第17話 対価の魔女③

 控えめなノックが室内に響く。ヘレネサイアは一瞬硬直した後、そろそろと椅子から立ち上がり、儚いろうそくの火を頼りに入り口へ向かった。


「ヘレネさん、こんばんは。芙蓉です」


 扉の向こうの呼びかけに緊張が和らいだ。ノブを捻ると、そこにはユフレ神殿の神官見習いと、彼女の護衛だという少年が立っている。


「こんばんは……どうしたの……?」

「へへへ、実は晩ご飯いっぱい作っちゃったんです……もしまだだったら召し上がっていただけないかなと思いまして」


 差し出された木の器には、大麦と色とりどりの野菜が煮込まれたスープがなみなみと揺れていた。中央には一口大の鳥のササミが盛りつけられ、ふわりと温かい湯気が香る。

 久しく目にしていない、料理の体を成したものだった。とうになくなってしまったと思っていた胃がか細い悲鳴を上げる。


「お母様の具合どうですか? 召し上がれそうならお母様の分もありますので、よかったら」

「……ありがとう……ねえ、よかったら入って……」

「いいんですか? わーいお邪魔します~」


 小屋の中は手狭だが小綺麗だった。家具は使い古されているがよく磨かれており、埃一つ積もっていない。簡易な調理台と小さなテーブルセットの奥には、二床のベッドが横たわっている。

 その一方にちっぽけな人影があった。


「母さん、今朝話した人達……」

「こんばんは、芙蓉と申します。こちらはルシュくんです」

「初めまして」

「ああ、ああ、その節は娘がお世話になりまして……何のお構いもできませんけども、ゆっくりしていってください……」


 絶えず痙攣する身体を精一杯曲げて、ヘレネサイアの母は深々と頭を下げた。目元が親子でそっくりだ。つい破顔した芙蓉が持参した夕食を手渡すと、彼女は顔を覆って涙してしまった。どうやら泣き方まで似ているらしい。

 何度も礼を言う母に見送られ、芙蓉達は小屋の外に出る。


「ごめんなさい、母がびっくりさせて……」

「いえいえ、食べていただけそうで安心しました。……あの、少しお話したいことが」


 身を屈めたヘレネサイアにそっと顔を近づける。


「昼間、ディッケルさん達にお伝えしてきました。借りたお金は返してるから関係は対等ですよ、ヘレネさんに魔術を使えって強制はできませんよ、って。対価のことも、ヘレネさんの魔術は特殊で対価ありきなのは変えられないから、魔術が村に必要ならきちんと対価を用意してくださいって言いました」

「あ……」

「というか、対価ってつまりお礼を先払いしてるのと同じことですよね? その順番が逆になるだけなんですが……なんだろう、気持ちの問題で抵抗があるのかな……ただ、ヘレネさんはもう言われるままに魔術を使わなくていいんです。円滑に暮らしていくために必要だと思ったらもちろんご自身で判断して使われるでしょうけど、今みたいに怒鳴ったり殴ったり、そんなことで無理矢理言うことを聞かされるのは間違ってる」


 するりと髪を潜った指先がヘレネサイアの左目に触れる。温かい。自分の身体に魔力が流れる感覚をはっきりと感知したのはしばらくぶりだった。魔術を使うと怒声や打たれた痛みを思い出して、委縮する前に終わらせてしまおうと急ぐばかりだったから。


「誰もあなたに命令できないし、する権利もない。ヘレネさんは自由なんです」


 凛とした声にヘレネサイアは目を見開く。そうだ。魔術学院に行く前は、正しく村の一員だったじゃないか。


「環境はすぐには変えられないかもしれないけど……でも、『こうだ!』って思い込んでたものを整理したら結構違ってたこともあって、認識は少しずつ変わるんじゃないかと思います。ヘレネさんのお家とか、村で買い物できるように戻してもらうとかいろいろありますが……まずはたくさん食べていっぱい休んで、体調を万全にしてください」


 芙蓉はにっこり笑って手を離した。黒髪と対比する見事なほど白い肌には一点の曇りもない。

 ヘレネサイアは芙蓉につられるようにして頬を緩めた。長い下睫毛に透明な滴が潤んでいる。


「あなたの言う通りだわ。父が亡くなってから流されるままになっていたけれど……しっかりしなくちゃ。これ以上母に負担をかけたくない」

「はい、ゆっくりいきましょう」


 風向きが確かに変わってきていることを感じる。ユフレ神殿の名を借りたからには、双方の納得を得て事の終わりを見届けなければならない。ここからが正念場だと、芙蓉はヘレネサイアの冷たい指先をそっと包んだ。



