第2話 あなたの名前

 目を開けて、元に戻れていないことを知った。


「…………」


 ぱち、ぱち、と芙蓉は緩慢に瞬きする。剥き出しの石壁やほのかに漂う草の匂い、灯る小さなろうそくの炎。ぼんやりとそれらを見渡しながら、寝癖のついた毛先を手櫛で整える。


(夢じゃ……ないんだ)


 かけられていた毛布をできる限り丁寧に整え、ベッド脇に揃えられていたブーツに足を通す。

 簡素な部屋だった。傾く陽に照らされる細身のクロゼットと一組のテーブルセット、そしてベッドの足元に敷かれている年季の入ったラグだけ。

 木製のテーブルには鏡台が載っていた。ろうそく立てを引き寄せ、芙蓉はおっかなびっくり鏡を覗き込む。

 そこにいたのは『芙蓉』ではなかった。

 日本人特有の髪色や隈の消えない青白い肌は見る影もなく、映っていたのは橙と茶の合いの子のような髪とうっすら日に焼けた健康そうな肌。それらを目の当たりにし、黄褐色の瞳を驚きに見開いた人物が突っ立っている。


(髪の色も目の色も全部違う……でも、顔は……)


 『芙蓉』だった。そして、自我も記憶も言わずもがな。まるで

 芙蓉は細く息を吐いた。そのまま何度か深呼吸を繰り返し、震える身体をどうにか押さえつける。


(どうしよう……なにがどうなってるの……)


 この身体の持ち主も自分の身体も、果たしてどこへいってしまったのだろう。元通りになるために自分はどうすればいいのだろう。これから先、一体どうなるのだろう。

 氷のような指先を固く握り締める。かみさま、と心が悲鳴を上げた。


「──おねいちゃん、おきてる?」


 密やかな呼びかけに、芙蓉はのっそりと顔を持ち上げる。


「おき、起きてます」

「はいってもいい?」

「あ、もちろん、どうぞ……」


 音を立てずに滑り込んできたのは、『フヨウ』の妹であるエリカだった。やはり自分の妹とは歳も背格好も、ましてや顔なんて似ても似つかない。そういえば今夜、彼女とゲームの約束をしていた。それまでに戻れなければきっと着信の嵐だ。その前に職場ではどうなっているだろう。突然倒れたなら、救急車を呼んでもらえたりしたのだろうか。目立たず大人しく社会人生活を送ってきたというのに、しばらくはその話題が続くかもしれない──。

 虚ろな顔で立ち尽くす芙蓉を見上げ、エリカはニコ!と破顔した。


「ごはんだよ!」

「ぇあ、え、ごはん……」

「あ! ちょっとまってね、ドアあけてくる!」


 エリカは両手で勢いよくドアを引き寄せ、手近な椅子をストッパー代わりに置いた。完全に開いたのを確認し、芙蓉の手を取って退室を促す。どうやら彼女の中で芙蓉は未だ要介護の重病人で、閉まる扉を支えることすら許されないらしい。

 部屋を出ると、それなりに広い空間に迎えられる。居間だろうか。吊るされた乾燥草花やタペストリーを交互に眺めつつ、エリカに手を引かれながら少しずつ歩を進め、暖炉前で伏せるベンの傍を通って食卓に着かされた。エリカは姉が椅子に納まったのを確認し、自分の席を隙間なくその隣に寄せた。

 台所で背を向けていた母が、ボウル片手に振り返る。


「フヨウ、具合はどう? 怪我は治ってると思うけど、気分が悪いとかはない? お腹は空いてる?」

「はい、あの、怪我はもう全然痛くないので大丈夫です。気分も……悪いというより、少し理解が追いついてなくて……あと、おなかは……」


 芙蓉は卓上に目を落とした。

 そこに並べられていたのは、食卓から零れんばかりの料理だった。てらてらと脂の輝く大きな鳥の丸焼き、色とりどりのサラダ、所々にナッツが覗く籠いっぱいの丸パン、葉物野菜とベーコンがたっぷり浮かぶ透き通ったスープ、蜜色の果肉ジュース、チーズやバター、煮込み果実の入った様々な小鉢。

