第二章・リスタート

 誰かが僕を呼んでいる。


まどろみの心地良い世界で、そう思った。その声がなぜ僕を呼んでいるのか、それが一体誰のものなのか、知っているはずなのに、まるで体がそれをこばむように答えが出ない。やがてその声は大きくなり、はっきりとこう聞こえた。


「早く起きなさい! 学校、遅刻しちゃうよ!」

 声の主は母親だった。……どうして母さんが僕の部屋に? 疑問に思い目を開ける。目の前には、見覚えのある部屋が広がっていた。僕は僕の記憶の中を探す。導き出された答えは、そこが紛れもなく昔の自分の部屋だという、有り得ない事実だった。壁に貼られたポスターや机の位置まで、まるでアルバムの中の写真のようにそのままの姿でたたずんでいる。訳が分からず、枕元にある携帯電話を確認する。表示された画面には二年前の七月七日、午前七時半と記されていた。まだ浅い夢を見ているような気がしたので、とりあえず起き上がり顔を洗いに行く。洗面所の鏡に映ったのは紛れもなく二年前の僕だった。


 何なんだこれは? 夢…いや、だとしたら少しリアルすぎる。思いついたように頬をつねってみると微かな痛みを感じた。それに遅れて、なぜ二年前にタイムリープしたのかという、ごく単純な疑問がやってくる。考えるほど疑問が湧いて来て、寝起きで冴えない頭をフル回転させしばらく考えるが、重要なことを思い出した。そうだ、学校に行かないと。僕は身支度を始めた。懐かしい制服を着て鞄を背負せおい、ふと机を見てみると、そこでは星の形をした髪飾りが、少し開いたカーテンから差し込む朝日を反射して、きらりと光っていた。琴葉の綺麗な黒髪に、絶対似合うから渡そうと思っていたものの、恥ずかしくて結局渡せなかった。二年経ってもそれをずっと後悔していたので、僕はこれ幸いと思い、それを鞄にしまって家の扉を勢いよく開け、希望で満たされた街へ足を踏み出した。



 僕が住むこの桜港さくらこうという町は、春は桜が咲き誇る坂の多い港町だ。港では朝早くから漁師たちが脂の乗った美味しそうな魚たちを漁船から市場いちばおろしている。僕の通っていた海桜高校かいおうこうこうは、そんな潮の香る坂道の中腹ちゅうふくに位置している。坂道を下ると海が広がっていて、そこでは毎年夏に、大きな花火大会が開かれる。それは町の人に「夏の夜桜」と呼ばれ、古くから親しまれている。満天の星空めがけて打ち上がるそれは、どこの花火より美しいと呼び声が高く、毎年沢山の人がそれを一目見ようと、世界中からこの街へやってくる。そんな桜港の朝、梅雨明けのまだ心地よい暑さの中僕は一人、坂道を登って学校へと向かった。

 

 坂道を五分ほど登ると学校に着く。校門に差し掛かった時、偶然にもばったり鉢合わせた。


夜空のような漆黒の長髪に、透き通るような肌、垂れ目の大きな目。見ていると吸い込まれそうになる黒い瞳、高い鼻と笑顔が似合う口。


 琴葉が、そこにいる。


 僕は彼女を見て嬉しさが込み上げてきた。泣きそうになりながら、放課後に会う約束をした。彼女は涙目の僕を見て疑問を浮かべていたが、


「大事な話がある」

一言そう告げると、約束を受けてくれた。

 それからの時間は誰かと話すこともなく過ぎていった。元々親しくしていた人は琴葉しかいなかったので当然と言えば当然である。なぜか彼女とだけは普通に話すことができた。内気な僕といつも一緒にいてくれた彼女を意識しだしたのは覚えてもいないほど昔のことだ。


