フォルブラム・ニカ

八架

第1話 見知らぬ彼女

 目覚ましアラームのように響く鈍痛だった。


「……ぅ、……」


 痛みに顔をしかめながら、力を込めて瞼を持ち上げる。糊で貼り合わされたような睫毛の絡み合いに、どうやら涙していたらしいことを知った。この鳴り止まない頭痛のせいだろうか。

 水分で膜の張った視界をリセットするように、何度も瞬きを繰り返してピントを取り戻す。遥か上空からこちらを見下ろしているのが木々とその狭間から差し込む陽の光だと気づいた『彼女』から、間の抜けた声が零れた。


「……は、……えぇ……?」


 彼女はお手本のような大の字のまま、しばらく静止せざるを得なかった。まるでわけがわからなかったのだ。そんな彼女に追い打ちをかけるように、緑の匂いのする風がふわりと前髪を掬い上げていった。


(……ど、どういう……? 林……いや、森……? なんでこんなところで寝っ転がってるんだろう……私、よね……?)


 いつも通りの一日のはずだった。遅刻の心配から出勤三時間前に起床し、そのくせだらだらと朝食を貪り、代わり映えしない社内規定のスーツに無心で袖を通し、駅の階段で転びかけながら電車に乗った。会社では向かいの席の先輩も「朝から蹴っ躓いた」と足腰の衰えを嘆く中、フロアにけたたましく鳴り響く電話を取り次いで、ルーチンワークの事務処理をこなした。そうして訪れた遅めの昼休憩を、うきうきと満喫しようとした、まさにその時だった。


(思い出した……私、めまいでふらついたんだ)


 朝からぶっ通しのデスクワークで血の巡りが悪くなっていたのか、椅子から立ち上がった途端に彼女の視点はぐらついた。背骨を抜かれたように身体がくにゃりと折れ曲がり、そして──。


(だから頭痛いんだ……)


 ようやく合点がいった彼女は、そっと患部に触れた。言うまでもなく、見事なほどのたんこぶがせり出している。

 それにしても、なぜ職場で倒れたら森で目覚めるのだろうか。もしや誘拐されたのではと身構えつつ、彼女は慎重に身を起こした。

 辺りに広がっていたのは、深い新緑の森だった。どっしりと太い幹が数えきれないほど立ち並び、その枝に生い茂る木の葉が風に揺られ、さわさわと音を立てている。耳を澄ませば、湧き水と思しき水の流れや高く澄んだ鳥の囀りも聞こえてくる。彼女は知らず息を潜め、しばしそれらに聞き入った。


(……よし)


 束の間の森林浴で落ち着きを取り戻した彼女は、よっこらせと立ち上がった。身体についた土埃をはたいたその感触に、服装までも異なることを知る。麻のようにざらりとした手触りの白いブラウス、ふくらはぎまでゆるやかに広がる大きなスカート。試しにくるりと回ってみれば、傘になった裾から焦げ茶色のブーツが覗く。

 その足が赤い何かを踏みつけそうになり、彼女は慌てて飛び退いた。周囲には小さな粒同士が集まった果実のようなものが散乱しており、少し離れたところに手提げ籠が転がっている。

 たった今まで木の実採りに勤しみ、転んで中身をぶちまけたと言わんばかりの様相に、落ち着いたはずの脳内が再び混乱し始めた──その時だった。


「おねいちゃん!」


 悲鳴のような声だった。彼女は弾かれたように振り返り、木立の合間に目を凝らす。木々を縫うように走ってきたのは、小さな女の子と一匹の犬だった。

 彼女は焦った。確かに自分にも妹はいるが、目の前の少女に全く見覚えがなかったのである。うんともすんとも言えず、ゴクリと喉を鳴らす彼女に駆け寄るや否や、少女は今度こそ悲鳴を上げた。


「おねいちゃんケガしてるよぉ! どうしたの!? ころんじゃったの!?」


 少女はみるみる涙目になり、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら彼女のスカートを握る。見ず知らずとはいえ幼子を泣かせてしまいそう。現代であれば通報待ったなしの状況に、彼女は顔を青くして少女の前にしゃがみ込んだ。そんな二人の間を、犬がせわしなく尻尾を揺らしながら狂ったように八の字に徘徊していた。


