第4話 魔術師のかけら②

 突然腕を振り上げたかと思えば、姉がそのまま地面に激突したのだと妹は語る。


「おねいちゃん!」

「ひゅっ……えほっ……」


 芙蓉はトマトを死守したまま、空咳を吐いて土をひっかいていた。顔色が紙のように白い。なぜこの一瞬でここまで様子が変わるのか。エリカは状況が理解できず、涙目で彼女を揺さぶった。ベンも千切れそうなほど尻尾を揺らし、切羽詰まったような声で吠える。


「おねいちゃん、どうしたの!? おねいちゃん!」

「…………ぉ」

「なに!? 聞こえないよぉ!」


 傷だらけの姿が脳裏に過ぎる。エリカはほとんど泣きながら、必死で芙蓉の口元に耳を近づけた。

 ここに母はいない。ならば自分が姉を救わなくてはならない。

 少女は一言も聞き漏らすまいと唇を嚙み締める。芙蓉の口元がかすかに蠢き、そして一言──。


「おなか、すいた…………」



       ◆ ◆ ◆



「それで倒れたのね。昨日の今日だから、やっぱり具合が悪くなったのかと思ったわ。よかった、回復して」

「すみません……ご心配をおかけしました……」


 山盛りのパン籠と大容量の水差しを前に、芙蓉は深々と頭を下げた。

 隣村へ娘の休業を伝えに行っていたジニアが、昼食を取りに帰った自宅で目にしたもの。それは、鬼気迫る顔の末っ子によっていくつものパンを口へ押し込まれ、悶絶している長女の姿だった。

 両者を引き離して訳を聞けば、指差された先に、ここ最近ではめっきり見なくなった在りし日のそれらが鎮座していた。


「すごい……中身までぎっしり」


 ジニアは例の三日月形のナスを切り分けてみた。刃を受け止めて押し返す弾力から期待した通り、断面が瑞々しくきらめく、新鮮さが匂い立つような野菜本来の風格。思わず言葉を失くしてしまうほど見事だった。

 芙蓉は喉を鳴らして水を飲み、汗でまとわりつく髪を剥がす。


「何度か試させてもらったんですが……」


 倒れ伏すほどの極限の空腹は、エリカに詰め込まれたパンで事なきを得た。そこで芙蓉は水と食糧を準備してもらい、萎びた作物のいくつかを並べ、端から順に試すことにした。


「まず、光ることや光の強弱で状態が変化するところが魔石と似てるなと思って、これは魔術かもしれないと仮定しました。それで思い出したんです。魔術だとしたら、今朝ジニアさんがおっしゃっていたことが必要だと」


 示現性と行使力。芙蓉は日常的に食べていた健康的な作物像を記憶から掘り起こし、頭の中に思い描いた。本来ならもう少し身を蓄え、大きく、つやつやと輝いているはず。同時に、念じたことを魔力を通して掌から注ぎ込むイメージを練り上げた。


「『おいしくなーれ』と強く思ったら、全部そのナスみたいになりました。これは口に出しても出さなくても同じ効果でしたし、別の言葉でも大丈夫でした。たぶん、ちゃんとしたイメージと実現可能な量の魔力さえあれば発現できるみたいです」

「なるほど。でもその代償として、今みたいにものすごくお腹が空いたりたくさん汗をかいたり、要はとっても疲れたりするのね?」

「はい……すみません、ご飯をたくさんいただいてしまい……」


 芙蓉は心苦しそうに縮こまった。

 この力が魔術だとして、できることやできないこと、どこまでが自分の限界かを知る必要があったのは事実だ。結果、魔術の発現に伴う空腹や疲労は、食事や休息で回復することがわかった。こうしたサイクルを繰り返し、現時点での力量をおおまかに計れはしたものの、食い尽くした量はおそらく家族の一日分に匹敵する。何度かに分けて実験すればよかったと、気づいた時には後の祭りだった。

