2-EX-3 反転呪詛の人生は続く

 追い立てる。


 「ぜっ、はっ、ひゅっ」

 ターゲットは、無様に走って逃げている。


 追い立てる。


 少しでも身軽になろうと、彼女は身を守るためのレイピアを後ろに投げ捨て、走る。


 追い立てる。


 恨みはない。

 だが、奴隷商会との取引を中止したいと言い出した貴族には、見せしめが必要であった。

 

 夜。凍りつくような冬の中。

 大通りを避けるように、裏路地だけのチェイス。


 「はっ、はあっ」

 あと百メートルも走れば、彼女は安全圏にたどり着く。

 すなわち、己の屋敷へと。


 だが、追い詰める。

 『反転呪詛』の手にかかれば、取るに足らない相手だ。


 「《ダークエッジ》」

 闇の刃を左手に作り、正面に振り抜いて飛ばす。


 「ぎゃあっ!?」

 足首に当たり、腱を断ち切る。


 バランスを崩したターゲットは、全力疾走の勢いのまま、冷たい地面を転がる。

 彼女は走れなくなって尚、這いずるように逃げようとする。


 速度は殺した。

 『反転呪詛』は追いすがり、彼女の腰を踏みつける。


 「なぜ、あなたはここまでするのです」

 失血と寒さ。

 顔面蒼白になりながらも、彼女は問う。


 答えない。

 代わりに、呪いの込められた短剣を抜き、振り上げる。


 背中に突き立てるビジョンを想像する。

 傷口から血が吹き出す光景を、脳裏に浮かべる。


 「――死ね」

 力を込める。


 ターゲットは目をつぶり、死を覚悟する。


 「ごッ」

 振り上げた短剣は、彼女の命を――奪えなかった。


 「おごッ、がッ」

 吐き気、頭痛。

 唐突に、『反転呪詛』は苦しみ始める。


 臓腑をローラーで轢き潰されるような。

 あるいは、脳を洗剤に漬け置きされるような。


 とにかく耐え難い苦しみだ。

 短剣を取り落とし、四肢を地面に投げ出して、嘔吐する。


 「……?」

 令嬢も、異変に気づく。

 振り返り、無様な『反転呪詛』の姿を見て、脳内の疑問をあえて捨て去る。

 

 手の届く場所に、彼の短剣があった。


 「……!」

 迷わず手に取り、マウントを取り返す。


 「お゛えっ、ゔぇっ」

 『反転呪詛』は、対応できない。

 己を蝕む呪いは、身を守ることすら許さない。


 「……やあッ!」

 首筋に、振り下ろす。

 致命傷ではない。


 「やっ! このッ!」

 何度も斬りつける。

 その度に傷が増え、彼の苦しみを増やしてゆく。

 

 「死ね、死ねーッ!」

 殺さなければ、殺される。

 そのシチュエーションが、彼女から冷静さを奪っていた。


 いかに浅い傷と言えど、斬られた回数がかさめば、致命傷になってしまう。


 「はあッ! あ゛あ゛あ゛ッ!」

 何十回もの試行の後。

 やがて傷は動脈に至り、鮮血のシャワーを咲かせる。


 それが、終わりだった。


 夢の、終わりだった。


 ◆◆


 「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!?」

 ユーデコスは、薄暗い部屋の中、悲鳴を上げて飛び起きる。


 薄着だ。

 今は冬ではない。

 火の季節に入ろうとする、夏の入口。


 「はっ、はあ、はあ……」

 気温はそれほど高いわけではないが、じっとりとした嫌な汗が、シャツとパンツを濡らしていた。


 「夢……」

 数秒かけて、現実を認識する。

 ここには、ユーデコスを害するものは居ない。

 けれど、カーテンを締め切ったボロ家は、昼の暮れだと言うのに薄暗い。

 脱ぎっぱなしのシャオファの服がそこら中に散らばっていて、どこからかカビの臭いもする。


 ユーデコス本人も、大概ひどい有り様だ。

 髪は四方八方にくせ毛を出しており、何より、風呂に入れていない。

 

 耐え難かった。


 ユーデコスのメンタルは最悪だと言っていいが、彼にはまだ、長命種としての矜持があった。

 よろよろとソファから立ち上がり、頭痛をこらえながら、流し台へ向かう。

 

