最終章・君が教えてくれた
どうして大切にしたい日々ばかり、時間の経過が早送りになるのだろう。もう残された時間は、ほんのわずかしかない。梅雨空も、もうすぐ明けそうで、夏の到来が間近に迫る七月の初め、病室に入るとまるで時が
どうだったのだろうか、僕はこの二度目の世界で上手くやっていけたのだろうか? 一切の後悔もなく生きられただろうか? そんな投げかけに対する返答はどこからも返ってこなかった。当然だ。その答えを知るのは他でも無い僕なのだから。それよりも今は今日という日を祝う必要がある。今日は琴葉の誕生日だ。僕はバイト帰りに寄った花屋で買った五本のバラの花束を渡して
「誕生日おめでとう!」
そう最大限明るく言った。すると
「わぁ! 綺麗なバラだね。ありがとう! 雅彦、嬉しいよ。ちなみになんだけど五本にしたのは、やっぱり理由があるの?」
と言ったので
「うん、あるよ。五本のバラの花には『あなたに出逢えたことへの心からの喜び』っていう意味があるんだ。誕生日にうってつけだし、何より僕が君に言いたかったことがそのまま花言葉になってたからさ。改めて琴葉、僕は君と出会えて本当によかった。誕生日おめでとう。」
「うん。ありがとね。私も雅彦と出会えて、本当によかった。」
彼女はそう言って優しく微笑んだ。やがて僕と彼女の間に静寂が流れ出す。もう僕らの間に言葉はいらない。この静けさでさえ、今では心地よい。そう思えるようにしてくれた琴葉に最大限の感謝をする。月の光に照らされた病室で、僕はずっと彼女を見つめていた。同じように彼女も僕をその綺麗な瞳で見つめている。その時だけは時間の早送りはされず、永遠とも言えるほどの静かな時間が続いた。やがて面会時間を過ぎ、看護師に帰宅を
「じゃあ、また明日」
と言うと彼女は幸せそうな顔で
「うん。また、明日ね」
と言った。月の光がいつかと同じように家路を照らしている。とても綺麗だ。家に着き、中に入る。もう遅いのでシャワーだけ浴びて、僕は満たされた心で眠りに就いた。
それは突然だった。深夜、けたたましく部屋に鳴り響く電話の音で目を覚ます。電話に気づいた地点で、もう相手と内容は分かっていたので、重い手つきで携帯電話を確認すると、案の定病院からだった。僕は電話に出る。電話口の声は少し控えめな声で
「夜分遅くにすみません。冬野雅彦様のお電話でお間違いないでしょうか?」
「はい。冬野です」
あえて僕はそれ以上何も言わなかった。
「夏野琴葉さんの容態が急変しました。現在担当医の方が懸命に治療しておりますが、かなり危険な状態ですので、これからこちらまでいらしていただくことは可能でしょうか?」
電話越しの声が言葉を選びながらそう言ってきたので
「分かりました。今すぐ向かいます」
僕は寝間着姿であることを忘れて深夜の桜港を病院めがけて全力で走った。急患用のドアから中に入る。深夜の病院はほとんど明かりが付いておらず、かなり気味が悪かったが、そんな事など気にならないほどに僕は病室へと急いだ。病室に着くとそこには彼女の担当医と、看護師数名に囲われるようにベッドに横たわる彼女の姿があった。想像はしていたけれど、
「何とかヤマは越えました。後は意識が戻るかどうかですが、ここからどうなるかは私にも分かりません。ですから今はただ隣でそっと手を握っていてあげてください。」
医者の言葉に従って僕は琴葉の小さな手をそっと握ろうとする。ひどく冷たい彼女の手に触れた瞬間、僕の中で何かが壊れた。
なんでだよ……なんで…琴葉なんだよ。あんなに笑った顔が可愛い琴葉が。あんなに優しい琴葉が、なんでこんな目に遭うんだ? なあ神様、あんたひどいよ……琴葉が、一体何をしたって言うんだよ…。やり場のない激しい怒りと、悔しさが
どれくらい時間が経っただろう。僕はついさっき聞いた声で起こされた。
ハッとしてあたりを見渡すと、既に東の空は白みだしていて、前を見ると琴葉と目線がぶつかった。
「琴葉……!」
彼女の手を再び握りなおす。彼女はかなり辛そうにしながら
「……まさひこ…来て…くれたんだね……」
と言う。もう声に力が入っていない。
「……わたし…もうダメみたい……最後にひとつだけ…いいかな?」
僕は黙って頷く。
「まさひこ……わたしのこと…好きになってくれて…大切にしてくれて…ほんとうに…ありがとう……。まさひこがいたから…わたしの人生は…こんなにも……楽しかったんだと……思うの。ほんとうに……ずっとささえてくれて…ありがとう……」
琴葉は細い声でそう言う。
「礼を言うのは僕の方だよ。琴葉、
僕のことを好きになってくれて…ありがとう。
僕の最初の友達になってくれて…ありがとう。
僕の最後の恋人になってくれて…ありがとう。
……ねえ、琴葉、一つお願いしてもいいかな?」
「…うん、いいよ…。」
「これからどれくらい時間が経つか、それは僕には分からない。けれど僕はこの先何があっても、一生君のことを大好きでい続ける。だから、少しだけ、待っていてほしい。待ち合わせには……また遅れちゃいそうだけど、必ず行くから。その時は……あの場所で、あの時みたいに僕と二人で、花火を見てくれないかな……」
僕がそう言うと彼女は穏やかさをたたえた顔で、
「うん……まってるね」
そう言って笑みを浮かべながら一筋の涙をポロリと零して静かに目を閉じた。医者が冷静に死亡時刻を告げる。同時に僕の
一人で使うには広すぎるこの世界で、僕は再び一人になってしまった。
病室を出ようとしたら、一人の看護師に声をかけられた。彼女はベッドの横にある机の引き出しを開けるように僕を促す。言われた通りに開けてみた。中を見て再び泣いた。
そこには、あの星の形をした髪飾りが丁寧に置かれていた。
まだ、持っていてくれてたんだ……。
嬉しかった。純粋に僕がプレゼントしたものを、ずっと持ってくれていたことが只々嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。朝日が差し込む空っぽの病室に僕の嗚咽だけが響き渡る。
もう後悔なんて、どこにもなかった。
僕は看護師に心からの感謝を伝え、病室を出た。家に帰るとき、病院のエントランスに七夕の笹と短冊が置いてあった。そういえば今日は七夕だったなと思い
「ありがとう」
僕はただ一言だけそう書き、日の光が眩しい方向へ新しい一歩を踏み出した。
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