 いたたまれない芙蓉の頬を、ジニアがくすりと笑って持ち上げる。


「そんなこと気にしなくていいの! ご飯はお腹が空いたら食べるものなんだから。あなたが満足に食べられないことの方が問題よ。でも、これからは少しずつ試してみた方がいいわね。病み上がりだし、身体にあまり極端な負荷をかけ続けない方がいいと思う」

「おっしゃる通りです……」

「ふふ。一度、神父様に見てもらいに行きましょう。魔術なら夢が叶うかも」


 その言葉にはっとした。この身体の持ち主である『フヨウ』の夢は魔術師になること。けれど彼女に才はなく、奇跡を信じて努力を続けていたこと。


(もしも私が魔術師になれたら)


 自動的に外見の、つまりこの世界の『フヨウ』が魔術師ということになる。それは芙蓉がこの身体にいても許される、ひいてはジニア達を騙していても帳消しになる理由に値する気がした。


(……違う、あくまで衣食住の面倒を見てもらってるお礼をするだけ。私は元の世界に戻らなきゃ)


 首を振って思考を打ち消す。『フヨウ』の代わりに、なんて思い違いもいいところだ。そもそも、自分は急にわけのわからないところに放り出された被害者である。ただ──。


「おねいちゃん、はい」

「あ、もうお腹いっぱいだよ、だいじょムゴゴ」

「エリカ、お姉ちゃんもう元気になったって」

「だめだよぉ! またバターンッて、たおれちゃうもん! エリカがおせわしないと!」


 ただ、思い違いをしてしまうほどに、ここは幸福な場所だった。



       ◆ ◆ ◆



 結論として、芙蓉の力は紛れもなく魔術の一端であることがわかった。神父の前で草を一本、ニョキニョキと伸ばしてみせたのである。

 神父は口をあんぐりと開けて、芙蓉と成長した草を代わる代わる見た。あれほど兆しのなかった彼女が、まさかたった一夜で目覚めるとは。「長生きはするものですね」と言う彼に、芙蓉は困ったように笑い返した。

 育てられた草はというと、教会の庭先で一本だけ、不自然なほど背筋を伸ばして生き生きとしていた。しばらくは枯れる様子もなく、なぜか村内の人々が通りかかる度にひと撫でしていく観光名所と化した。

 芙蓉が魔力を流したものは皆一様に成長し、またその性質や能力が最大限の状態が保持されるらしい。流した魔力の量や濃度により、野菜や果物ならば一番旬の状態、花ならば一番咲き誇った状態を、どれだけ長く保つか調整できた。ただしこれらは、野菜一つ、花一本への非常に極集中的な魔力操作を必要とした。当然、その後は打ち捨てられたように地に転がるしかない。魔術と呼べるかも怪しい魔力操作技術だけでは、畑丸ごと一瞬で成長させる等、夢のまた夢だったのである。

 おまけに芙蓉の力は、作物や草木、岩や石等の自然環境には効果を及ぼしたが、それ以外には一切変化を起こさなかった。水差しの水が増えることも、少ない薪で炎が燃え盛ることもなく、ただただおいしい作物と綺麗な花だけを生み出した。あとはエリカが躓いた石畳を引っ込めてやるくらい。

 それでもこの二週間、できることは格段に増えていた。


「フヨウちゃん、いつもありがとうね。これ、よかったら食べて。フヨウちゃんのおかげでうちの子がいいお乳いっぱい出すようになったから、チーズがたくさんできたの」

「わあ、ありがとうございます! お昼に是非いただきます!」


 村内の牧場で牛を世話しているイリスから、真っ白なカッテージチーズを受け取る。つい先日もらったミルクも驚くほど濃厚だったので、それで作られたチーズならさぞ頬がとろけることだろう。芙蓉は袋を両手で大切に抱え直し、想像した味にニンマリした。