 それらを認識した瞬間、唾液がどっと溢れた。連動して腹の底から響いた悲痛な鳴き声に、母は安心したように微笑む。


「ちゃんと空いてるみたいね。よかった、食べましょう」

「いただきまーす!」

「……いただきます」


 各々が手を合わせ終わると、母がナイフを手にした。鳥のもも部分を切り落とし、立派な塊を芙蓉の皿に載せてくれる。そこに間髪入れず、エリカがマッシュポテトやトマトを慣れた手つきで添えた。


「誕生日おめでとう、フヨウ」

「おねいちゃんおめでとう!」

「あ、ありがとうございます……?」


 満面の笑顔を向けられ、芙蓉はぱちくりと瞬きする。


(誕生日……ああ、そういえば今日、八月二十四日だ……)


 毎年変わらず訪れる日。場合によってはただの平日に過ぎず、社会に出てからは特別に祝うことも面倒になっていた。直近ではケーキの用意どころか、誕生日であることすら忘れていたような気がする。


「おねいちゃん、なんさいになったの?」

「二十二歳よ」

「へえあー、おっきーい」

「おっきくなったわねえ。ほら、エリカもお皿出して」


 『フヨウ』も二十二歳。同じ歳だ、と芙蓉は思う。同じ日に生まれ、異なる場所で生きてきた二人の人間が、身体と心を混ぜ合わせて存在している。


(ということは……もしかして、私の身体に『フヨウ』さんの中身がいるのかな……)


 確証はないが、そうであればまだ救われた気がした。自分がこの身体から『フヨウ』を追い出してしまったのなら、彼女の精神は行き場がなくなってしまう。

 一人の人間の外側と内側が分かたれた理由は未だにわからないけれど、芙蓉の気持ちはほんの少しだけ凪いだ。目の前の豪勢で美味しそうな食事を楽しめそうなくらいには。


(見た目はお肉、野菜、チーズ……色も形も、いつも食べてるものと同じに見えるけど、実は味が正反対とかあったりして……)


 ちぐはぐな自身や家族、光る石の存在が、紛れもなく世界が異なると訴えている。しかしそこへ、いっそ暴力的なまでの空腹が拳をねじ込んできた。


(でも……でも、今すごくお腹空いてる……もう、なるようになれ──!)


 芙蓉は目を瞑り、やけくそ気味にフォークに嚙みついた。


「…………!」


 頬張った鳥のももは、びっくりするほど柔らかな歯触りだった。ふっくらした身には丁寧に下味がつけられているようで、どこを食べても塩とハーブの風味が途切れない。一方でこんがりと焼き上げられた皮がパリパリと弾けて、芙蓉は夢中でかぶりついた。

 鶏肉が幸せなほど口いっぱいになれば、咀嚼しつつ、木のスプーンを握る。次の料理を味わう前に一度口内を切り替えたい。誕生日だからと腕によりをかけて作られたものを、ただ胃に流し込むのは憚られた。

 スープをひとさじ掬う。あっさりとした塩味ベースだが、香ばしいベーコンと野菜の甘味がたっぷり溶け込んでいる。器の底が見える頃には、あれだけ冷えていた指先が芯まで温まっていた。

 次に手をつけたのは丸パン。まずはそのまま一口かじり、素朴な風味を堪能する。もっちりとしたパンの合間に現れるナッツの食感を面白がっているうちに、芙蓉は丸々一個をぺろりと平らげてしまった。二個目からは付け合わせを楽しもうと、濃厚なバターやチーズ、ごろっとした果実のジャム等を一通り載せては食べ、載せては食べを繰り返した。

 昼食を食べ損ねているので、胃袋にはまだまだ余裕があった。今度は口の中でほろほろと解ける胸肉を噛み締め、合間にダイスカットされた野菜サラダを何度もお代わりし、締めにリンゴの果肉入りジュースを一息に飲んで、芙蓉はようやく動きを止めた。


(おいしかった……すっっっごくおいしかった……!!)


