第10話 キトンブルーの少年

 甲高い鳥の囀りが耳を叩く。


「……ぅ、……」


 照りつける陽光に、閉じた瞼ごと目を焼かれているような感覚だった。ひどくぼんやりとした気分のまま身を起こす。


(うう……あちこち痛い……)


 頭は絞めつけられるように重く、皮膚は風が吹く度に針で刺されるよう。ふくらはぎはだるいし、打ちつけたのか背中にも鈍痛がある。満身創痍の体躯を支えようと手をつくと、わさっとした感触が走り、ギクリと強張った身体がまた悲鳴を上げた。


「え……え? 木っ?」


 なんと、芙蓉がいたのは木の上だった。正確には、大木から不自然に伸びて絡まり合った枝に、これまた不自然に葉が密集して座布団のように丸く広がっている上だ。どうやら崖から落下した後、運よくここに受け止められたらしい。


(ああよかった……下手したら頭打って死んでた……)


 幸運にも訪れなかったもう一つの未来に寒気を覚えつつ、芙蓉は慎重に辺りを見回した。

 周辺には鬱蒼と木々が生い茂っており、澄んで冷たい空気が漂っている。夜が明けたばかりなのか、鳥鳴き以外は聞こえてこない。

 芙蓉は全身をペタペタ触り、怪我の具合を確認した。腕も動くし、足も折れてはいない。行動に支障がありそうな部分にだけ取り急ぎ応急手当をすれば問題ないだろう。頭部と後背部に魔力を集中させ、木から降りようとしたその時だった。


「……ゲッ……ギャ……」

「──!!」


 かすかに聞こえた声に総毛立つ。咄嗟に息を潜めると、複数の足音がこちらに向かってきているのがわかった。固まる芙蓉を乗せた枝がミシリと軋む。

 やがて、眼下を得物を担いだ三匹のゴブリンが通りがかった。口々に理解不能な言語を発しながらしきりに周囲を探っている。しばらくすると手分けすることにしたのか、そのうちの二匹が離れていった。


「ギギ、ガゲッゲ、ギギ、ガゲッゲ」


 残った一匹は鼻歌のようなものを繰り返し、棍棒で茂みをかき分けている。やはり何かを探しているようだ。芙蓉が生唾を飲み込んだ瞬間、今度は音を立てて枝に亀裂が入った。


「──ギャギャギャギャギャギャッ!!」

「ひっ……!」


 勢いよくゴブリンの顔が上向く。その目が確かに「見ツケタ」と言っていた。黒光りする眼が愉悦に弧を描き、恐怖に顔を強張らせる芙蓉を射抜く。


「ゲギャギャギャギャッ」

「っあ、こな、来ないでっ」

「ギャヒヒ、ギャヒッ──ゴ、オッ……!?」


 木に手をかけたゴブリンの動きが止まった。そのまま硬直して倒れ伏した後頭部には、銀色の細長い何かが突き立てられていた。


「大丈夫ですか」


 いつの間にか、そこには一人の少年が立っていた。


「え、あ、だい、だいじょうぶです、ただあの、気をつけてください、その辺りにあと二匹いてっ」

「わかりました」


 少年はひとつ頷き、細長い何か──銀の短剣を引き抜いて駆け出した。案外近くにいたのか、すぐに二つの濁った断末魔が届く。きちんと全員仕留められたのがわかり、芙蓉はようやく安堵のため息を吐いた。

 戻ってきた少年は武器を腰に収めると、じっと芙蓉を見上げた。年の頃は十五歳前後といったあたりだろうか。声色が中世的な上、被ったフードから覗くキトンブルーのくりくりとした瞳が幼げな雰囲気を醸し出しているので、もっと若いのかもしれないと芙蓉は頭の片隅で思う。


「枝が折れそうなので、俺がそっちに行きます。そこで待っていてください」

「は、はい」


 幹を一度蹴っただけで、少年はあっという間に芙蓉のいる高度までやって来た。猫科の動物のようにしなやかで物音がない。驚く芙蓉に向かって、年齢に似つかわしくない大きな手が差し出される。


「掴まってください」


 おそるおそる重心を移動させれば、途端に始まる不吉なひび割れの音。縋るように手を伸ばすと、腕に掴まるよう導かれ、少年の片手は芙蓉の身体をいとも簡単に引き上げた。

 完全に折れた枝の気配を背後に、気がつけば芙蓉は少年に抱えられたまま地上に降りていた。


「立てますか。もし歩けそうになければこのまま──」

「だっ、大丈夫です、歩けます! どうもお世話になりました!」


 少年の気遣いに礼を述べ、芙蓉は慌てて地に足をつけた。彼はたいそう力持ちなのか難なく抱えていたが、ひと回りも年下に見える男の子に運ばれていくなんてできるわけがない。今は平気でも、そのうち体重で潰してしまいそうだ。


