第18話 対価の魔女④

「母さん……?」


 がらんどうの部屋に虚ろな声が転がる。はだけられた毛布はそのままに、室内に人の気配はない。

 ヘレネサイアは弾かれたように駆け寄り、這いつくばってベッドの下を覗き込んだ。と思いきやすぐさま立ち上がり、小屋を飛び出していく。芙蓉とルシュもただならぬ様子を察し、周囲を走り回った。


「いない……」

「こっちもいませんでした」

「ヘレネさん、村の方に行ってみましょう」

「そうね……ええ、誰かが村に呼んだのかも……」


 黒髪の束の隙間から眼が爛々と光る。底なし沼のようなその仄暗さにぞっとして、芙蓉はヘレネサイアの腕を強く抱え込んだ。



       ◆ ◆ ◆



「どなたか! ヘレネさんのお母様を知りませんか!」


 息を荒げて駆け込んだ村では住人達が呆気に取られていた。誰に聞けども首を振られ、焦りが刻々と増す。

 ヘレネサイアは自身の髪を引っ掴んでヒステリックに叫んだ。


「ああ、あ、どうしてっ……どこへやったの……! 母さんは一人で歩けないのにッ!」

「ヘレネさん落ち着いて、深呼吸しましょう、ね、大丈夫、すぐに見つかりますよ」

「俺、もう一度見てきま──、っ……?」


 その時、わずかに捉えた臭気。ルシュは咄嗟に鼻を覆い、芙蓉にそっと耳打ちした。


「……血の臭いがします。魔物じゃないかもしれない……少し離れます」


 青くなった芙蓉がコクコク頷く。二人の脳裏には最悪の展開が過ぎっていた。既に最後の一線の淵に立っているヘレネサイアの手を離してはいけない。

 風のようにかき消えたルシュとすれ違いざまに、二人の青年が慌ただしく村内へなだれ込んできた。


「誰か来てくれっ!」


 必死に村の外を指差す彼らに集う村人達。芙蓉は二人の顔に見覚えがあった。デファンスの傍でふんぞり返っていた取り巻きだ。


「お前らどこ行ってた? デファンスはどうした」

「そのデファンスがやべえんだって! アイツ、ババアを殺す気だ!」

「ババア、って……」


 村中の視線が芙蓉──正確にはその背後に集まる。はっとして振り返ると、彼女の姿は影も形もなかった。


「ヘレネさんッ!!」


 前方を、漆黒のスカートが風切っていく。ヘレネサイアを覆う黒色の全てが死神装束のように感じられて、芙蓉は歯を喰いしばりながら追いかけた。彼女の瞳の奥に灯ったものが忘れられなかった。

 ──次の瞬間、唐突にヘレネサイアの足が止まる。芙蓉はつんのめって急停止し、ゲホゲホ咳き込んで顔を上げた。


「……かあさん」


 辿り着いた寂れた村の外れ。そこには、両手を挙げたルシュと斧を構えたデファンス、そしてその腕に抱えられている──ヘレネサイアの母がいた。

 意識がないのか、ぐったりと頭を垂れている。彼女の衣服は遠目でもわかるほど赤く染まっていた。


「それ以上近づくんじゃねえ! このババア殺すぞっ!」


 斧を振り回しながらデファンスが吠える。彼がじりじりと後退していく度に、赤い水滴が地表を穿った。宙に投げ出された枯れ木のような腕はぴくりとも動かない。

 芙蓉は固唾を飲んだ。どうしてこうなったのかは不明だが、興奮状態のデファンスを刺激することは避けたい。けれど早く彼女の安否を確かめなければ、デファンスの背後にいるゆらりと動くものが──動くもの?


「ガアッ!!」


 反射的に振り向いたデファンスの目の前に、真っ赤な口内と凶悪に生え揃った牙が迫っていた。それが鼻先を抉る寸前──銀の刃が黒い体毛に突き刺さる。


「ギャインッ!」

「ごべっ」


 同時にルシュのブーツがデファンスの顔面に沈んだ。反動で解放された母親を抱え、芙蓉の隣に音もなく着地する。


「お願いします」

「了解です!」


 受け取った身体はどこもかしこも骨ばった感触がした。血の跡を辿り、細い白髪をかき分けて傷口を探す。

 痕跡は側頭部にあった。何か固いものをぶつけられたのか、腫れた皮膚が切れている。芙蓉は母親を膝の上に抱き寄せ、慎重に魔力を注いだ。息はあるが意識を取り戻さず、呼びかける唇がわななく。

