第9話 燃え盛る脅威

 ハイマの村を出発してから五日が経過した。

 道中、いくつかの街で馬を交換しながら、時に野宿も辞さず、一行は早足で都市ネレイを目指していた。大神官の強大な魔力の結界が並の魔物を寄せつけないため、旅程は順調に進んでいる。

 三度目の野営であるその夜、芙蓉は眉根を寄せて力んでいた。


「ふンぐぅう……ッ!!」


 目の前のかさついた武骨な指に走る切り傷。その破れを内から塞ぎ閉じていくイメージで、魔力を少しずつ注いでいく。


「ふう……どうでしょう、塞がってますか?」

「ええ、確かに。血も止まっていますな」


 白髪の老騎士──クルーガーは、一筋の薄い線となった傷に目を細める。芙蓉は安堵し、汗を拭いながら全身の力を抜いた。

 魔術学院には入学試験がある。卒業生であるエウリヤナからそう聞かされ、芙蓉は非常に焦った。一片の才があれば誰でも入学できるものだと思っていたのだ。ともすれば魔術師になれる・なれない以前の問題だと、入学可能な段階まで鍛錬する日課を課したのはつい先日のことである。


「貴重なお力に感謝を。さ、こちらをどうぞ」

「ありがとうございます!」


 クルーガーの差し出したマグカップを受け取る。ククサと呼ばれるそれは白樺のこぶから作られた木製食器で、軽量ながら保温に優れた、便利な露宿のお供だ。

 中には爽やかな甘い香りのするお茶が入っていた。エウリヤナが種から一瞬で育て上げたジャーマンカモミールの成分が丹念に抽出されており、飲み慣れない芙蓉のためにハチミツ等で甘味が足されている。ジニアや彼らのこうした気遣いのおかげで、この世界に来てから芙蓉はハーブティーが大好きになった。


「大分治癒が早くなりましたね」


 深々と頭を下げたクルーガーと入れ替わりに、ククサを持ったエウリヤナが隣に腰掛ける。芙蓉は含んでいたお茶を嚥下し、照れたように頭を掻いた。


「あ、ありがとうございます。まだ完治には程遠いですが……」

「あら、もうほぼ治っているようなものじゃないですか。かなり上達していますよ。大丈夫、きっと入学試験も受かります」

「へへ、はい、頑張ります」


 エウリヤナの言う通り、確かに手応えは感じている。村にいた頃は魔力を出し入れするだけの単純作業だったものが、今では人体を治療するまでに至っていた。微々たる治癒速度や回復量は魔術とは呼べない代物でも、魔力操作技術は日々向上しているはずだ。

 そんな芙蓉の当面の目標は、体内の魔力保有量の増加及び魔力操作技術を魔術へ昇華させること。そのために、日々神殿騎士達の細々とした怪我を治し、大神官の魔術を参考にひたすら魔力のみで植物を育てている。そうして一旦魔力を使い切ったら、食事や睡眠で都度補給を繰り返し、経路という身体の中の魔力の通り道を拡張していく。すると、魔力が尽きてしまう回数が少なくなるので、自ずと試せる魔力操作の幅も広がっていくというわけだ。

 ふと、常より神妙な顔つきのクルーガーがエウリヤナの方へ戻ってくるのが見えたため、芙蓉は断って彼女から離れた。飲み終えたククサを洗いに行こうとした先では、料理中の三騎士が何やら騒々しい。