 あっという間に放課後になり、静けさが漂う教室に彼女が入ってきた。窓の外には、あの時と同じようにきらりと一番星が輝いている。


 仕掛けるなら今だ

そう思って彼女に語りかけた。


「今日は、来てくれてありがとう」


「うん。大丈夫だよ。……話があるって言ってたけど、どうしたの?」


「琴葉に、伝えたいことがあって。その前にこれ、受け取ってほしい。少し子供っぽい気がするけど、似合うと思って」


「これは……髪飾り! とってもかわいい! ありがとう! 大切にするね!」

 そういうと彼女は髪飾りを付けた。やはり似合っている。


「気に入ってくれて僕も嬉しいよ。やっぱり似合うね、とても可愛い。」


「えへへ」

 琴葉は少し照れたように笑う


「あー、やっぱり好きだ。」


「……え?」

 彼女は目を大きく見開いた。


「もしかして雅彦、私のこと……?」

 彼女は驚いたように尋ねる。


「うん。気づいてたかもしれないけど、ずっと前から僕は琴葉のことが好きだった。君は優しいし、可愛い。君の全てが、好きで好きでたまらないんだ。だから、もしよければ、僕と付き合ってくれないかな?」


 言えた…僕は琴葉の顔を見る。しかし彼女は何も言わない。教室の空気が一気に張り詰める。


 逃げてはいけない。ここで逃げたら、あの時の二の舞だ。それだけは……


  触れたらはじけてしまいそうな空気が教室に広がる。

 やがて彼女は頬を赤く染め、恥ずかしそうに、


「……すごくうれしい。私も雅彦のこと、好き。私こそ、これからよろしくね……」

 彼女はそう小さく呟いた。


「ありがとう。嬉しいよ。…あ、窓の外、見て……うっすら月が見えるよ。綺麗だね……。そうだ、今から海に行って少し話さない?」

 僕がそう言うと彼女は頷いたので学校を出て、海へと続く坂道に差し掛かったとき、互いの手を握った。彼女の歩幅に合わせて歩くと、心が一つになったような気がして、とても幸せな気持ちになれた。


 それからの毎日は飛ぶように過ぎていった。僕はそんな日々の中でたくさんの思い出を彼女と作っていった。それは例えるなら満月のような、とても満たされて、とても美しい日々だった。


 一緒に海へ行ったときは、普段、運動が得意なはずの琴葉が浜辺で城を作っていたので、


「もしかして、泳げないの?」

 少しからかうと


「お、泳げるよ! 今は…そう。砂の城を作りたい気分なの! 恥ずかしいから、からかわないで…」

 そう言って顔を真っ赤にさせる。僕は知らない駄菓子屋を見つけた小学生のような、妙に誇らしい気持ちになった。


 電車で遠出した時、彼女の帰りの電車代が足りなくなって僕らは家に帰れなくなったことがあった。焦る僕らは藁にもすがるような気持ちでヒッチハイクをした。三十分ほど続けていると、親切な男性が僕らを町まで連れて行ってくれることになった。琴葉は運転手の彼に泣いて感謝していた。彼女は意外と涙もろいのだ。


 車が僕らの町に辿り着いた頃には、既に夜も更けていた。車窓から見える月が、僕らの家路を照らしてくれているような気がして、とても心強く思えた。


 一緒に買い物をした時は、彼女の服選びに付き合った。彼女が選ぶ服はどれもオシャレに見えたが、彼女が着ているからそう見えるのだと思った。

 帰り道の自動販売機で彼女が今日のお礼と言ってジュースを買ってくれた。坂の上にある公園のベンチに座って夕日を眺めながら談笑していた時、不意に会話が途切れ、辺りに少しだけ静かさが漂いだす。するとその時、いきなり彼女は泣き始めた。僕は驚いて


「……え、どうしたの……⁈ 何か気にさわるようなこと言ったかな」

 そう尋ねると、彼女は涙声で


「雅彦が悪いんだからね……! 雅彦といなかったら、わたしこんな気持ちになんて…ならなかったんだから……。この時間がずっと続いてほしいなんて…思わないんだから……!」

 と言う。僕は何も言わず彼女を優しく抱きしめながら


「ありがとう…僕も琴葉と同じ気持ちだよ。でも、だからこそ、琴葉にはずっと笑っていてほしいんだ。僕は君のことを絶対に手放したりしないよ。ずっと一緒にいれば、大丈夫さ」


