第7話 いちばんだいじなこと
その晩、芙蓉のこれからがエリカにも話された。
今まで姉を一片たりとも否定しなかった妹は、家族がまた一人減ることを知って、今度こそ怒り、泣きわめいた。芙蓉はどうにか宥めようとしたが、ついに「おねいちゃんのばか」「きらい、あっちいって」のコンボに撃沈した。夕食に手をつけず、ベンを抱えて部屋に閉じ籠ったエリカは、朝になっても出てこなかった。
(いや……私が傷つくのは違う。傷つけてるのは私の方だ……)
エリカと、そしてジニアの泣き顔が頭から離れなかった。ひっそりとした夕食が始まっても、彼女はふとした瞬間に涙ぐんで席を立ち、自分に言い聞かせるように深呼吸していた。いつも真っ直ぐな背中が堪えるように何度も丸くなるのを見て、芙蓉は最後の手料理の味を覚えていられなかった。
翌朝は、憂鬱な気分とは裏腹の、絵に描いたような快晴だった。
「おはようございます。お迎えに参りました!」
「おはようございます。お荷物お持ちします」
「お、はようございます」
控えめにノックされた入り口のドアを開けると、天使のような風貌の美形の兄妹が目の前におり、芙蓉は気圧されるようにのけぞった。妹のフレミオは効果音がつきそうなほどにっこり笑い、兄のフリウスが芙蓉の手から荷物を掬い上げる。彼らは鎧を纏っておらず、村人のそれにも似た軽装だった。
家の前には大型の幌馬車が停まっていた。四頭もの若々しい馬が整列している様は圧巻の一言で、「西部劇とかで見るやつ」と芙蓉は内心浮足立った。
「道中はこちらの馬車になります! フヨウ様、馬車に乗られたことは?」
「いえ、実は初めてなんです」
「左様ですか! 慣れないうちは酔ってしまうかもしれませんが、そこはこのフレミオにお任せを! 酔い止めの煎じ薬や気分転換の香草その他諸々、たくさん用意してございますので!」
「あ、ありがとうございます、助かります」
ずいと顔を近づけて力説するフレミオに芙蓉は戸惑う。昨日の騎士然とした立ち振る舞いはどこへやら。打って変わって元気で人懐っこそうな彼女を、記憶の中の同一人物と結びつけるのが難しかった。
その様子を見ていたフリウスがため息を吐いて旋毛を押し込む。「ギャッ」と尻尾を踏まれた動物のように、フレミオは飛び上がって頭を押さえた。
「フレミオ、馴れ馴れしいぞ。フヨウ様が困っていらっしゃる」
「ええっ!? 申し訳ございませんフヨウ様! わたし馴れ馴れしかったでしょうか!?」
「あ、いやそんな……すみません、昨日お見かけした姿とかなり、その、違うような気がしてびっくりしてしまって……あの、でも全然嫌とかではなく! むしろ親しみやすいなと! あと、お、お顔が綺麗過ぎて近いとドキドキしてしまうというか……!」
フレミオは、頬を染めて視線を右往左往させる芙蓉を目を丸くして見つめた。自分の顔が他人の目にどう映るか、これまでの人生経験である程度はわかっていた。それなのに、芙蓉が同性だからか、初めて言われたわけでもない賛辞が妙にむず痒い。
「……申し訳ございません、フヨウ様。驚かせてしまいましたね。ここだけの話なのですが、わたし、とある方がいらっしゃらないとすぐ騎士ではない自分に戻ってしまいまして」
「とある方」
「はい。兄とわたしの他にあと二人、クルーガーとスピアーノという騎士がこちらに来ているのですが……そのクルーガー卿が非常に厳格な方でして。彼の前では騎士っぽくなれるのですが、いらっしゃらないとどうにも、こう……解放感に満ち溢れるといいますか痛い! 旋毛やめて兄さん!」
「なるほど、いいことを聞いた。クルーガー卿に進言しておこう」
「それだけはやめて! 違うの、それだけじゃないの、フヨウ様と歳が近そうだったからね、いっぱいお話できたらなって!」
涙目でわめくフレミオに、フリウスは片眉を吊り上げる。
「お前、護衛の意味が本当にわかってるのか? 遊びじゃないんだぞ」
「あ! ええと、そこは大丈夫ですよね! 護衛はきちんとした上で、さらに私とお話してくださってるんだと思います! そ、そういうことですよね!」
「はい、そういうことです!」
「お前っ!」
「やめて兄さん! フヨウ様を怒らないで!」
「私!?」
「あ、いえ、フヨウ様ではなく……フレミオ!」
「フヨウ様、わたしが命に代えても兄からお守りしますからね! 大船に乗ったつもりでご安心ください!」