「……改めまして、ありがとうございます。本当に助かりました。通りがかってもらえなかったらどうなってたことか……」

「いえ、最初からあなたを捜していたので。見つかってよかったです。近くに馬車が停まっているので、イヴァに行きましょう」


 冒険者ギルドに所属するこの少年は、今回の討伐隊の一員だという。

 昨夜、突然現れた火の獣、そして大量のゴブリンと対峙したユフレ神殿の大神官と騎士達。緊急の一報が付近のイヴァの街に届き、偶然居合わせた彼は傭兵として招集された。到着した時には巨大な獣は姿を消していたものの、傷だらけの神殿一行が無数のゴブリンに襲われていたそうだ。


「怪我っ!? ど、どれくらいですか!?」

「見た限りだと、かなり深手だと思います。騎士の人は火傷がたくさんあったので、火の獣にやられた上にゴブリンに囲まれて動けなくなったんじゃないかと」

「そんな……」


 芙蓉はあまりのショックに言葉を失った。エウリヤナ、クルーガー、スピアーノ、フリウス、フレミオ。獣相手に互角に渡り合い、ゴブリンなど優雅に切って捨てていた彼らが血を流したなんて。

 先導する少年が振り返り、大神官達はイヴァに運び込まれたことを教えてくれる。


「金髪の騎士の人が、あなたをずっと気にしていました。追いつくと言ったのに見失ってしまったと」

「フレミオ卿……」


 最後に見た彼女は、芙蓉を庇い、異質なゴブリンに一人立ち向かっていった。護衛を担当すると意気込んで、芙蓉の傍にいても違和感がないようにと鎧すら着ていなかったのに。大勢の魔物に囲まれ、生身にどれほどの傷を受けたことだろう。それなのに芙蓉のことばかり心配しているのが苦しくてやるせなかった。

 少年の言う通り、開けた前方に馬車があった。乗っているのは討伐隊の一部なのか、「見つかったなー」「よかったよかった」とそれぞれが喜んでくれる。芙蓉は固い表情のまま彼らに会釈を返し、差し伸べられた少年の手を取った。



       ◆ ◆ ◆



 粗末な馬車は大いに揺れた。神殿の用意した立派な四輪駆動に慣れていた芙蓉には、怪我も相まってかなりつらいものだったが、少年や討伐隊の面々がお尻の下に敷く毛布をくれたり、顔や腕の傷を手当してくれた。おかげで体感約一時間、どうにか音を上げずにイヴァまで我慢することができた。

 辿り着いた街の入り口には、ギルドマスターと名乗る男が待っていた。馬車が出発する前に飛ばされた知らせを受け取ったという。がっちりとした体つきの理知的な瞳をした人物で、馬車から飛び降りた芙蓉と少年を大神官達の元へ案内してくれた。


「昨日はギルドにほとんど人がいなくてな。やっとこさかき集めて向かわせたが、かなり遅くなっちまった」

「怪我……ひどいと聞きました」

「……すまんな」


 消沈した表情のギルドマスターに首を振って、芙蓉は部屋へと足を踏み入れる。


「──芙蓉さん」


 窓から差し込む光を受け、神秘的に輝くエウリヤナが目の前にいた。プラチナブロンドも蘇芳色の眼差しもそのままに。けれど、顔の半分を覆う包帯や、そこに滲む赤い痕に嫌というほど実状を悟った。

 顔面蒼白で四肢を震わせる芙蓉にエウリヤナは微笑む。


「ああ、生きていてくださってよかった……ずっと気が気じゃなかったんです。あなたがフレミオ卿とはぐれてしまったと聞いて、生きた心地がしませんでした」

「ごめ、ごめんなさい、すみません」

「いいえ、無事で安心しました。私の方こそ役立たずです。まさか彼に奴がついていたとは知らず、結果的に後れを取ってしまった。その結果がこれです。大神官ともあろうものが、本当に情けない」