「あ、あの……おっしゃる通り、その……ちょっとずっこけてしまいまして……でもたんこぶだけなので、」

「うわあああああああん!! おがあざあああああああんんん」


 説明むなしく少女の涙腺は決壊し、彼女はどっと汗をかいた。犬が八の字徘徊を中断し、慰めるように少女に寄り添う。少女は顎が外れそうなくらい号泣しながらも、指先が真っ赤になるほどの力で姉のスカートを引っ張っていく。


「ううううううう」

「え、あの、どこに、あ、籠……」


 その言葉を理解したかのように、犬が小走りで籠の取っ手を咥えて戻ってきた。彼女は目を丸くして感心し、籠を受け取ると礼を込めてその首筋を撫でた。柔らかな毛並みの触り心地が焦りを鎮めていく。意を決して妹の固く握られた拳をゆっくりと解き、そっと手をつないだ。

 少女もまた、彼女の体温によりわずかに平常心を取り戻した。絶えず喉をひくつかせながらも、離すまいと精一杯しがみつく。

 まるでわけがわからなかった。誕生日の姉を「あー! キイチゴたべたいなー! たべないとこんばんねむれないなー! なーなーなー!」と渾身の芝居で以て犬を護衛に森へ送り出し、母とこっそりお祝いの準備をしていたら、犬だけがキャンキャン鳴きながら戻ってきた。どうにも普段とは違う鳴き方に胸騒ぎを覚え、気づけば母を振り切って飛び出していた。息を切らせて辿り着いた森の奥には、見慣れた姉が初めて見るような表情で立ち竦んでいた。

 姉は大人しく少女に先導されている。しかしその目線は定まらず、どことなく怯えているように見える。彼女の顔をちらりと見上げ、少女は歯を喰いしばった。この傷だらけで土まみれの姉を一刻も早く母の元へ連れ帰る。ともすれば重大な任務を請け負った傭兵のような顔をして、幼い妹は今一度、溢れそうな涙を強く拭った。



       ◆ ◆ ◆



「フヨウ! エリカ!」


 森の入り口に差し掛かろうかという頃、その声に少女が勢いよく顔を上げた。前方から少女と同じ髪色の人物が走ってくる。


「おかあさん!!」


 安堵からか、我慢していた涙が再び溢れて、少女──エリカは歩けなくなってしまった。母と呼ばれた女は、肩で息をしながら二人の娘を交互に見やる。


「ああ、どうしたの、フヨウ。傷だらけじゃない! 転んじゃったの? よしよしエリカ、お姉ちゃん連れてきてくれたのね。偉いわ、ありがとう」

「うぐ、ひっ、お、おねいちゃんしんじゃう……?」

「大丈夫だとは思うけど、でも顔からいったなら心配ね……フヨウ、ちょっとごめんね」


 ほっそりした指先が、彼女──『フヨウ』へと伸びる。それは確かめるように髪や頭皮を慎重に探り、彼女が身を竦めた箇所で止まった。


「ここが痛い?」

「は、はい……」

「ふふ、どうしたの、『はい』なんて。……うん、神父様に診てもらいましょう。頭は怖いわ。エリカ、ゆっくりでいいからお姉ちゃんと入り口まで行ける? お母さん、神父様呼んでくるから」

「ぐず、うん、エリカいけるよ」


 鼻をすすって頷いたエリカの頭を撫で、母はもと来た道を引き返していった。エリカは言いつけ通り姉を先導しようとして、その手に提げられているものが邪魔になりそうなことに気がついた。怪我人や病人は何かをやったり持ったりしてはならないのだ。


「ベン、これおうちにおいてきて」


 『フヨウ』の腕から籠を引き抜き、慣れた様子で犬に言付ける。承ったとばかりに取っ手を咥え、あっという間にゴールドの体毛は姿を消した。またしても『フヨウ』は感服し、心のままに呟いてしまう。


「かしこい……」

「おねいちゃんがベンのこといっぱいほめるからだよ。ベン、おねいちゃんにいちばんなついてるもん」

「そう、なんですね……」

「そうだよぉ。おねいちゃん、わすれちゃったのー」


 唇を尖らせたエリカに手を引かれ、『フヨウ』は森を抜ける。

 そこで文字通り、言葉を失った。眼前に広がるのは古びたビルのフロアでも、はたまた夢から覚めた自室でもない。

 森と岩を切り開いてつくられたような村だった。庭のこじんまりとした畑、木陰で草を食む鶏、色とりどりの花が飾られた小さな石造りの家々。曲がりくねる石畳の道が、ポツポツと点在するそれらをつないでいる。『フヨウ』は白目を剥きそうになった。

