第三章・君がため、僕がため
無情に時が流れていく。
僕が過去に戻って迎えた一度目の春、琴葉は病を
あの時と同じように。
隣にいるのにどうすることもできない自分の無力さに何度も、何度も涙した。涙して分かった。僕にできる事は彼女に寄り添うことしかないと。例え運命から逃れられなかったとしても、あの時のように何もせずに過ごしたくなかった。だから僕は見舞いに行く時は必ず笑顔を絶やさなかった。そして彼女の調子がいい時は他愛のない話をし、そうでないときには進んで看病をした。僕は僕の持てる限りの策を全て講じて、一秒でも長く琴葉と一緒にいようとした。それが功を奏したのか、彼女の容体は少しだけ回復し、一時的に退院できるようになった。窓の外を見て彼女は嬉しそうに
「退院したらいっぱい楽しいことしようね!」
以前より少し痩せた顔に笑顔を浮かべて言う。花火大会を一週間前に控えた、月がよく見える夏の夜の事だった。僕は期待に胸を膨らませて、眠りに就いた。
朝、心地よい朝日に迎えられ、目が覚める。
僕は起き上がり、顔を洗いに洗面所へ向かう。少し暑い部屋で冷たい水を顔に浸すと、爽快感で心が満たされる。僕は気分が良くなり、テレビをつけた。
「おはようございます。 只今の時刻は、午前七時三十分、天気は晴れ。八月十一日のニュースをお届けします。」
妙に機械的なニュースキャスターの声が聞こえる。続けて
「さて、今年もこの日がやってまいりました。今日は桜港の花火大会です。世界的に有名なその美しい花火を見ようと、全国各地から大勢の人が押し寄せる影響により高速道路が大変混雑する恐れが…」
僕はテレビを消して、出かける支度を始める。約半年ぶりのデートなので身だしなみにも気合が入る。外に出て、隣の部屋のインターホンを鳴らすと、僕の大好きな人が出てきた。彼女もかなり気合が入っているのかとてもオシャレな服を身にまとっていた。僕が、「似合ってるね」と言うと、彼女は嬉しそうに
やがて夕方になり、僕らは僕の部屋に戻った。
去年のあの場所に向かうことも考えたが、彼女の体を考えて花火は家から見ることにした。彼女が大好きなオムライスを作ると、彼女はご褒美がもらえた子供のように喜ぶ。とても可愛い。食事の間、彼女は終始ニコニコしていた。食べ終わる頃には夜もだんだんと濃くなっていて、窓の外には満点の星空が見えた。すると琴葉が、
「今日は本当に楽しかったよ! ありがとう!」
笑顔でそう言ったので
「こちらこそありがとう。僕も楽しかった。」
と返す。その時、夜空にあの時と同じように花火が咲いた。それを見た瞬間、琴葉は窓の外の景色にくぎ付けになる。
「わぁ……本当によく見えるね! ここなら人混みに飲まれて疲れることもないし……あれ? まさか雅彦、私の体を考えて……?」
妙に察しがいいので少し驚く。空いた窓から生ぬるい風が入ってくる。
「流石に今の君を無理に歩かせるわけにはいかないしね。でもこの部屋から見る花火もすごく綺麗だと思わない?」
部屋の中を、生ぬるい空気が満たしていく。
「うん。とても綺麗。今まで見た花火の中で一番かも」
続けて僕のほうを何か言いたそうに見ている彼女に「どうしたの?」と尋ねると、彼女は黙ってしまい、部屋の中が一気に静寂に包まれた。遠くのほうで聞こえる
…………
…………
どれくらい時間が経っただろう、彼女がそれまで見せたことのないくらい悲しい顔をして
「ごめんね」
そう一言呟いた。
「ごめんね。ごめんね……。私のせいで、雅彦につらい思いをさせて……。本当は、本当なら、もっと、もっと楽しい思い出、いっぱい作れるはずなのに。私が病気になんか、かかったから、いっぱい雅彦に…迷惑かけて、私のせいで、ごめんね。ごめん……」
「…迷惑だなんて、一度も思ったことないよ…! 僕は君と一緒にいられるだけで嬉しくて、嬉しくて…。会えないときは寂しくて、切なくて、堪らなくなるくらいに君のことが好きなんだ…。数えきれないくらいの幸せを、出会った時から今まで君は僕にくれたんだよ…。それに、病気にかかったのだって、君は何一つ悪くないじゃないか。だから…そんなに自分のことを責めないでほしい。だって君はこの世で一番、笑顔の素敵な、僕の大好きな……彼女なんだから……」
そう言って僕は彼女を優しく抱きしめると
「……わたし…やっぱり雅彦についてきて…本当によかったよ…こんなにわたしのこと、好きでいてくれるなんて…わたしうれしい……。ありがとう…ありがとう……」
生ぬるい部屋に僕らの
もう花火の音は聞こえなかった。
こうして夏が終わり、再び入院生活を送りだした彼女は、以前よりも少しだけ明るく振舞うようになっていた。僕はそんな彼女の姿を見て安心する一方、刻一刻と迫り来る約束の時間に
琴葉と一緒にいたい。でも残された時間はあと少しだ。分かっているはずなのに、やはり心のどこかで愚かな期待をしてしまう自分がいる。もしかして奇跡が起こって彼女が死なないで済むんじゃないか? ありもしない根拠で、叶うことのない願いをする。しかしそれらは全て
「お花見がしたいなぁ」
と言いだした。勿論断る理由なんて無いので僕は彼女の車いすを押して病院内の桜の木の下に彼女を連れて行く。彼女は車いすに、僕はベンチに座り、目の前の美しい桜とその後ろに見える桜港の街並みを眺める。この地の名前の由来は、かつてこの辺り一帯に桜が咲き誇り、風で飛ばされた桜の花びらが海に浮かぶことで湾一帯が桜色に染まったという
不意に琴葉が声をかけてきたので僕は彼女のほうを向く。見ると彼女の頭にたくさん桜の花びらが付いていて思わず吹き出してしまった。不思議そうに僕を見つめる彼女もそれに気づいたようで、恥ずかしそうに頬を桜色に染めて
「あんまりからかわないでよ!」
すこし恥ずかしそうにそう言った。
「ごめんごめん。ところで琴葉、何か話そうとしてなかった?」
「うん…今みたいにこうして桜を眺めていると、雅彦と初めて出会った日のことを思い出すなぁって思ってね。」
「初めて会った日?」
僕は彼女に聞き返す。
「そう。ちょうど今くらいの季節、雅彦がこの町に越してきた時の事。私たちの家の近くにある桜がきれいな公園で、私と雅彦は出会ったんだよ。思えばあれが運命の出会いってやつだったのかな? そうだとしたら嬉しいな。あれからもう十五年くらい経つけど、こうしてまた雅彦と桜を見られて本当に良かったって思ってね。」
彼女はそう言うと優しい笑みを浮かべた。風に煽られて桜の花びらがひらひらと舞う。
「運命かもしれないね。」
そうだ。
僕らが出会ったことも、過去に戻ることができたことも、今こうして二人で桜を見ていることも、全てが運命なのだろう。等しく君がもう少しでいなくなることも、受け入れる他ない絶対的な運命なのだろう。
……それなら僕はどうすればいいのか。限りある時間の中で、君がため、僕がため、何ができるだろう。その答えはもう心にあった。それに気が付くと
何かを得るには何かを失わないといけないような、じれったいこの世界が、彼女のことが
より一層愛しく思える気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます