第19話 すきなひと①
故郷を出発して二週間。真夏の暑い盛りは鳴りを潜め、季節は秋に差しかかろうとしていた。
この世界には、芙蓉の元いた世界と多くの共通項がある。物の数え方、料理、家畜やペット等の動物。四季もその一つだ。九月も下旬のこの頃、各地の村では冬に備え、作物が無事に収穫できるようとの祈りを込めた祭祀の準備が始まる。
それはここ、ビンズの村でも行われていた。
「ぜえっ……ぜえっ……これで……大丈夫かと……」
「ンま──っ! 魔術師ってのはすごいのねえ! これなら明日の本番も盛り上がるわよ!」
「お祭りにも是非参加してね! 何ならずっといてもらいたいくらいだわ!」
「ははは……ありがとうございます……」
村の女達に背中をバシバシ叩かれ、芙蓉は「オエッ」とふらついた。魔力を使い過ぎると絶不調になるのは相変わらずだった。
収穫祭の準備で村全体が忙しい中、無理を言って宿泊する代わりに、芙蓉は畑への魔力提供を申し出た。せっかくの行事を満足に楽しめないのは気の毒だと思ったのだ。
不作の影響でここ数年は形式ばかりの祭になっていたため、それは村にとってもまたとない機会だった。ほんの少しでも現状より良くなるのなら。それほど期待せずに任せてみたところ、この一見頼りなさそうな旅人は思いがけないほど作物を成長させてしまったのである。
そんな祭の影の功労者は汗みずくだ。女の一人が「おや」と片眉を持ち上げ、よく通る声を張る。
「マレット! ちょっといい?」
呼び止められたのは壺を運んでいた若い女だった。暗い焦げ茶のボブヘアで、丸眼鏡の奥の目をぱちくりと瞬かせている。
「旅人さんに替えの服用意してもらえる? 集会所、今誰もいないからそこ使って」
「うん、わかった。旅人さん、こちらへどうぞ」
「はい゛……」
ルシュに断ってマレットの後ろをついていく。村内の家々より一回り大きな建物に入ると、しんとした広間の隣の部屋へ通された。
「替えの服、こちらです」
「ありがとうございます」
手渡されたのは涼やかな白いワンピースだった。生地は軽く、しっとりした光沢感に品がある。身につけていたものを手早く取っ払い、汗を拭いて袖を通すと、柔らかな肌触りが心地よかった。
「あの、着替え終わりました」
「はい、入りますね」
ドアを開けたマレットは、芙蓉が着ていたものを受け取ろうとして固まった。その目線は、卓上に置かれた金のアミュレットに向けられている。
「し、神殿の方……?」
「えっ、あ、はい。一応神官見習いということになりますね……?」
マレットの水分量の多い瞳がみるみる見開かれていく。くしゃりと歪み、泣きそうなその表情にぎょっと慌てた芙蓉に、彼女は深々と頭を下げた。
「お願いです、神官様! 私の……私の懺悔を聞いてください……!」
◆ ◆ ◆
「……ずっと、好きな人がいるんです。一年前から」
向かい合い、厳かな雰囲気を纏ったマレットが切り出した。いきなり話の核心で殴られた芙蓉は、「オッ……ほほお~青春ですねえ~」と親父臭く返すことしかできない。
「どんな人なんですか?」
「えっと、何年か前に隣の村に越してきた人で、声や喋り方が穏やかで、皆に優しくて……私にも気さくに話しかけてくれるんです」
「なるほど、それは嬉しいですね~」
(ちょっと待って、これ恋愛相談……!? 「恋バナ聞くと目が死ぬ」とか「恋愛においては雑兵」とか散々言われてきた私に恋愛の……そう、だん……?)
芙蓉は目の前が真っ暗になった。何せ、自分の人生において関係ない・縁遠い・訪れれば奇跡の三冠王が恋愛沙汰である。既に中学生の時点で現実を思い知らされた彼女は、いくつになっても当時のまま、圧倒的に経験値が足りなかった。
対して、膝を突き合わせているマレットは芙蓉よりも年下か。若くエネルギッシュで、頭から爪先まで恋愛に浸っており、きっと今この瞬間が絶頂期なのだろう。そんな人間が話すことなんて決まっている──いやしかし、なぜ彼女の顔色は真っ青なのか?