「だからオレ苦手なんだってェ! 君たち平気ならどうにか……お、フヨウ様! いーいところに!」


 わめきながら鍋をかき混ぜていたスピアーノがお玉を振る。芙蓉はククサ片手に小走りで駆け寄った。


「どうされました? 何かありましたか?」

「それが聞いてくださいよ! さっきからブンブンブンブン──」

「無視していただいて結構ですよ。スピアーノ卿が虫如きでうるさいだけですから」

「ええ、虫だけに」

「う、上手い……」

「ひっでえ! オレには死活問題なのに!」


 兄妹の冷たい視線に晒されながらも、スピアーノはどうにかして虫を追い払ってほしいようだった。普段は飄々とした壮年の男の半泣きを見て、芙蓉はこっそり笑いを噛み殺す。


「虫除け切れちゃってたんですね。すぐ作ります」

「ありがとうございますッッ!!」

「スピアーノ卿……こんな些事でフヨウ様のお手を煩わせるとは……」

「最低です……騎士の風上にもおけない……」

「噓でしょそんな言う!?」


 芙蓉は静かに肩を震わせつつ、慣れた手つきでローズマリーとレモンを切り分けていく。

 エウリヤナの結界は魔物にこそ絶大な効果を発揮するが、それは『魔力を持つものを通さない』という条件付けで強化されているためだ。魔力を持たず、害のない虫等は見逃される。ただし、魔石を持つほど魔力を溜め込めば、どんなに小さな虫といえどこの結界の対象になるのだろう。

 木製のボウルに二つの材料を入れ、分けてもらった熱湯を注ぐ。あとは粗熱を取り、布巾で濾せば出来上がりだ。ローズマリーとレモンの成分には防虫効果があり、これを周辺に撒いておくと格段に虫が寄りつかなくなる。

 必要なことや注意すべきことを教わるにつれ、朧げだった不安が解消されたのか、芙蓉は野宿にそこまで恐れを抱かなくなっていた。万全の結界と頼もしい騎士達、そして何より唯一の理解者であるエウリヤナの存在。彼らがいればきっと大丈夫だ。

 ──それが間違いだと気づかされたのは、わずか数時間後のことだった。



       ◆ ◆ ◆



「────フヨウ様ッ!!」


 鋭い声に脳を張り飛ばされた気がした。

 見開いた視界に緊迫した表情のフレミオが映っている。目を覚ましたのを確認し、彼女は強引に芙蓉を起き上がらせた。


「フヨウ様、フヨウ様、どうか落ち着いて聞いてください」

「は、はい……?」

「我々は今──


 瞬間、地響きのような音が轟き、芙蓉は咄嗟に身を竦ませた。宥めるようにその肩をさすり、フレミオが性急に言葉を紡ぐ。


「大神官と皆が応戦しています。わたしはフヨウ様を連れて逃げるようにと。立てますか? 外に出たら全速力で──」


 衝撃で馬車の屋根が吹き飛んだ。フレミオに庇われながら目を向けた先には、杖を手にした大神官と、彼女の盾となる三人の騎士、そして──。


(火でできた、獣……?)


 そこにあったのは、身体中から火炎を噴き上げる巨大な四足の手足だった。先端から生えた地面を抉る爪が完璧なはずの結界を引き裂いている。

 全貌を見上げることが叶わないほどの巨躯の天辺から、よく通る芝居がかった台詞が降った。


「おいおい、ちょーっと顔見せてくれって言っただけだろ。確かに結界壊しちまったのは悪かったよ。あんまりにもコイツがデカくなり過ぎたもんだから加減が──」

「黙れ、邪神が」


 憎悪を煮詰めたような怨嗟がエウリヤナから吐き出された。杖が光り、地中から隆起した無数の岩槍が炎の獣へと伸びる。同時に足元で亀裂が走り、崩壊した地盤に巻き込まれて四足がぐらついた。

 迫る穂先が降りてきた頭部を狙い──寸前で弾かれて砕けた。しかしエウリヤナは意に介さず、四方八方から次々に槍を浴びせかける。それらはどれも獣に触れることなく、払われては土くれと化す。

 息を潜めていたフレミオに目で合図され、芙蓉は頷いて腰を浮かせた。ほんの刹那こちらを見た、蘇芳色の強い視線を信じていた。


(大神官が注意を逸らしてくれているうちに、遅れずにフレミオ卿についていかなくちゃ。大丈夫、後で必ず合流できる。私はぼけっとせず、フレミオ卿を見失わないように全力で走ろう──)


 フレミオの結い上げられた髪が道しるべのようにたなびく。追って駆け出そうとした、その時だった。


「ギャギギッ!」


 二人の前に躍り出たのは、子供ほどの体躯の、しかし醜悪でしわくちゃの老人のような見目をした魔物──ゴブリンだった。錆びたナイフを振り回し、興奮したように飛び跳ねている。そのだらしなく飛び出た舌が見つけた獲物を味わう前に、頭部が真っ二つに割かれた。