 そこでふと気がつく。向かいの母も隣の妹も、あんぐりと口を開けて自分を見ていることに。我に返った芙蓉は首まで真っ赤になって椅子に深く沈んだ。


「す……すみません、がっついて……お見苦しいところをお見せしました……」

「、あ、違うの、いいのよいいのよ、あなたのために用意したんだから。そうね、お昼食べてなかったものね。でもデザートもあるから、その分はお腹空けておいてね」

「はい、ありがとうございます……恐縮です……」

「みてー! おねいちゃんのまねー! ぱくぱくもぐもぐむしゃむしゃずずー」

「エリカやめなさい!」

「あああぁぁ…………」



       ◆ ◆ ◆



 食後には、宣言通り大型のデザートパイが出された。広げたパイ生地の上にイチゴやバナナ等の果物、そしてベリー類がこれでもかと載せられたオープンパイで、甘さ控えめのカスタードと果実の酸味が絶妙だった。勧められたハチミツをかけたところから芙蓉の記憶は飛んでいる。


「本当に、本当においしかったです……!!」

「よかった。食欲があって安心したわ」


 灯りを絞った居間には母と芙蓉の二人きり。エリカはパイを食べ終える前に船を漕ぎ出し、一足先に眠りについている。

 母は芙蓉のためにお茶を淹れてくれた。カモミールティーにシナモンと牛乳、ハチミツを加えたそれはほんのり甘く香り、波乱の一日を終えた身体に染み渡るようだった。芙蓉は時折舌を火傷させながらゆっくり飲み干していく。

 やがて彼女がカップを置いたのを見届けた母は、その手に自身のそれを被せた。


「ねえ、フヨウ」

「はい」

「私の名前、覚えてる?」


 二人はしばし見つめ合った。芙蓉の瞳が焦点を失ったように揺らぐ様を見て、母は目尻を緩めた。嘘がつけないところは全然変わっていない。


「ジニアよ。私の名前、ジニア。この辺りに住んでる人はみんな、植物や花の名前からとるの。あなたのフヨウも、エリカも、ベンもみんなそう」

「……ごめんなさい……」

「ううん、謝らなくていいの。あなたのせいじゃない。忘れちゃったらまた覚えればいいじゃない。そうしたらいつかきっと、元のあなたに戻れるわ」


 俯く娘を、ジニアはそっと抱き締める。


「大丈夫。私達がいるわ。あなたの傍にずっといる。思い出せなくたって悩む必要はないし、私達への接し方を無理に変えたりしなくていい。あなたが私の娘で、エリカのお姉ちゃんであることは変わらないんだから」


 優しい声だった。『フヨウ』への愛情を一身に受け、芙蓉は申し訳なさで消え入りたくなった。きっと、他人行儀の愛娘を一番悲しんでいるのは彼女なのだ。

 ジニアは芙蓉の顔を覗き込み、安心させるように笑った。その目は隠しようもないほど赤く潤んでいる。


「ね、だから大丈夫よ。明日からも元気にいきましょう」

「……はい」

「さあ、もう遅いわね。そろそろ寝ましょうか。あなた、たくさん寝ちゃってたけどまた眠れそうかしら」

「はい、大丈夫だと思います」

「そう。それじゃ……おやすみなさい」

「おやすみなさい。お茶、ごちそうさまでした」


 芙蓉は会釈し、先程寝かされていた部屋へ戻った。支えにしていた椅子を外し、扉が閉まるその刹那、ジニアが顔を覆っているのが見えた。

 記憶喪失だと誤解されても、訂正すればどうなるかわからない。外見だけでも『フヨウ』であれば受け入れてもらえる。知らない場所で放り出されずに済む。明日をも知れない我が身を思うと、森下芙蓉であるとは口が裂けても言えなかった。


「……ベン?」


 いつの間に潜り込んだのか、ベンがベッドの傍に座っていた。芙蓉が呼ぶと尻尾を振って近づいてくる。ふんふん匂いを嗅いだかと思えば、芙蓉の太腿に前足を乗せ、懸命に身体を伸ばして鼻を押しつける。


(……ごめんね。私、『フヨウ』さんじゃないんだ。ごめんね……)


 飼い主に甘えている仕草が健気だった。当の本人はといえば、保身のために他人が成りすました全くの別人なのに。

 不安と寂しさと罪悪感とで頭の中がぐちゃぐちゃで、芙蓉は途方に暮れていた。その心細さに気づいたのだろうか、小さな舌が慰めるように頬を撫でる。拍子に涙が一粒転がり落ち──芙蓉はベンに縋りつき、へたり込んで子供のように泣いた。

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