 一方、ルシュは突然現れた魔物の首を冷静に掻き切っていた。母親の血の臭いに釣られてきただろうそれは、魔力を取り込んで変化した犬──ブラック・ドッグである。豊かな黒毛と炎の如き双眸が特徴的で、強化された脚力で獲物を追い詰めて飛びかかるのだ。また、常に群れを成して行動する種族でもある。

 案の定、あちこちから唸り声が上がってくる。これが以前に村を襲った魔物だろう。茂みや木々の間から見え隠れする業火色に、ルシュは短剣を構え直した。


「うう、ぐ、ふーっ、ふーっ」


 その頃デファンスは地面を転がり、痙攣する手で鼻骨を押さえていた。間違いなく折れている。おまけに前歯も砕け、鉄の味がする生唾が止まらなかった。景色がぐらぐらと波打って気持ちが悪い。未だかつてない痛みをどうやり過ごしていいのかわからなかった。

 のたうち回る青年に向かって、恐ろしくゆっくりと影が近づいていく。


「…………どうして、こんなことするの……?」


 地獄の底から這い上がってくるような声音だった。自身を見下ろす真っ黒な影の、両の目だけが異様に光っている。デファンスは唯一動く肘で後ずさった。


「寄ふな、寄るんひゃねえっ」

「どうしてかあさんをつれていったの……? なぜけがをさせたの……?」

「寄るなっへェ!」

「答えなさいよォ!!」


 どずんっ、と腹底を打った鈍い音。衝撃に見開いた瞳孔が、己の腕を割った斧を捉える。一拍遅れてデファンスの喉から絶叫が迸った。


「があああああっ」

「どうして! こんなことするのって! 聞いてるの、よぉっ!」

「へ、ヘレネさ、」


 どずんっ。どずんっ。どずんっ。デファンスの両腕を鉄の塊が無慈悲に砕く。二の腕から下が千切れそうだ。芙蓉は顔を背けて吐き気を堪え、途切れそうな魔力を紡ぎ直した。

 ──殺される。執拗に振り下ろされる死神の鎌に、デファンスはとうとう虫の息で白状した。


「かえ、金、はらえって、いわれたから……おまへのとこからっ、パクろ、と、思っはんだよ……ぶふっ、う、借金も、すぐ返ひたし……貯めこんでんじゃっ、ねえかって……はあっ……はあっ……そ、そし、ったら、ばばあが邪魔ひて、きてっ……うざってえし、金、見つからねえし、ばばあ人質に、すれ、ば、げほっ、おまえ、どっからか出すだろっ、て……」


 デファンスは行方をくらませて以降、不意を突いてヘレネサイアの小屋に侵入した。そこで軽くあしらえると高を括っていた彼女の母親から思わぬ抵抗を受け、腹いせに拉致したという。取り巻きの二人はまさかそこまでするとは想定していなかったのだろう。怖気づいた彼らを余所に、デファンスは母親でヘレネサイアを誘き出そうとした。

 彼は最初から金を返すつもりすらなかったのだ。しかし、その手癖の悪さ故に買ってしまった。


「────死ね」


 おぞましく昏い、魔女の怒りを。


「ギャンッ!」

「ゴルルッ、ゴギャッ」


 地中から何十という石の槍が突出した。ルシュの眼前で串刺しにされたブラック・ドッグの肢体が、まるでオブジェのように次々と並ぶ。

 爆発的に成長した大樹の根が地を割った。鳥達がけたたましく飛び立ち、黒犬の墓標が断層に飲み込まれていく。その足元を走る亀裂が一直線に村へ駆けた。

 立ち上がれないほどの地震に襲われる中、芙蓉は母親の頭を抱え込み、ヘレネサイアに手を伸ばす。


「ヘレネさんっ! 待って、止まって!」

「みんな死ね、みんな死ね、みんな死ね、死ね、死ね、死ね、死ねッ!」


 歯を剥き出しにしたヘレネサイアは悪魔の形相だった。頬を掻きむしり、果てのない怨嗟を唱える。流れる涙や唾液のことごとくを浸食する血の色に芙蓉は目を疑った。


(対価がないのに魔術を使ってるから──!)