「それを、諦めようと思って」
「ええっ!?」
素っ頓狂な大声にマレットの肩がビクついた。なんで、どうして、とわかりやすいほど顔に書いた芙蓉を見上げ、彼女は弱々しく口角を上げる。
「い、一生……叶う気がしないから」
下がった目尻に水滴が滲んでいた。無意識に立ち上がっていた芙蓉は腰を下ろし、俯くマレットの頭頂部を見つめる。
「幼馴染にすごく美人な子がいて……私、いつも彼女のおまけなんです」
綺麗な長い髪に日焼け知らずの肌、丁寧に配置された完璧な美貌。村人も、隣村の同年代も、通りすがりの冒険者も、全ての意識は彼女に集中する。隣にいるマレットは引き立て役として、橋渡し役として、彼女への告白の練習台として、常に男達の踏み台にされ続ける人生だったという。
「あの子自身はとってもいい子なんですよ。告白するなら直接来いとか、私達を比べる必要があるのかとか……いつも私の代わりに言い返してくれてた。だから今まで耐えられたんです」
誰にも靡かず、誰にも媚びない。彼女は強くて自立していた。マレットは幼馴染の宿命に嘆きながらも、同じくらい彼女に憧れていた。
「でも、今回だけはどうしても無理そうで……」
マレットが窓の外を示す。
目を凝らすと、大木の木陰の下に一組の男女がいた。女の方が例の美人な友達なのだろう。男に何事か話しかけてはその肩を叩いたり、華奢な上半身をもたれかからせたりと、随分と親密な様子だった。
「もしかして……」
「……好きな人、被っちゃいました」
へへ、とマレットは下手くそな笑みを零した。そのまま身を隠すように背を丸めて座る。
ふと、青年がこちらを一瞥した気がして、芙蓉は慌てて首を引っ込めた。
「最近、二人を見かけることが多くて……あの子──ラデルがあれだけ積極的なの、初めてなんです。どんなに格好いい人に声をかけられても断ってたのに……だから、本気の本気で好きなんだなあって。たぶん、明日のお祭りで一緒に踊るんだと思います」
「踊る?」
「うちの収穫祭で未婚の男女が踊ると、その二人は結婚できるって言い伝えがあります。ラデルに誘われたら、きっとどこかの王子様でも喜んで踊っちゃう」
「でも、マレットさん、ずっと好きだったのでは……? それこそラデルさんて方の前から……」
「そうなんですけど……でも、仕方ないですから。私、見た目も地味だし、胸張って誇れることもないし……もう結果はわかってるので、二人の邪魔をしないように懺悔して忘れたかったんです。神父様は顔見知りでちょっと言いづらくて……すみません、初対面なのに」
「あ、いいえいいえ……私でよければ……」
マレットは何度も喉を鳴らして必死に泣くのを堪えている。その姿に、制服を着た幼い自分が重なって見えた。
(ああ……思い出すなあ……)
様々な地区からの見慣れない生徒達の中、なぜかその人の一挙一動が目に焼きついた。名前やクラス、所属の部活。一つ一つこっそり知る度に浮足立って、けれど告白する勇気も自信もなかった。
協力してくれた友達は、東京でスカウトされたこともあるほどの美人だった。情報源の全ては交友関係の広い彼女から。「任せて」と言われるまま、呑気にも日ごとすれ違った回数に一喜一憂していた。
『ごめんね、芙蓉』
いつの間にか、彼女はその人の友達と連絡を取るようになっていた。いつの間にか、彼女はその人と挨拶を交わすようになっていた。いつの間にか、彼女はその人と──。
『ずっと、言わなきゃと思ってたんだけど』
卒業式の日、彼女にその人との三年間を打ち明けられた。彼はとっくに自分の気持ちを知っていて、二人の関係に気づいていなかったのは自分だけだった。どこまで鈍いのかと呆れ果てて、怒りすら湧いてこなかった。
その代わり自身に深く強く刻まれた、たった一つの事実があった。
「自分は選ばれない側の人間なんだなって。私も、そういうのわかってしまうとつらかったです……」
はっとして顔を上げる。懺悔を聞くはずの神官見習いは、途方もなく打ちのめされたように寂しく微笑んでいた。