 指の先端まで巻かれた包帯ごと、悔しそうに拳が握られる。焦ってそれを解こうと遠慮がちに触れる芙蓉に、エウリヤナはいつものアルカイックスマイルを向けた。


「大丈夫です。そのうち魔石が届くでしょうから、それまでの辛抱です。魔力もすっかり使いきってしまったので、しばらくは安静にしていなければなりませんが」

「……っ!」

「私は大丈夫ですよ」


 芙蓉の指先を自身のそれと絡め、彼女を見上げて言い含める。苦痛を堪えるように歯を喰いしばっていた芙蓉がゆっくりと首肯した時、悲痛な声が部屋の空気を切り裂いた。


「フヨウ様ッ!」


 ビクッと芙蓉の総身が揺れる。振り向くと、髪を振り乱したフレミオと、彼女に肩を貸したフリウスが息を荒げていた。


「っお二人とも──」

「申し訳ございません!!」


 フレミオが床に手をついて倒れ込んだ。エウリヤナと同じくらい包帯を巻かれており、負った傷の影響で全身を痙攣させながらも、額をこすりつけて離さない。

 びっくりした芙蓉が駆け寄ると、その隣にフリウスまでもが這いつくばった。


「御身を危険に晒したばかりか、捜索にも当たれず他人を頼る始末。全てわたしの不徳の致すところであり、申し開きのしようもございません」

「重ねてお詫び申し上げます。妹の不始末は私が代わりに償いますので、どうぞ何なりと罰を」


 信じられない気持ちで二人を見る。わなわなと引きつる口元から零れたのは、およそ理解しかねるといった心情そのままの声音だった。


「なんで……なに、いってるんですか……? あ、あんなのに襲われたらどうなったって仕方ないですよ! むしろ戦えなくて迷惑かけたの私じゃないですか!」


 兄妹は微動だにしない。芙蓉は逸る心をどうにか鎮めながら、もどかしさに辟易した。


「あ、あ、もしかしてこの怪我ですかっ? これは私が勝手に転んだやつです! お二人とも、私のことたくさん守ってくれましたよ。……あの、本当に大丈夫ですから……お願いですから謝るのやめてください……」


 兄妹は微動だにしない。芙蓉はとうとう懇願するほかなかった。


「頭上げてくださいよォ……誰も悪くないでしょお……っ!」


 お手上げとばかりにエウリヤナへ視線で訴える。「あなたの部下は私に『ご命令を何においても遂行します』と言ったくせに全くお願いを聞いてくれないのでどうにかしてください」と書かれた顔が大神官を吹き出させた。


「オホン! ……フリウス卿、フレミオ卿。顔を上げてください。護衛対象を無視する気ですか」


 俯いたまま、二人はやっと上体を起こす。その隙を逃さず、芙蓉はぐっと顔を近づけた。


「──私、ちゃんと生きてます。つまりお二人はきちんと私を守ってくださったってことです。だから謝る必要も、罰も何もいらないんです。本当にありがとうございます」

「ですがっ……!」

「あの時、お二人含め、皆さんが全力を尽くしてくれた。そのおかげで、あんな意味不明な大きい相手でもこうして生き残れた。終わりよければ全てよし、ってやつです。今こうして会えたから、過程がどうあれ、私は皆さんが生きててくれただけでいいんです……っ!」

「っフヨウ様~~~!!」


 おいおい泣きついてきたフレミオを抱き留めて背をさする。そんな妹を止めようとした兄の手を制し、代わりに芙蓉は握手のように握った。不意を突かれたと言わんばかりのフリウスの顔がおかしくて、笑うと余計に視界が滲む。

 フリウスは数秒動きを止めた後──眦を解いて珍しく不器用に笑い、引き寄せた芙蓉の手の甲にそっと口づけた。「ンギャッ!」と飛び上がる様子がどこか妹の仕草に似て、人知れずそっと微笑む。


「──芙蓉さん、一つ提案が」

「はっ、はい!」


 したり顔の兄に妹と部屋へ戻って療養するよう伝え、エウリヤナの傍に立つ。彼女の視線は芙蓉ではなく、なぜか部屋の片隅──ギルドマスターと少年にじっと注がれている。


「あなたの護衛であるフリウス卿、フレミオ卿はどちらも重症です。魔石で治療したとしても、しばらくは静養が必要でしょう。クルーガー卿、スピアーノ卿に至っては未だに目を覚ましていない」

「……はい」

「なので、代わりの護衛を依頼しようかと」

「……はい、えっ?」

「既に事は動いている。あなたは少しでも早く魔術学院に行く必要があります。──そこのあなた、名前を教えてくださいますか?」


 はっとしたギルドマスターが少年の背を押す。水を向けられた当人は俯いていた頭を起こし、背筋を伸ばした。


「ルシュです」

「ルシュさん、あなたが彼女を見つけてくださったそうですね」

「はい」

「複数のゴブリンも難なく排除したとか。ギルドマスター、彼の実力は如何ほどでしょう。ギルドでのクラスはどれにあたりますか?」

「ええと、B級です。護衛を引き受けるには問題ないかと」


 「結構」と得心したエウリヤナは、少年──ルシュを真っ直ぐに見つめ、告げた。


「ルシュさん。突然ですが、こちらの芙蓉さんの護衛をお願いできますか? 行先は国境都市レイドラ、期間はそこで次の護衛に代わるまでです。報酬は金貨百枚。前払いとして五十枚、彼女が依頼完了のサインをしたら残り五十枚をお支払いします」


 実際の金額は計りかねたが、かなりの報酬額であることは芙蓉にもわかった。村ではついぞ見かけなかった金貨で支払われるというのだ、おそらくルシュのクラスを鑑みても破格なのは間違いない。証拠にギルドマスターは今にも泡を吹いて倒れそうな中、全力の身振り手振りでルシュに承諾を促している。


「いかがでしょう。今後のあなたの昇級にも一役買える依頼かと思いますが」


 将来性についてもほのめかし、エウリヤナはルシュの反応を伺う。類を見ないほどの高待遇、それも大神官直々の指名。実力がなければ日々の暮らしも危ういギルド員ならば、断る選択肢すらない依頼である。

 全員が固唾を飲んで見守る中、ルシュはフードに手をかけて口を開いた──。

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