 ──屋根が落ちる。脳内に突っ込まれた金属同士がぶつかり合っているみたいだ。

 ──外壁が崩れる。心臓を打ち鳴らすのは誰だろう。

 ──大木が倒れる。耳の奥の川が氾濫してしまった。

 村の方から悲鳴が聞こえ、芙蓉はヘレネサイアにしがみついた。


「ヘレネさん血が出てるっ! 魔術を止めてください!」

「今までの、仕打ぢが、対価だ……! 消えろ……ぎえろ……っ!!」

「っ、気持ちは! 気持ちはわかります、でも! 死んじゃうのも殺しちゃうのもだめ! ヘレネさんがいなくなったら……!」


 芙蓉を引きずりながらも、ヘレネサイアは標的へにじり寄る。

 デファンスの意識は朦朧としている。

 ブラック・ドッグが蹴り飛ばされた。

 赤黒く濡れた凶器が振り被られる。

 ルシュが二人の間に身体をねじ込まんとする。

 芙蓉の爪がヘレネサイアの腕に食い込んだ。


「だめ、だめヘレネさんっ! お母さんが一人になっちゃう!!」


 ──刹那、枝のような指先が漆黒のスカートを小さく引いた。


「ヘレネ」


 か細くも穏やかな声がヘレネサイアの動きを止める。年老いた五指が、きつく結ばれた彼女の拳を優しく包んだ。


「たくさん我慢させてごめんね。お前が手を汚すことはないよ。お前を苦しめる奴は母さんが殺してやる。もう長くないから、一緒に地獄に連れてってやる」


 ごめんね、ヘレネ。よく頑張ったね。母親は顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。

 手中から斧が滑り落ちる。ヘレネサイアは力なくへたり込み、生まれ落ちた赤ん坊のようにわんわん泣いた。



       ◆ ◆ ◆



 ベッドに横たわる老婆を見つめる一人の女がいた。かすかに呼吸を繰り返しているだけの、人形めいた表情でぼんやりと座っている。その頬には血涙の跡が残っていた。

 そんな彼女を小屋の外から窺うフフの村人達。彼らは沈痛な面持ちで俯いている。


「ヘレネさん」


 人混みをかい潜り、此度の調停役──芙蓉がルシュと共に姿を見せた。背後には首が痛くなりそうなほど大柄な獣人を三人も連れている。驚いて身を引いた村人を嘲笑うかのように獣の鼻が鳴った。

 芙蓉は床に膝をつき、女──ヘレネサイアに語りかけた。


「前にお伺いしたこと、覚えていらっしゃいますか? ここを離れる選択肢を考えたことがありますか、と」


 ヘレネサイアの口端が一瞬引きつった。髪の下から上目がおそるおそる芙蓉を見返す。


「ユフレ神殿では魔術の才能がある人を募っています。それで、勝手ですがヘレネさんのことを大神官にお伝えしました」


 芙蓉は昨日、大神官からの手紙の返事にこの村で起こっていることを記した。調停役として最終的にどう対処すべきか、エウリヤナの采配を仰ごうと考えたのである。それに対する彼女の見解が届いたのが、村中の修復が行われていたほんの数刻前のことだ。