「だから全然傷ついてませんよって顔して、興味ない振りしてきました。本当は情けなくて惨めだったけど……でも、そうやって切り替えないと上手く生きていけないから」
芙蓉はきゅっと頬を持ち上げて、マレットの肩に手を置いた。
本来ならここで「頑張れ」と発破をかけるべきなのだろう。そう煽るのは簡単だけれど責任は取れない。行動するのは彼女で、それによって生じた結果を被るのもまた彼女だからだ。
それに、選ばれない現実をずっと突きつけられていたら、頑張る気力なんて萎んでしまうのだ。芙蓉はこれ以上傷つきたくないというマレットの心の内を尊重したかった。
「全部聞きます。悲しかったこと、悔しかったこと、何でも。そして誰にも言いません。あなたがここを墓場とするなら、私、墓守になると誓います」
アミュレットに手を当てて芙蓉が恭しく告げる。マレットはようやっと建てた墓標の守り手に礼を伝えたかったが──後から後から溢れ出す涙のせいで、とうとう言葉にならなかった。
◆ ◆ ◆
揃って集会所を出ると、陽はとっくに傾いていた。
声が枯れるほど泣きじゃくったマレットの両目は眼鏡越しでもわかるほど腫れていた。けれど、どこかすっきりしたような彼女に礼を言われ、芙蓉もまた救われた思いがした。傷の舐め合いだろうが何でもいい。きっとこうして折り合いをつけて、誰もが何とか生きていくのだ。
「──フヨウさん」
「っはい!? あ、ルシュくん」
不意に呼びかけられ、芙蓉は肩を跳ねさせた。護衛の少年はずっと近くで待機していたらしい。
「ごめんなさい、つい話し込んじゃいまして……」
「いえ、俺は全然──何かあったんですか」
「え?」
「目が赤くなってます」
「うおお!?」
咄嗟に掌で瞼を覆い、魔力を流す。マレットの境遇や心情に共感してしまい、うっかりもらい泣きしたことを忘れていた。
「大丈夫ですか? どこか痛むんですか?」
「大丈夫大丈夫、違うんです、ちょっとあの、人生ままならないなって話で盛り上がってただけなんです!! いやー年々涙もろくなっちゃってだめですね!」
ぱっと手が離れたそこは元通りになっていた。治ってよかったはずなのに、そのことに何だか胸がざわついて、ルシュは雇い主の名前を呼んだ。
──本当にそれだけなのか。綺麗に覆い隠されてしまうことで、何か見逃していることがあるのではないか。そんな気がしてならなかった。
「……もし何かあったら言ってください。俺は戦うことしかできないけど……でも、それ以外のことも力になれるように頑張ります」
「そんな、いつも色々と本当に助かってますよ。ありがとうございます」
屈託のない、いつもの芙蓉の笑い方だった。ルシュはそこで冷静さを取り戻し、首肯して一歩下がった。今、何を考えたのか。雇い主を詮索しようとした自分が信じられなかった。
ルシュの葛藤などいざ知らず、芙蓉はのんびりと空を仰ぐ。
「そろそろ日が暮れますね。宿に帰りましょうか──」
「すいません、さっきマレットと一緒にいましたよね……?」
振り向くと、ひょろりとした一人の青年が立っていた。声色と同じ柔和な顔つきや髪色に既視感を覚えたが、確信を得ない芙蓉はおそるおそる問いかける。
「失礼ですがどちら様でしょうか……?」
「あ、おれ、パストルっていいます。いつもは隣の村にいて、今は祭の準備でここに来てて……」
──好きな人、パストルって名前なんです。一度でいいから呼んでみたかったなあ。
「いや、おれの話じゃなくて……あの、マレット泣いてませんでした? さっき見かけた時、目が真っ赤で」
「え、あ、あ、え、っと……その……」
「何かあったんですか? 具合が悪いとか、病気とか、誰かと喧嘩したとか……」
ルシュは隣人の目玉が勢いよく回転しているのを見た。上手く誤魔化せる気がしなくて、芙蓉は矛先を無理矢理変える。
「な、なぜマレットさんのことが気になるのでしょうか」
「えっ……そりゃ心配だから……」
「……なぜ心配なのでしょうか」
「え、えーっと……それは……」
パストルの頬がみるみる紅潮していく。芙蓉はカッと眼を見開いた。
(これもしかして脈ありなのでは────!?)