「収集つかなくなってきた……」
妹のボケに苦労しているツッコミの兄の図が見えてきたぞと、芙蓉は当人に向き直る。
「荷物、ありがとうございます。ええと、フリウス卿……とお呼びしても?」
途端、騎士の面構えに戻ったフリウスが優雅に微笑んだ。
「ええ、もちろんですとも。呼び捨てていただいて構いませんよ」
「ありがとうございます、ではフリウス卿。……昨日は初対面にも関わらず不躾な態度を取ってしまって申し訳ございませんでした。私、走っちゃったのに、ずっとついてきてくださってましたよね? おかげ様で無事に家に帰れましたので、ご報告とお詫びをと思い……すみません、今更という感じですが……」
今度はフリウスが目を丸くする番だった。夜道を女性一人で歩かせず、傍について送り届ける。それは騎士の職務及び自身の常識内では当然のことであって、逐一礼を言われるものではないと思っていた。妹と同じく、改めて言葉にされるとどうにもこそばゆい。
「……いいえ、フヨウ様。お詫びだなんて。ですが騎士冥利に尽きますね。今後とも何なりと御用をお申し付けください」
「えっ」
「我らは騎士です。いついかなる時もあなたをお守りし、あなたのご命令を何においても遂行します。どうぞご遠慮なく」
「じゃ、じゃあ、一つ、よろしいでしょうか……?」
「はい、何でしょう?」
芙蓉はこれ幸いとばかりに、荒くなりそうな鼻息を我慢しつつ、言えずに引っかかっていたことを打ち明けた。
「その『様』というのをやめていただきたいのですが……!」
「はい、何でしょう?」
「なんで聞こえなかった振りするんですかァ! 『様』は恥ずかしいしそんな身分じゃないからやめてほしいんですよォ!」
あくまで芙蓉は現代人である。かしこまった敬称なんて、身近なものでは取引先とのメールか自分の推しにしか使われないものなのだ。
華麗に流されて羞恥に見舞われる芙蓉に、フリウスは悲しげに弁明する。
「お言葉ですが、フヨウ様と我々の間には明確な身分が存在します。いずれは神官になる御方を軽々しくお呼びすること、ましてや御名前を呼び捨てなどできるはずがありません」
「兄さん、呼び捨てしていいとは言われてないけど」
はた、と思い当たった。
(そうだった……代闘士だけど、あくまで表向きは神官見習いだった……)
大神官曰く、代闘士の存在を知っているのは守護神とその眷属、そして直属の神職のごく一部のみ。そのため、芙蓉もむやみに口外できず、対外的には神官見習いとして振舞わなければならない。
とはいえ、現代には社長を『さん』付けで呼ぶフラットな会社もある。どうにかその方向に持っていけないかと芙蓉は粘った。
「たとえば他の人がいないところでだけとか……あ! 今後は確かこの三人になるんですよね? その時は……」
「はい。良家のご令嬢のお忍び旅行という設定でフヨウ様とお呼びします」
「設定!? いや、ちょっ、『さん』とか呼び捨てとか、『様』以外なら何でもいいんです、お願いです、慣れてないし恥ずかしいんです」
あまりに必死な様子を見かねたのか、フリウスは顎に手を当てて考え込む素振りをした。
「……フヨウ様、仮に私達が親しげに、そう、まるで友人のようにお互いを呼び合うとしましょう」
「はい、それで! それでお願いします!」
「あらゆる困難を乗り越え、長い時間を共に過ごし、信頼が固く結ばれた結果……いざ元の関係に戻ったとしても、その習慣はきっと身体に染みついていることでしょう」
「そ……うですね、きっと」
「ついうっかり大神官や騎士団の前で神官にナメた口を、失敬、神官に親しみが過ぎる態度を匂わせてしまった暁には──」
「暁には……?」
「不敬罪で首を切られてしまいます。それはもうバッサリ」
「くっ、首!?」
「はい。職務剥奪にとどまらず、文字通り首が胴体から離れます。フヨウ様、どうか我々を助けると思って」
「フヨウ様、兄さんは結構押しが強いですよ。ちなみにわたしもフヨウ様とお呼びしたいです」
「はい……お二人がそうなのは何となくわかりました……それでいいです……」
兄が主に苦労しているのかと思いきや、この兄妹、二人揃ってなかなかの曲者だと芙蓉はうなだれた。
フリウスが荷物を馬車に積み、フレミオが馬の機嫌を確かめる中、芙蓉はちらと家を伺った。半ば急いで出てきて以降、音沙汰がない。
「お待たせしました。出発できそうですか?」