「釣られて集まってきたか」


 粘つく体液を振り払い、フレミオは剣を構え直す。いつの間にか、野営地の周辺から耳にこびりつく鳴き声が幾重にも木霊していた。

 ゴブリンは、冒険者ギルドの新人であっても挑戦を許される程度の魔物である。一匹一匹はさほど強くない上、素早く動けるわけでもない。けれども厄介なのが、道具を使いこなす性質とずる賢く執拗に標的を狙う性格だった。また、単独で行動していることはほとんどなく、一匹が仲間が呼び、仲間が集団を呼ぶため、囲まれる前に倒しきるのが鉄則といわれている。

 結界が破られ、炎の獣のおこぼれに預かろうと思ったのだろう。事切れた仲間の死体を踏みつけ、棍棒や斧片手ににじり寄ってくる。


「あ、おーい、待て待て」

「動くなッ!」


 獣が一歩踏み出した。地震を発生させながら足を地に下ろす度、ぼたりと滝のような水滴が落ちる。周囲を燃やしながらフレミオ達に近づいていく巨体へ、エウリヤナの魔術がいっそう集中する。


(よ、よだれ……!? どうしよう、食べられたら骨も残らない……!)


 おそらく口に入る前に焼け落ちるだろう。ぞっとする芙蓉の背後で、黒ずんだ鈍器がゆっくりと振り被られる。


「フヨウ様!」


 はっとして振り返ると、胴体をひと薙ぎされたゴブリンが視界に飛び込んできた。息を切らせたフリウスが芙蓉の前に立ちはだかり、殺到する敵を端から切り伏せる。


「ご無事ですか!」

「はっ、はい! ありがとうございます!」

「兄さん、手を貸して! この先を抜ける!」

「ああ!」


 群れの猛攻が途切れたわずかな隙をつき、フレミオは芙蓉の手を強く握った。


「行け、フレミオ! 必ずフヨウ様をお守りしろ!」


 叩き切られた腕が舞う中、二人は弾丸のように飛び出した。動くものに反応したのか、獣が低く唸り、ゴブリンの集団は吸い寄せられるように後を追いかける。

 躓きそうになりながらも、芙蓉はつながれた手を頼りに必死に足を動かした。夜目が利くのか、フレミオは月明りしかない真夜中の闇を迷わず突き進んでいく。時折、彼女に切断されたゴブリンの一部が芙蓉の頬をかすめた。


「ゴォォオオン!!」


 突如として、身を揺るがすような咆哮が耳をつんざいた。行く手に大きな影が立ち塞がり、フレミオは舌を打って芙蓉を背に隠す。

 茂みからのそりと現れたのは、明らかに通常とは一線を画す規格外のゴブリンだった。頭の先から爪先まで皮の防具を纏い、鉈のような武器を引っ提げて、まるで戦士のような出で立ちをしている。それは薄笑いを浮かべると、自身の半分ほどもある岩を片腕で持ち上げた。


「ッ!」


 豪速で投げられた塊を身を屈めてやり過ごす。フレミオは芙蓉の手を解き、ウォーリア型のゴブリンに切りかかった。


「フヨウ様、お逃げください! すぐに追いつきます!」


 芙蓉は一時逡巡し──フレミオの脇をすり抜けた。ゴブリン達は相変わらずしつこいくらいに押し寄せてくる。けれどきっと、追いついたフレミオが薙ぎ払ってくれるだろう。ゲギャガギャうるさい群集を引き連れ、祈るように芙蓉はひた走る。

 その終わりの見えない逃走の最中、不意に足がふっと軽くなった。あれ、と思った時には既に遅く、前のめりに崩れる体勢と嫌になるほどコマ送りの風景に現実を突きつけられる。


(あ、崖、落ち────)


 嘲笑うかのような魔物達の声。それらに押し出されるようにして、宙に投げ出された身体は為す術なく落下していく。ぽっかりと口を開けた眼下の暗闇を前に、芙蓉が覚えていたのはそこまでだった。

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