 空腹だった。

 ここ三日、何も食べていない。

 だが、実際に飢えてみれば、飢え死ぬという選択肢は、自ずと意識から抜け去ってしまった。


 蛇口から水を流す。

 ちゃんと、透明な水が出た。

 

 両手ですくい、口に運ぶ。


 「けっほ、かっ……」

 すするように吸い込むと、大量の水が喉に流れ込み、むせた。

 それでも、大部分を飲み下す。

 

 久々に飲んだ、ただの地下水。

 疲れ切った身体には、神のもたらした美酒のように思われた。

 

 息を整える。


 食べようという気は起こらなかったが、何かを胃に突っ込む必要があった。


 (あれほどまでに死にたかったのに、俺は何をやっている?)

 そう自嘲しながら、ゆっくりと食料庫の扉を開ける。 

 饅頭、団子。干し肉、酒、酒、酒。

 野菜や豆の類は、一切なかった。


 (不健康な……)

 シャオファの偏食ぶりに辟易しながらも、一番状態の悪い団子を手に取る。

 串に刺さった、小ぶりな三つの餡団子。

 冷蔵食料庫の奥に三日も放置され、表面が乾いたそれは、買ったことを忘れ去られているかのようだった。

 

 匂いを嗅ぐ。

 辛うじて、まだ行けるだろう。

 意を決して、かぶりつく。

 昔の食事に比べれば、数段ランクの落ちる味だが。

 ユーデコスの肉体は、そのもち米の塊を歓迎したようだった。


 瞬く間に三つの団子を食べ終える。

 脳に甘みが行き渡ると、己の置かれた厳しい状況が、心にのしかかってくる。

 

 先程見た夢を、思い返す。

 七十年ほど前の、暗殺任務。

 当時はつつがなく成功させたが、夢の中では違った。

 ルゥという悪霊が掛けた《ギアス》は、どういう状況であろうが容赦なく発動するらしい。


 トリガーは、殺意だろうか。

 ユーデコスは、ルゥにその感情を抱こうとして、取りやめる。

 ギアスが発動し、胃の中に入れた団子を吐いてしまえば、今度こそ再起不能になりかねない。

 それは、ユーデコスを拾ってくれたシャオファに対する裏切りではないかと、なんとなく思ったからだ。


 再び蛇口から水を流し、口をすすぐ。

 この様子では、シャオファが歯ブラシを用意しているか怪しいと感じたからだ。

 魔法がろくに使えず、どれだけの資金を動かせるかもわからない現状、虫歯は避けたかった。


 カーテンを開ける。

 数年ぶりに浴びた太陽の光に、眼が困惑する。

 暫く薄目で慣らし、ゆっくりと目を開けると、外の景色が見えてくる。


 整然とした町並みだった。

 シャオファの家以外は、ちゃんと整理が行き届いている。

 隣の家の庭に関しては、きゅうりや大葉が植えられているようだ。 

 出されたゴミはきちんと回収され、通りには石畳が敷かれている。


 遠くには、ツェルイェソドを祀る教会まで見える。

 ユーデコスは、乱雑にあばら家が立ち並ぶスラム街を想像していた。

 だが、室内の環境の悪さは、単にシャオファの生活能力が壊滅的なのと、家屋自体が古いのが理由らしかった。

 

 ため息をつく。

 見たところ、ここは不折梅都おれざるうめのみやこの、南外郭。

 上流階級とはとても言えないが、住みやすい穏やかな地域とされている。


 とりあえずは、よし。

 盗賊どもによる襲撃は、考えなくて良さそうだ。

 