       ◆ ◆ ◆



 唸りを上げて岩石の槍が飛び出す。大地からそびえ立つ切っ先は太陽も射殺しそうなほど鋭く、貫かれればひとたまりもないだろう。芙蓉は目を輝かせて硬質な突起を撫でた。


「極めるとこうなるんですね! すごいなあ……」

「私なんてまだ全然。目の前で山一つ丸ごと動かされるのに比べたら、おままごとみたいなものよ……」


 ヘレネサイアがさっと手を振ると、槍は瞬時に瓦解して土くれとなった。その隣には三角コーンのような土の塊が悲しげに鎮座している。芙蓉作の土槍である。

 夕食の対価にと、地属性攻撃魔術の手本を見せてもらったが、ヘレネサイアやエウリヤナが扱うそれの習得は考えていたより難しかった。作物や花なら完成形の知識があればある程度イメージできるが、示現性を大いに活用する場合の魔術となると途端に経験不足を突きつけられる。殴る、刺す、潰す、斬る等々、相手の弱点や戦況によってどれが一番有効かを見極める必要があるからだ。また、それらを発現する地点や規模の固定、必要な魔力の調節と供給も同時に行わなければならない。


(コカトリスの時はとにかく『止めたい!』って思ってたからかな……)


 これ以上入ってくるな。ただ一点、それだけの願いと魔力をぶつけた。あらゆる声と音を置き去りにし、自分の呼吸しか聞こえない極集中状態の影響もあっただろう。そういった境地に無意識で至れるのが魔術師なのだ。


「うーん前途多難……」

「練習すれば大丈夫よ……それに学院できちんと習うわ」


 今度は石でできた盾のようなものを地面から生やすと、芙蓉はすぐさま飛びついた。ルシュを呼び、二言三言話し合った後、短剣を投げる仕草をされたので頷いてやる。そして盾がルシュの高速投擲を弾いたのを見るや否や、割れんばかりの拍手をする彼らに、ヘレネサイアの胸はゆるゆると温かくなった。


「すごい頑丈ですね」

「本当に……同じ地属性だとは思えない……私、結界よりこっち練習した方がよさそうな気がしてきました……」

「結界は感知目的の場合が多いから、どうしても広範囲に薄く広げるようになりがちですよね」

「そうなんですよねえ。強度は二の次で、むしろ突破されること前提に二重構えとかの方が……? とにかくこの盾いいなあ……」


 壁に似た岩石の集合体をちらちら見やりながらその横に仁王立ちする芙蓉。「ふんッ!!」と勢いよく地面に込めた魔力は、唐突にかけられた言葉で霧散した。


「──あの……」

「うわっ!? あ、はい何でしょうっ?」


 盛り上がった土を均して向き直る。そこには、いつぞや棍棒を持っていた女と、村の人間が数人立っていた。動きを止めたヘレネサイアの前に芙蓉とルシュが進み出る。

 彼らは互いに顔を見合わせつつ、歯切れの悪い様子だった。芙蓉がじっと見つめて促すと、やがて棍棒女が意を決したように口を開く。


「あ……謝りたいんです。嘘を、つかれてたって知って……そのせいで、ううん、嘘のせいじゃなくてもひどいことしてたって思って……」

「嘘?」

「ディッケルさんが、貸したお金が返ってきてないって皆に言ってたこと……」


 棍棒女が唇を噛んで俯いた。

 昨日、芙蓉がヘレネサイアの実情を訴えたあとのこと。説明されていた事実と異なる現状に、どういうことかと詰め寄った村人達へディッケルは白状した。どうやら彼女が返した借金は、貸主達に戻る前に彼の孫である青年──デファンスによって使い込まれていたらしい。それを隠して村中に嘘を吹き込み、ヘレネサイアを虐げる口実を作り上げていた。

 村人達は元々、村のために惜しみなく魔術が使われ、貧しい生活から解放されると思い込んでいた。だからヘレネサイアに二つ返事で金を貸したのだ。ところが彼女は魔術に制限をかけられ、対価なしでは発動できない。当てにしていた魔術師に不満を持っていたところへ、貸した金すら戻ってきていないことを知らされ、怒りが爆発した。