 そんな姉の様子などいざ知らず、エリカは彼女をそろそろと木の根元に寄りかからせた。口数の少ない姉はまるで別人のよう。不安そうに母の向かった先と姉とを交互に見つめ、服の裾を握って手汗を拭う。


「おねいちゃん……」

「……はい」

「あのね、きょうね……エリカ、おかあさんといっしょにおりょうりいっぱいつくったの……おねいちゃんのすきなものね、いーっぱいあるよ」


 内緒にして驚かそうと姉を森に行かせたにも関わらず、そんなことは頭からすっぽり飛んでいってしまっていた。ほんの少し前まで、目の前の彼女は大口を開けて快活に笑っていたのだ。いつものように自分をからかい、むきになる様を面白がって、籠を振り回しながら森へと消えていった姉。

 静かに返事をする『フヨウ』にその面影はない。


「それは……ありがとうございます」

「……うん、うん」


 エリカは『フヨウ』の隣に腰を下ろした。いつもは無理矢理膝の上に陣取るのだが、今日の彼女は怪我人なので、より悪化してしまうかもしれない。回復すればまた、口が達者で笑い上戸の姉が帰ってくるはずだ。

 おつかいを終えたベンも戻ってきて、舌を出しながら反対側に伏せた。一人と一匹は守るように『フヨウ』を挟んで母を待つ。

 やがて、草を踏み締める足音が近づいてきた。


「──神父様、こちらです」


 白い髪の老人を伴い、汗をかいた母が現れた。エリカはすぐさま立ち上がり、ベンを呼び寄せる。入れ違いに神父が『フヨウ』の隣に膝をつき、かすかに震える手で怪我の程度を探った。


「ああ、ここか……確かにたんこぶができていますね。相当強くぶつけましたか?」

「あ、はい、おそらく……すみません、ぶつけた時に気絶したみたいで……起きたらこうなっていて、ほとんど覚えてないんです」

「吐き気や気分が悪いということは?

「それは大丈夫です、ありません」

「でも……おねいちゃん、げんきないよ……」


 母の服を掴み、エリカが訴える。悲しげな娘を抱き寄せ、母は頭を下げた。


「お願いします、『魔石』を使っていただけませんか。お代はこの後すぐに、必ずお支払いします」

「わかりました。頭の怪我ですから、念には念を入れておいた方がいいでしょう。顔の傷もね。残ったら大変だ」


 深く頷いた神父は、袖口から透明な石のようなものを取り出した。掌大のそれは掘り出されたばかりのようにゴツゴツと粗削りで、細い革紐によって彼の手首と結ばれている。

 神父が石を近づけてくると、たんこぶがじわりと熱くなったのを感じた。だんだんと発光する石に呼応するかのように、たちどころに痛みが引いていく。どうやら光が強くなるほど治療が進行していき、また弱くなれば完治に近づいているらしい。

 光の治まった石が離れていく。『フヨウ』は埴輪のような顔のまま、手当たり次第に頭皮をつついた。どこを押しても痛くない。この様子なら顔面の擦り傷も綺麗さっぱり消えているのだろう。


「──よし、これでいいでしょう。まだ痛みますか?」

「い、いいえ……あの、今何を……?」

「ああ、フヨウは治療を受けたことなかったわね。魔石だとこんな風にすぐ治るの」

「マセキ……?」

「もう、魔石は魔石じゃない。本当にどうしたの、転んだのがそんなにショックだったのかしら」


 おかしそうに笑っていた母は、それでも呆けたままの『フヨウ』を見て表情を失くした。おそるおそる娘の前に座り込み、存在を確かめるように彼女の肩を掴む。


「もしかしてあなた、頭をぶつけたせいで……忘れちゃったの……?」


 その言葉に、『フヨウ』は肯定も否定も返せなかった。


(森……村……神父様……マセキ……名前も見た目も違う、私の知ってるお母さんと妹じゃない人たち……日中世話する人がいないからって、うちで犬は飼っていない……全部丸ごと違うのに……なのに私の名前だけが同じ『』だ)


 自分は確かに『フヨウ』であるのに、彼女達にとっての『フヨウ』は自分ではない。

 ぐるぐる巡る思考に治まったはずのめまいがぶり返し、フヨウ──森下もりした芙蓉ふようはめでたく二度目の失神を迎えるのだった。

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