第16話 対価の魔女②

「ごめんなさい……」


 ルシュはベーコンを切り分ける手を止めて、うなだれる雇い主に目をやった。野菜と大麦を準備している彼女の顔は暗い。


「何がですか?」

「いや……また行き当たりばったりで行動してるなって……話を聞きに行くとか野宿とか勝手に決めちゃってすみません……」

「俺のことは気にしないでください。あくまで護衛ですから、フヨウさんの行きたいところに一緒に行くだけです」


 降りしきる雨に似た音を立ててベーコンに火が通っていく。ここにタマネギやトマトを加えた後、大麦と一緒に煮込めば完成だ。今夜はリゾット風のスープご飯と、食後に果物のハチミツ漬けが待つ。


「……痣が、見えたんですよね」


 ぽつりと芙蓉が零した。伏せられた瞳に小さく燃える火が映っている。


「魔女さんの左目の周りに、大きな痣が。魔術師なら自分で治せるはずなのにしない、あるいはできない理由が対価のことなのかも、って思ったんです。それと、あんなに大きな声で怒鳴ってたこととか、ゴミとか棍棒のこともあって、既にかなり深刻なことなんじゃないかって考えてたらああいう形になってしまい……」


 この人は平和なところにいたんだろうな、とルシュはひっそり思案した。芙蓉はまるでこんなことが許されるのかと、自分の身が裂かれたかのように終始悲痛な面持ちだった。別れ際は村人達に怒りさえ感じていたほどだ。丁寧な態度を崩さないことで自身の感情を無意識に抑え込んでいたが、アミュレットを突きつけてまで介入したのがその証拠だ。

 他者を思いやれるのは置かれた環境や心に余裕があるから。彼女はルシュが考えていたよりずっと他人に同情的で、そして悪意や争い事に不慣れだった。


「俺もそれは感じました。今夜はもう遅いので、まずは明日、話を聞きに行きましょう。それと、スープ吸って増えちゃいますよ」

「はい、そうしま……んわッ既に膨張してる!」


 慌てて匙にかぶりついた芙蓉は、熱さに涙を浮かべながらも「おいひい!」と頬を緩めた。ルシュが目尻を下げて頷くと、ますます嬉しそうに笑う。

 この笑顔が曇ることがないように、どんなものでも退けよう。それが護衛としての務めだと、少年は短剣に固く誓った。



       ◆ ◆ ◆



 翌朝、芙蓉は決意を新たに魔女の小屋をノックした。


「おはようございます! 朝早くから申し訳ございません、昨日ご挨拶させていただいた芙蓉です!」


 相変わらず麻袋の山には蠅がたかっている。肥え太ったまん丸な物体が芙蓉にぶつかりそうになったところを、短剣が素早く両断した。曲芸の如くスパスパ斬っていくルシュに「おお~」と拍手を送る。


「…………なにか」

「っうわあ!」


 いつの間にか扉の隙間から昏い目が覗いていた。左目以外に怪我をしている様子はなく、芙蓉はほっとする。


「ご、ごめんなさい、お時間大丈夫ですか? お話を聞かせていただきたくて……」

「話すことはないと言ったはずよ……」

「待ってくださいちょっとだけ! ちょっとだけでいいんです! 何ならお茶一杯分だけでも! 対価はもちろんお支払いしますので!」


 閉まりそうなドアノブに手をかけて叫ぶ。魔女は迷惑そうな皺を眉間に寄せたが、芙蓉とて退けない理由があった。

 ギリギリと扉を挟んだ攻防の最中、不意に小さな咳の声が降った。


「……どなたかいらっしゃるんですか?」

「っ、…………母よ」


 咳は絶え間なくコンコンと続く。


「ご病気ですか? 自作のもので恐縮ですが、ポーションならこちらに用意が──」

「いいえ結構……こっちでどうにかできるわ……」

「左様ですか。どちらにせよ、お庭は片した方がよさそうですね。なるべく静かにやりますので……」

「はっ?」


 魔女が驚きに顔を上げた。髪に隠れていた相貌が露になり、真っ白な肌に浮かぶどす黒い痣がいっそう痛々しい。


「あ、もしかして何か魔術に使われますか?」

「つ、使わないけれど……」

「差し出がましいようですが、不衛生な環境はお母様によろしくないかと。というわけで、一旦失礼しますね」


 芙蓉とルシュは袖を捲り上げ、二手に分かれて作業を始めた。何やら打ち合わせしつつ袋を運び出し、村人に突撃しては前のめりに話しかけている。

 得体の知れない男女がなぜか家の庭を掃除している。魔女は現実に思考が追いつかないまま、呆然と呟いた。


「一体何がどうなってるの…………?」



       ◆ ◆ ◆



「ふー……大分地面が見えてきましたね。一旦休憩にしましょうか」

「はい。それにしてもすごい量でしたね」

「本当に! まったく、いつからこうなったんだか……」


 数時間のうちに大部分が取り除かれ、小屋の周囲から麻袋は姿を消した。代わりに本来の村の廃棄場が小山になったが道理というものだろう。村人達も遠巻きにちらちら視線は寄越したが、声をかけてくる者はほとんどいなかった。

 額の汗を拭う二人に影がそろそろと近寄る。


「あの……お疲れ様……」

「ありがとうございます!」


 魔女は気まずそうに肩を丸め、小さな声で「……こちらこそありがとう……」と告げる。


「一人じゃ追いつかなくなってたから助かったわ……でも、あなたたちは何が目的なの……?」


 上目で窺う魔女の瞳は揺れている。芙蓉はアミュレットを掲げ、安心させるように笑いかけた。


「当初は宿泊と交換条件に、あなたに対価なしで魔術を使ってもらうよう説得してほしいと言われました。ただ現状を鑑みると、それだけを伝えてもお互いの理解がないままではよくないかと思いまして……ユフレ神殿所属として中立の立場で双方からお話を伺い、できるだけ両者の納得がいく落としどころを探りたいと思っています」


 なので対価の魔術の件も含め、お話を聞かせていただけませんか。そう問いかけられた魔女はしばらく逡巡し──やがて強く目を瞑って吐き出した。


「……昔、ガルズルーンの魔術学院に通っていたの……でも、魔術が対価なしで発動しなくなったのは学院で習ったからじゃない……取引させられたからよ」

「取引?」

「課外授業で出かけた先で話しかけられたの……相手は誰だかわからない……声しか聞こえなかったから……ただ、おそらく人外の存在だと思うわ……」


 「私は悪魔と呼んでいるけれど」と魔女は自嘲気味に皮肉った。


「母の病気が治って、父を楽にしてあげられるかと思ったの……まあそう上手い話はないわよね……その日から、対価がないと魔術が使えなくなった……対価自体に制限はないけれど、いちいち要求しないと学院の試験すら受けられなくて……」


 非常に窮屈で理解され難い特性に振り回され、彼女はだんだんと心を病んでいった。もともと大人しく、他人を頼ることに戸惑う性格も拍車をかけた。示現性に直結する精神の糸が限りなく細くなり、対価を得ても十分な魔術が発動できないことを悟った結果、気づけば学院を飛び出していた。


「そのままここに戻ってきて……卒業できなかったことは言えてないけれど、借りていたお金は返して、対価のことも話したわ……皆も最初は食べ物や日用品をくれていた……」


 対価の分、彼女は力を尽くした。千切れそうな糸を何度も手繰り寄せ、生まれ育った地を守るため、精一杯魔術を行使した。結界は魔物を弾き、作物は豊かに実って、誰もが笑っていたことを覚えている。

 ただし、それも長くは続かなかった。ユニアの情勢は回復することなく悪化の一途を辿り、魔物と不作の影響がこの地にも降り積もるばかりだった。


「そのうち、対価があるからいいだろうって、村で買い物ができなくなった……対価としてこの小屋をやるからって、家から追い出された……でももらえるものはこの袋だけなの……」


 魔女は涙声で顔を覆った。


「さ、最近、う、う、うまく、魔術、つかえない……ちかっ、近くにみんなが、くるのもこわい、の……!」


 彼女が受け取るものは罵声と廃棄物、そして暴力。栄養不足の身体と追い詰められた精神ではますます魔術効果が得られず、それがまた村人達の加虐性を増長させることになる。

 芙蓉はなるべく優しく、害意なく聞こえるよう尋ねた。


「ここを離れるということを……考えたことはありますか?」

「……考えないと言ったら嘘になるわ……でも、母を置いてはいけないし、行くところもない……それに、本来必要ない対価を要求して迷惑をかけているから、せめてその分は働かないと……」


 魔女が洟を啜る。真っ赤に充血したその目に胸が痛んだ。村人達は、彼女のこうした自罰的な性質や対価という負い目につけ込んでいるようなものだ。おまけに事実すら平然と捻じ曲げている。


「あの……今考えるのは難しいかもしれませんが、今後どうしたいとか、どうなってほしいとか希望はありますか?」

「…………」


 どこもかしこも摩耗している彼女には酷な質問かもしれない。考えてもどうにもならないからここにいるのだ。それでも、全てを知った自分には村人達に伝える義務があるはずだと芙蓉は思いを巡らせる。

 じっと見つめる中、魔女は両手を祈りの形に組んでたどたどしく零した。


「……私の名前、ヘレネサイアというの……あなたたちが覚えていてくれたらそれでいいわ……」


 話を聞いてくれてありがとう。魔女と呼ばれた女──ヘレネサイアはそう言って、花のように美しく微笑んだ。



       ◆ ◆ ◆



 一度目が合ったはずなのに、その顔はフイと逸らされた。芙蓉はむっとして声を張り上げる。


「ディッケルさん!」


 芙蓉達を村まで案内した老人──ディッケルは頭を上げない。彼と話をしていた他の村人もぴたりと口を噤んでいる。芙蓉は彼らの正面にぐるりと回り込んだ。


「ヘレネさんにお話伺ってきました。彼女は諸事情でとある人外の存在から魔術の発動を制限されています。少々特殊ではありますが、確かに対価ありきのものでしたので、まずはそちらご認識の程を。それと……巻き上げられたとおっしゃるお金は全て返済されているそうですね」

「あ……あっ? いや、そんなはずは……」

「ディッケルさんの認識では返されていないと?」

「いや、えーっと……この歳になると記憶が曖昧でねえ……ははは……」

「では大事なお金のことなのではっきりさせておきましょうか。私が辿ります。

「…………!」

「ヘレネさんが返したお金には彼女の魔力が残っているはずです。ただ、一枚二枚の話ではないと思うので、私一人では時間がかかってしまいますから、場合によっては殿


 ディッケルは目を剥いた。年老いて乾いているはずの皮膚が水を被ったように濡れている。口を開いては閉じるだけの彼に、芙蓉は畳みかけた。


「そのご様子だとヘレネさんのお話は本当のようですね。であれば、今あなた方と彼女の間に貸し借りは何もなく、対等な関係とお見受けします」


 村内がざわついた。ディッケルは俯いたまま微動だにしない。


「つまり彼女は村のために魔術を使おうが使うまいが自由で、それらは強制されるべきことではないということです。対価の要求が不満なら彼女に魔術を請わなければいい。逆にどうしても魔術が村に必要だというのなら、きちんとした対価を用意すべきです。ゴミなどではなく、彼女の血肉や精神の助けになるものを」

「…………」

「同じ村の生まれで、あなた方と彼女には私が知らない様々なことがあったと思います。困った時に助け合うのはお互い様だというのもわかります。ただ、大声で恫喝したり暴力を振るう必要はないでしょう。ヘレネさんは私とは比較にならないほど勉強されているので、きっと皆さんの力になってくれますから、まずは今優れない彼女の回復を待って、それから改めて今後のお話をするのはいかがでしょう」