 さとすように琴葉にそう言うと、彼女は腕の中で子供のように泣いた。彼女の泣き声が夕暮れの公園に響き渡る。彼女の温もりが伝わってきて、彼女が生きていることを実感できて、僕は嬉しくて堪らなかった。その日は少し泣いた後、彼女の温もりが冷めやらぬうちに眠りに就いた。


 こうして僕は、彼女との幸せな日々を存分に味わった。ただ、そんな幸せの渦中かちゅうにいる僕を突き落とすような出来事が起きた。ある日、僕が学校に行ったら僕の上履きが捨てられていた。それだけでなくロッカーに罵詈雑言ばりぞうごんが乱暴につづられた紙クズや生ゴミが入っていたのだ。しかし理由は分かっている。活発で分けへだてなく優しい琴葉はその綺麗な顔立ちも相まって学校のアイドル的存在だ。大方おおかた僕のことを良く思わない連中が僕に嫌がらせをしているのだろう。実際僕は通りすがりに


「何で夏野さんはと付き合ってるのかな。」


「ほんと、夏野さんには悪いけど釣り合ってないよね。」

 そう言っているのを耳にしたことがある。僕がされた嫌がらせのことも、このことも、勿論彼女には言っていない。優しい彼女のことだからきっと僕をかばうだろう。それで彼女が傷つくのなら苦しむのは僕だけでいい。


もう、僕のせいで苦しむ君を見たくないのだ。


 そして花火大会の日を迎えた。まだアスファルトに熱がこもる午後六時、待ち合わせ場所には浴衣姿の彼女がいた。普段着とはまた違うあでやかな姿に僕が思わず見惚みとれていると、


「遅いよ! 結構待ったんだからね!」

 そう言って琴葉は少しふくれたので僕は


「ごめん! でも浴衣、凄く似合ってるよ。」

 と言うと


「あー、誤魔化した! ほんと雅彦、お世辞うまいんだから。……でも嬉しいよ。着て来てよかった!」

 と言った。僕らは花火が始まるまで二人で屋台を見て回った。やがて空も暗くなり、そろそろ花火が始まるという時に僕は彼女の手を引き、ある場所に連れて行った。


 そこは僕がまだ幼かった頃、祭りで賑わう人の喧騒けんそうで母とはぐれてしまったときに偶然見つけた場所だった。心細さでいっぱいだった時に夜空に咲いた花火は、なぜか今まで見たどんな花火より幻想的で、妖艶ようえんで、不思議とこの季節になるとその時の出来事が鮮明に思い出せる。その場所は僕だけが知っている、僕だけの思い出の場所なのだ。


「ここは? 何で急にこんな所に来たの?」

怪訝そうに尋ねる彼女に


「まあ見てなって」

 と少しカッコつける。その時目の前の空に花火が咲いた。それは紛れもなくあの時見た花火だった。


「わぁ、凄い! 綺麗!」

 琴葉が嬉しそうにはしゃぐ。そんな無邪気な姿を見て僕は辛くなった。次々と花火が打ちあがる。……忘れてはならない。この子は二年後不治の病によって命を落とす運命にあるのだ。


 あの頃の僕は、君がこの世界に居てくれて、ずっと僕に笑いかけてくれると信じて疑わなかった。「イマ」がずっと続くと思っていたのだ。


 けれどこの世はそんなに甘くなかった。


 僕はそれを少しも分かっていなかった。それに気がついた時には、もう君はこの世には…いなかった……。


…それならば


彼女がこちらを見て


「なんで泣いてるの……?」

 驚いた様子で尋ねる。


「こんなに綺麗な花火を……琴葉と…見れるのが…嬉しくって。」

 そう言うと彼女は


「確かに綺麗だもんね、私も雅彦と見れて嬉しいよ。」彼女はそう言って優しく微笑む。花火より綺麗だ。


……それならば


この時間がずっと続けとは言わない。


ただ


今はただ君の隣で、花火に見惚れる君に見惚れていたい。

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