 そこに書かれていたのは──。


「──大神官曰く、是非ヘレネさんに神殿での補佐をお願いしたいと。住み込みで、もちろんお母様もご一緒に」


 信じられないとばかりに瞠目するヘレネサイアに、芙蓉はにっこりと笑いかけた。


「大神官と神殿騎士団の方々、皆さんとってもいい人達です。私もすごくお世話になりました。きっとヘレネさんとお母様のことも受け入れてくださると思います」

「…………」

「どうでしょうか。他のことは一旦置いて、今、ヘレネさんはどう思いますか? どうしたいですか?」


 村人達は、黙してヘレネサイアの一挙一動に注目した。彼女は大粒の涙を零しながら、立ち竦む彼らを悔しげに睨む。


「つぎは……つぎは、きっところしてしまう……わたし、ここにいたくないっ……!」


 村中の誰もがうなだれる。消え入りそうなすすり泣きが、静まり返った空間にいつまでも響いていた。



       ◆ ◆ ◆



「詫びには足りないかもしれんが……」


 差し出された袋が硬質な音を立てる。ヘレネサイアは首を垂れたまま、ピクリとも反応しなかった。


「わ……悪かった……ずいぶんと、長い間……孫には、今度やったら両腕を切り落とすって伝えてある……」

「…………今更……どうでもいいわ」


 ──もう関わらないで。低く告げ、ヘレネサイアはのろのろと馬車に乗り込む。

 憔悴した様相のディッケルの隣から棍棒女が進み出た。彼と同じく、たいそう重たそうな袋を掲げる。


「こっちはあなたに。お世話になりました」

「えっ……ありがとう、ございます……?」

「……結局、御泊まりいただけませんでしたから」


 半ば押しつけられた芙蓉はたたらを踏んだ。宿泊料にしては破格だが、彼らに残っていた良心の分だと思うことにしよう。そそくさと立ち去る背中を見送って、銀と銅の山を半分に分ける。

 きっちり二つの革袋に詰め、一つをルシュに、もう一つをロッドウォルフに手渡した。


「ロッドさん、お待たせしてすみませんでした。前回のお礼です」

「ようやくか。……ンだこりゃ、ガキの小遣いじゃねェか」

「えっ!? た、たぶんギルドの報酬額の基準はこれくらいだったかと……!」

「そりゃ一人分はな。残念ながらオレらは三人いるからなァ?」

「そ、そうだ、三人分でしたね……すみません、失礼なことを……ちょ、ちょっとお待ちくださいね、すぐ、いや、もう少し、いや……」

「おっと神官見習い殿、こっちは別に構わねェぜ? オマエがオレらと契約するってんなら、これくらい大目に見てやっても──」

「なら、これで清算してください」


 ルシュが革袋を突き出して言った。びっくりした芙蓉がのけ反るのと、ロッドウォルフがシルバーグレーを細めたのは同時だった。


「いやいやいやそれはルシュくんのですから! 大丈夫ですお気遣いなく!」

「いえ、あの時のことは元々俺の力不足です。俺がコカトリスを逃がしたからフヨウさんを心配させた。それと、その不始末をつけてもらったので」

「…………フン。まァこれで半端野郎と顔合わせねェで清々するか」

「ル・シュ・く・ん!」

「……オマエともな、箱入り」

「兄ちゃーん! 荷物全部積んだよー!」


 車上からルーインが手を振っている。その後ろからヘレネサイアの蒼白な顔色が見えて、芙蓉は馬車に駆け寄った。


「ヘレネさん、大丈夫ですか? 急に色々と環境が変わって大変だと思いますが……よかったらこれどうぞ」


 橙色の小瓶を受け取ったヘレネサイアは思い出した。同じものを初めて目にした時、警戒心からつい突っぱねてしまったことを。それでも芙蓉達は自分を見放さず、突拍子もない話を信じ、如何なる時も矢面に立ってくれた。そんな途方もない優しさにどれだけ救われたことか。


「……本当にありがとう、フヨウちゃん、ルシュくん。母も私も、こうして生きていられるのはあなた達のおかげよ……二人がここに来てくれなかったら、きっとこんな未来はなかった」

「こちらこそ、間に合ってよかったです。ヘレネさんとお母様がずっと耐えて頑張っていらしたからですよ」


 これまでのあらゆる痛みを労うような、慈悲に満ちた微笑みだった。ヘレネサイアは言葉に詰まり、ぶるぶる震える腕をやっとのことで芙蓉の首に回した。


「ありがとう、ありがとうっ……会えてよかった……っ」

「うふふ、私もです。お身体、大事になさってください」


 乾いた鞭の音が森に木霊した。馬の嘶きを合図に、少しずつ回り出す車輪を追いかける。


「道中お気をつけて!」

「ええ! あなた達も無理せず旅を楽しんで! 神殿に着いたら手紙を書くわ!」

「ありがとうございます! このお三方、冒険者ギルド所属でとっても強いですから! ちゃんと神殿まで連れていってくれますから安心してくださいね! あとたぶんすごく優しいです!」

「たぶんって何だ箱入りィ!」

「うわあ兄ちゃん前見てよお!」

「仕事はちゃんとやる。仕事だからな」

「よろしくお願いしまーす! 皆さんお元気でーっ!」


 ヘレネサイアは馬車から身を乗り出し、ぼやける視界を何度も擦った。離れても忘れないよう、ずっと覚えておきたかった。そうして母の手を握り、夕陽に照らされる二つの影が見えなくなるまで微動だにしなかった。


「──わたしのかみさま」


 世界よどうか、私の祈りを対価に、彼らの旅に光あらんことを。

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