陽に透けるプラチナブロンドを揺らし、エウリヤナが二人の騎士を引き連れてきた。道行く人がのぼせ上がるほどの神々しさと美貌は、太陽にも負けず眩い。
「はっ、準備はできております」
「ご苦労様です。それでは芙蓉さん、ご挨拶が済んだら行きましょう」
「はい……」
芙蓉は静かに家の扉を開けた。暖炉の前に伏せていたベンがすぐに気づき、尻尾を振って一声鳴く。よく手入れされた毛並みを余すところなく撫でていると、奥の部屋からジニアが姿を現した。
「ごめんなさい、時間ね」
「エリカちゃんは……」
「……まだ気持ちの整理がつかないみたい」
嘆息するジニアは一晩でげっそりとやつれたように見える。痛々しさに目を伏せた芙蓉を、彼女はいつものように快活に笑って抱え込んだ。
「大丈夫よ、ちょっと拗ねてるだけなの。『きらい』だなんて本心じゃないわ」
「……はい」
「ねえ、手紙を書いてくれる? 魔術学院はすごく遠いところだって聞いて……神殿の騎士団が一緒に行ってくれるなら安心だけど、あなたが元気か知りたいの。一年に一回でもいいから」
「もちろんです。一年に一回じゃなく、もっとたくさん。何を見たとか、何があったとか、いっぱい書きます」
「ありがとう、楽しみにしてるわ。それから、体調に気をつけて。魔術が使えるようになった時もそうだったけど、あなた夢中になると集中し過ぎることがあるから。何をするにも健康な自分があってこそよ」
「ふふ、わかりました」
「それと、最後に一番大事なこと」
ジニアは身体を離し、芙蓉の頬をそっと包んだ。
「どこにいようと、何があろうと、あなたは私の大事な、大っ事な娘よ。苦手だったトマトが食べられるようになったって、使えなかった魔術が使えるようになったって、あなたは何にも変わらない。私の娘で、エリカのお姉ちゃん。……つらかったらいつでも帰ってらっしゃい。お願いよ、今生の別れじゃないんだから『さようなら』なんて言わないで」
「──!」
ジニアはふっと笑い、二度と帰らないつもりだった娘を叱るように頬をトントン突く。芙蓉が泣きそうに顔を歪ませた瞬間、勢いよく部屋から転がり出た小さな塊が二人に突進した。
「ぐえっ!? あ、エリカちゃ──」
「おねいぢゃんがえっでごないのおおおおおなんでええええええ」
「それは、その……」
「じゃあやだあああああいっぢゃやだあああああああああ」
芙蓉の身体によじ登り、エリカはしゃくり上げながら片方の手と足を家の柱に伸ばした。
「……がえっでごないならいっぢゃだめ」
己で柱と芙蓉とを繋ぎ止め、エリカが拗ねたように呟く。どれほど泣いたのか、鼻の頭がリンゴのように色づいていた。それを見ていたら、何だか胸がひどく締めつけられて──。
「──帰ってくるよ」
無意識に、そう断言していた。住む世界が違うことも、本来の家族でないことも、湧き上がるごちゃごちゃとした思考や言い訳全部がもうどうでもよかった。
腕の中の自分の妹に安心させるように笑いかける。
(『フヨウ』さん、ごめんなさい)
予言を解決して阻止できれば、そしてユフレの序列を一位に押し上げられれば、芙蓉はそれまでの記憶を消して元いた世界に戻ることを願う。それはきっとこの先も変わらないだろう。けれどこの記憶がなくなるその時までは、偽物でも二人の家族でいたかった。
「長くなると思うけど、でもちゃんと帰ってくるよ」
「…………ほんとう?」
「本当だよ。お手紙も書くよ。何かおもしろいものとか、エリカちゃんに似合いそうなもの見つけたら送るね」
「ほんとにほんとうっ?」
「本当に本当。ごめんね、びっくりさせちゃったね。許してくれる?」
「うん~~~」
「ああ、鼻水……あ、ベンありがとう」
布巾を咥えてきた賢い番犬を撫で、芙蓉はエリカを抱えて外に出た。大神官と話をしていたらしいジニアが吹っ切れたような顔で振り返る。彼女にエリカを預け、兄妹騎士の手を借りて馬車に乗り込んだ。
(必ず序列の一位を勝ち取って、二人に本物の『フヨウ』さんを返す。それまでどうか誰も奪わないでほしい。ここは私が最後まで戦い抜くための、たった一つの心の拠り所だから)
涙は流し尽くした。やるべきことはただ一つ。
「────行ってきます!」
芙蓉は大きく手を振って、大切な仮初の故郷に別れを告げた。
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