 返答がない。左右を見やると、彼らの目線はディッケルただ一人に向けられていた。心なしか皆の顔つきが険しい。当の本人はというと、出会った当初の面影はどこへやら、ただただ背を丸めて沈黙している。


「……とりあえず双方の現状はご理解いただけたと思うので、ヘレネさんの体調が万全になるまではお時間をいただきたく。私達は昨日と同じ場所にいますので、何かありましたらお声がけください」

「あ、あの、宿に御泊まりなさった方が……」

「お気遣いありがとうございます。話し合いが終わったら是非泊まらせてください」


 芙蓉はビジネスライクな笑顔を貼りつけてその場を後にした。

 神殿の威光の威力たるや、人が変わったのかと疑うほどだ。紋章を見せてからというもの、あれほどやかましかった彼らの口は縫いつけられたように閉じている。虎の威を借る狐そのものだが、人助けに役立つなら権力様様である。


「フヨウさん」


 フードの下からキトンブルーが問うた。


「ヘレネさんの魔力を辿る件、俺にも何か手伝えますか? 感知はできませんが、足にはなれます」

「あ、いや、それは……えーと……」


 真剣な眼差しが心臓に刺さる。芙蓉はへなへなと萎れて「嘘なんです……」とか細く白状した。


「もちろん魔術師なら意図的に痕跡は残せますが……あまりに話が食い違うのでカマをかけました……」

「ああ、なるほど。そういうことだったんですね」

「ごめんなさい、気を遣わせてしまって……」

「俺は大丈夫ですけどフヨウさんが……あ、手紙、気分転換に読んだらどうですか? さっき届いてましたよね」

「っああ! そうでした!」


 芙蓉は荷物を探って一通の封筒を取り出した。

 エウリヤナのリス型の使い魔が眼前で形を成したのはつい先刻のこと。彼女の魔力を身につけた芙蓉を目的地としてやってきたそれは、アミュレットに宿るものと同様の種類らしかった。

 手紙の差出人はかの大神官だった。上質な羊皮紙からは花の香りが漂い、優雅な文字が紙面を踊っている。


「ふんふん……あああこれすごい嬉しいやつですよ! 『フイエの村の方々から感謝の言葉をいただきました』って! 神殿宛にお手紙書いてくれたみたいです! ここです、ここ!」

「えっ……俺のことも書いてある……」

「そりゃあもう八面六臂の大活躍でしたから~! おお、ロッドさん達のことも書いてありますね。……そういえばお礼しないといけないんだった……」


 「ニオイは覚えた」と凶悪な笑みを浮かべたロッドウォルフを思い出し、芙蓉は冷や汗をかきながら手紙を折り畳んだ。返事を書くついでに獣人の好物も念のため聞いておこう。


「いやー手紙ってすごいなー。かなり元気出ましたね。切り替えてご飯も頑張って作りましょう!」

「そうですね。まだ大麦があるので、味だけ変えてみますか?」

「あ、それなんですけど、また鳥捕ってもらってもいいでしょうか……? ベーコンを鶏のムネとかササミに替えてみたらどうかと思いまして。……胃が弱ってても食べやすくなったりするかなあと」


 照れ笑いする雇い主の考えていることが手に取るようにわかった。ルシュは「はい、きっと」と眦を緩め、後ろ手に小型のナイフを放つ。次の瞬間には、木から落ちてきた野鳥に「えええノールック!? 達人がやるやつ!!」と飛び上がって喜んでくれるのだろう。それがわかる自分のことも、ルシュは少しだけ誇らしいと思えた。


「えええノールック!? 達人がやるやつ!!」

「んグッ……ふっふふ……」

「あれ? ルシュくん笑ってます? というか堪え過ぎて死にそうになってる!? なんでェ!?」

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