 イリスに別れを告げ、昼食のために自宅を目指す。道中、芙蓉に気づいた村人達から何度も朗らかな声がかかった。


「おっ、フヨウ! この前はありがとな! 野菜うまかったぜ!」

「こちらこそ、お肉ありがとうございました! すっごくおいしかったです!」

「フヨウさん、今度うちの木見てもらえる? ちょっと育ちが悪くて……」

「はい! 近いうちに伺いますね!」


 すっかり見知った顔に、芙蓉は大きく手を振り返した。

 魔力を操作できると知ったあの日から、芙蓉は効果的な力の使い方に苦心していた。そして試行錯誤の末、ようやくある方法を編み出した。土自体に魔力を流すことによって、そこに植えられた作物や木を上手に育てることができたのだ。一つのものに魔力の全部を注ぎ込むより、多少効果が落ちても土を通してまんべんなく行き渡らせる。こうして毎日土台に魔力が満ちれば、ゆっくりではあるものの、たくさんの種類を栽培できる。

 芙蓉の活動範囲は徐々に広がっていった。始めは庭の畑、次に近隣、さらに村の奥。久しく口にしていなかった野菜本来の味や、鮮やかなグラデーションに彩られた花と共に訪れた彼女を、村は総出で歓迎した。

 この辺りに住む人々は皆穏やかで親切だった。『フヨウ』が別人のようであっても深く探りはせず、今までと同じように彼女に声をかけ、今までと同じ態度で接した。そうしているうちに芙蓉の緊張も解け、今ではあちこちで世間話も弾むほど溶け込んでいる。


(ハチミツを入れて、ちょっと甘くしたらどうかな。ナッツとかドライフルーツも合うかも。あとはサラダに混ぜて、パンにも塗って……)


 やがて家が見えてくる。この間修復した一部の外壁が剥がれていないことを確認し、芙蓉は嬉しくなった。少しずつでも恩が返せているといい。


「──おねいちゃん!」

「わっ!」


 角を曲がった瞬間、小さな塊が下腹部に埋まる。芙蓉は一瞬「ウッ」と息を詰まらせたが、気を取り直して妹の頭を撫でた。いつもなら芙蓉を見上げて嬉しそうに破顔する彼女が、なぜか頑なに顔を上げない。


「エリカちゃん? どうかし──」

「あなたがフヨウさんですね」


 凛とした声だった。いっそ静かな気迫すら感じるほどに。

 いつの間にか、目の前に一人の女が立っていた。神々しいまでのプラチナブロンドを垂らし、同色の睫毛に縁取られた大きな蘇芳色の眼で芙蓉を覗き込んでいる。目が合えば優美なアルカイックスマイルが更に深められて、芙蓉は総毛立つのを感じた。この世に二人といないような絶世の美女だが、若く見えるのにどこか老成した雰囲気を湛えている。

 彼女の手に携えられた背丈を超すほどの杖が、木の葉同士が触れ合うような音を立てた。


「初めまして。ユフレ神殿大神官のエウリヤナ・セルシスミリアです。よく舌を噛みそうな名だと言われます、抵抗がなければどうぞエナと呼んでください」


 エウリヤナが恭しくお辞儀をした。我に返った芙蓉は、エリカをそっと背後に移動させる。


「こ、ちらこそ初めまして、フヨウと申します。よろしくお願いいたします、セルシスミリア大神官」


 若干の甘噛みはあったものの、芙蓉はエウリヤナを真っ直ぐに見つめて言い切った。田舎の村育ちとは思えない直角の礼。エウリヤナは感心したように深く頷く。


「聡明そうなご息女でいらっしゃいますね、ジニアさん。ますますふさわしいかと」

「……っ!」


 ジニアの血走った視線に芙蓉はビクリと肩を揺らした。彼女の周囲は鎧を纏った騎士と思しき者達が囲んでおり、その手には槍や鞘に入った剣が携えられている。一歩動けば穂先が掠めそうな距離にハラハラした。


(な、何がどうなって……? ジニアさんもエリカちゃんも様子が変……それにこの人達は一体……)


 エウリヤナは芙蓉のその心を読んだように、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、そして言った。


「フヨウさん、あなたをユフレ神殿の神官見習いとして迎えに来ました」

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