 一度疑われれば全てがそのフィルターを通され、隠れた真相を探ろうとする者も機会もなくなっていく。多勢に無勢の中で釈明は届かず、ヘレネサイアにも負い目があり、数々の仕打ちを泣く泣く受け入れざるを得なかった。彼女は心身ともに衰弱していき、何が正しくて何が間違っているのか、考えることすらできなかったに違いない。これが、おそらく第三者が現れなければついぞ晒されることのなかったフフの村の真実である。

 ディッケルの唯一の誤算は、芙蓉がユフレ神殿の神官見習いだったこと、そして世情に流されない彼女の性根だった。異世界からやってきたからこそ、この世界の常識や風潮に囚われず、それらを正しく精査する眼と権力を持っている。


「それで、ディッケルさんはなんと?」

「ひたすら謝ってます。でも、肝心のデファンスが見当たらなくて」

「アタシも昨日から見てないんです」

「今、村中総出で探してるけど……」


 現在、雲隠れしたデファンスの代わりにディッケルが激しく糾弾されているそうだ。妥当だな、と芙蓉は思う。ヘレネサイアが受けてきた扱いの責任は負ってもらおう。

 村の女達は悲痛な面持ちで深く頭を下げた。


「あの時はごめんなさい……お金が返ってこないのにまだ対価も取るのかって、腹が立って……ただでさえ食べるものも着るものも少なかったから……」

「今思えばどうかしてたけど……あなたがわざとやってるんだと思い込んでたの……」

「そんな子じゃないってわかってたのに……本当に申し訳ないわ……」


 ヘレネサイアは、そんな彼女達を力のない目で見た。一時の気の迷いといった風ではない。けれど、「うん」とたったの一言が口から出なかった。痣は治ったのにおかしいな、と心の中で別の自分が言う。

 焦点の覚束ないヘレネサイアの昏い瞳を見上げ、芙蓉は眉を下げて女達に会釈した。


「こうして謝罪してくださった事実はヘレネさんも受け取れると思います。ただ、それを受け入れて折り合いがつけられるかは、もう少々お時間をいただければ」

「……そう、そうですね……」

「わかりました……」


 村人達が肩を落として去っていく。ヘレネサイアは長い髪を力なく垂らし、服の裾を強く握り締めた。


「……私、冷たかったかしら……」

「ぜーんぜん!」


 明るい声色が耳に飛び込んできて、おどおどと頭を上げる。ヘレネサイアを覗き込む芙蓉の表情がどこか母親そっくりだった。


「謝られたからって、絶対に許さなきゃいけないわけじゃないと思います。誰でも誰かの気持ちに強制はできませんよ。ここまで長い時間があったんですから、その分ヘレネさんの中で納得できるまで待ってもらいましょう」


 何でもないことのようにそう口にして、芙蓉は「魔術のご教授ありがとうございました」と一礼した。そこで初めて思い当たる。同じ地属性だと話が弾み、流れるように魔術を披露することになったが、ヘレネサイアの指先は淀みなく魔力を操った。常ならば自覚していても止められないほど四足を強張らせていたというのに。

 まるで学院にいた頃みたいだった。習った魔術が形になることが嬉しくて、同級生と競い合うのが楽しくて、両親や村の皆が喜んでくれるかなと想像して。卒業の日を指折り数えて待っていた過去の自分が、数歩先で手招きしている気がした。


「……午後も……」

「はい」

「午後も……どうかしら。あなたさえよかったら、だけど……私、魔術を使ってみたい……それに、あなたに伝えたいことがたくさんあるの」


 ヘレネサイアは頬を紅潮させて訴えた。魔術や学院のことをもっと教えたいし、経験談も打ち明けたい。旅をしているという彼女がなるべく困難に遭わないよう、持てる知見の全てを授けたかった。


「い、いいんですかっ!? うわあ、わあ、嬉しいです! ありがとうございます!」

「ううん、いいの、お礼はいいから、あなたの時間をもらいたいわ。うちで一緒にご飯を食べて、それから始めても構わない……?」

「構いません! 是非お願いします!」


 護衛の少年と喜び合う様が微笑ましくて仕方なかった。母親かと思えば娘にも見えて、不思議な子だなとひとりごちる。

 ヘレネサイアは二人を伴って森を抜ける。目の前の小屋に飛び込んで、最近は特にニコニコしている母に一刻も早く報告したい気持ちでいっぱいだった。逸る心を抑えてノブを回す。きっと彼女も「よかったね」と共感してくれるはずだ。

 しかし──。


「母さん……?」


 開けた扉の先に、その姿はなかった。

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