 車輪の音が遠ざかっていく。ラデルは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でその場に立ち尽くしていた。


「…………」


 散々言い尽くされてきた言葉だった。陳腐な枕詞で、ラデルにとっては耳を貸すに値しない常套句。普段なら「はいはい」と払い捨て、マレットにさえ礼を言うだけだったのに。


「……馬鹿じゃないの……」


 ──不意打ちにもほどがある。鷹の女の珍しい赤面を冷やすように、風がその頬をひと撫でして消えた。

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