何ということだろう。マレットの決死の覚悟が実は取り越し苦労だったかもしれないなんて。
墓守の引退表明を掲げようとした芙蓉は、はたと気づく。
(あれ、でもラデルさんとのことは……? さっきはすごく仲が良さそうだったけど……)
湯気が噴き出しそうなほど真っ赤な様は、到底嘘をついているようには思えない。かといってラデルとのあの砕けた雰囲気は見間違いでもない。
(……見極めなくちゃ。マレットさんにこれ以上泣いてほしくない)
選ばれたことがないから叶わないと嘆いて、そんな自分が歯痒くても現実はつらくて。雨のように降り注ぐマレットの慟哭を、芙蓉は一滴残らず受け止めたのだ。この場にいる誰よりも彼女の心を知っている自負がある。だからこそ、パストルの想いが本物であるか、そしてラデルとの関係の真実を突き止めたかった。
芙蓉はもう純粋だったあの頃には戻れない。期待するだけ無駄だと、ろくな関わりを持たずここまで来てしまった。けれどマレットには選んでくれる相手がいる。
──まだ間に合うかもしれない。
「パストルさん、あなたは──」
「ここにいたんだ、パストル。あちこち探しちゃった」
するりとパストルの首に絡んだ白い腕。そのまま豪快に引き寄せて顔を近づけたのは、目の覚めるような美形の女だった。
くっきりと太い眉に鋭い目尻、わずかに吊り上がっている艶やかな唇。ぱっと見は勝気な印象を受けるが、ホワイトピンクグレージュの長い髪とよく動く表情がそれらを中和して、予想を裏切る親しみやすさを与える。
(す、すごい美人……近くで見るとえらい迫力だ……!)
自然と息が詰まる。エウリヤナを前にした時と同様に、生物としての格の違いを思い知らされるような感覚があった。
「ラデル、ちょっと」
「うん、邪魔したのはわかってるよ。けどこっちも急ぎなの。ハンスおじさんが旗飾りどこかって」
「ああ、まだうちの村に置いてあったんだった……話の途中ですいません、おれ、行きます。さっきのことはその、内緒で!」
未だ熱冷めやらぬまま、パストルは小走りで駆けていった。突如現れた美女──ラデルはその背中を見送るや否や、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「初めまして、旅人さん。ラデルです。挨拶が遅れてごめんなさい、色々とバタバタしてて」
「あ、いいえ、とんでもないです。こちらこそお忙しい時にお邪魔してすみません。私は──」
瞬間、差し出した手が強引に引っ張られる。思わずつんのめった芙蓉の耳元に、低い囁きが吹き込まれた。
「マレットに何を言われたか知りませんが────人の恋路にちょっかい出さないでくださいね?」
ヒク、と呼吸が止まる。芸術的に生え揃った睫毛の下から、冷ややかな視線が芙蓉を捉えていた。
──鷹だ。彼女は鷹に似ている。
一度隙を見せればたちまち取って食われそうな気配に、芙蓉の全身はカチコチに凍ってしまった。見かねたルシュがその身体を下がらせたが、常より動作は鈍い。彼もまた、魔物のそれとは異なる敵意に中てられていたのである。少年は人間の女による精神攻撃の真の威力を初めて知った。
勝利を確信したのだろう、ラデルはパッと握手を解放し、ご満悦の表情で去っていく。無敵の美貌と振り撒かれる愛想に隠された、獲物を逃がさない執念。すらりとしたその後ろ姿に芙蓉は重く呟いた。
「きょ……強敵だ……」
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