 状況が掴めてくると、安堵が押し寄せてくる。

 ふらふらと腰が抜けて、しゃがみこんでしまう。


 「ふぁ~……」

 二階から、シャオファが降りてくる。

 下着姿だ。人前に出られる格好ではない。


 反射的に、ユーデコスはカーテンを閉める。

 シャオファに堕とされた彼が、本能で取った行動だった。


 「昼間から声出すの、シャオは止めてほしいなあ。目、覚めちゃった」

 「ごめん。夢見が、ちょっとね」

 殺しの夢を見た、とまでは言いづらかった。


 「ふーん。でも、ユーくんがちゃんと縦になってるのって、珍しいよね」

 「悪いかよ」

 「全然」

 シャオファは、ユーデコスにしなだれ掛かる。

 例の香水の匂い。

 彼の中で甘いトラウマとなった、理性を溶かす匂いだ。


 「あ……」

 ユーデコスの身体は、卑しくも反応する。

 思考が失われ、本能が顔を出す。


 こうなったら、もうダメだった。


 「おいで」

 シャオファは、ユーデコスを誘う。

 正面には蜜のような地獄が口を開け、待ち構えている。


 ユーデコスは虚ろな目で、誘い込まれるまま地獄に飛び込んだ。


 シャオファは、ユーデコスを愛してくれた。

 けれどその愛は、人に向けたものというよりは、ペットに対するそれに近い。


 自覚しながらも、シャオファが彼を求めれば、彼は応じずにはいられない。

 甘えたような声に溶かされ、弄ばれ、意思を削られていく。


 抵抗など、させてもらえない。  


 それからユーデコスが解放されるまで、二時間掛かった。


 シャオファは仕事に行く。

 割のいい仕事だそうだ。

 詳細は、言わずともわかるだろう。


 彼女が出かけるとき、ユーデコスはボロ雑巾のようになっている。


 これが『反転呪詛』の末路だとは、彼をするものは夢にも思うまい。


 ◆◆


 こういう生活が、二週間続いた。


 シャオファに遊ばれ、絞られ、絞りカスのようになって、寝て、食べて、また遊ばれる。

 当のユーデコス自身が、このままではまずいと感じてきていた。


 ある日の夕暮れ。起きてきたシャオファの毒牙に掛かる前。

 ユーデコスは、おもむろに彼女に土下座した。


 「突然なぁに?」

 シャオファが無邪気に寄ってくる。

 甘い、甘い堕落を振りまきながら。


 「ごめん、近寄らずに少しだけ話を聴いてくれ!」

 触れられたら、終わりだ。

 ユーデコスは、この爛れた日々から少しだけ抜け出したい。

 制止というよりは、もはや懇願であった。


 「ふーん?」

 シャオファが、焦らすように歩み寄る。

 近寄られるだけで、胸が高鳴る。

 濃密な交わりを思い出しそうになり、ギリギリで振り払う。


 彼女の足がユーデコスの頭に触れるまであと一歩、というところで、ようやく足を止める。


 「話して」

 感情を感じさせない、無機質な声が、頭上から聞こえてくる。


 「わかった」

 ユーデコスは、つばを飲み込む。

 この二週間で、彼のプライドはずたずたに引き裂かれていた。

 今は一転、肝が冷える思いだった。


 言葉少なに、話し始める。

 まず、生かしてくれたことへの感謝を告げた。

 次に、このままだと二人とも破滅してしまうこと。

 せめて、なんでも良いから仕事をしたいということを伝えた。

 

 全て話し終わった後、霊廟のような静寂が、あたりを支配した。


 シャオファが何を考えているか、分からない。

 彼女が独占欲に満ちた人間であるならば、この提案は確実に怒りを呼ぶだろう。


 やがて。


 「あはっ♪」

 シャオファは歩み寄り。

 「ぐうっ!?」

 ユーデコスの頭を踏みつける。

 力は込めていない。

 屈辱を与えるための、支配のための踏みつけだ。


 「あっはっはっは! ウケル。全部、ユーくんの言うとおりだよ」

 グリグリと、踵を擦り付ける。

 それだけで堕ちそうになるのが、たまらなく惨めだった。


 「もうちょっと搾り取れると思ったんだけどなー。でもまあ、いっか」

 踏みつけた足を下ろし、眼の前にしゃがみ込む。


 そのままユーデコスの顎を持ち上げ、今度はシャオファが語り始める。

 「シャオ、実は上級娼婦になってさ。プレイ一回ごとに、500シェル貰えるの」

 「……っ」

 無理やり目を合わせられる。

 ユーデコスは、猛烈に嫌な予感がしてきた。


 「ユーくん、シャオで何回気持ちよくなった? 数えるように、言ったよね」

 「80と、3……」

 「せいかーい」

 額にキス。

 全身の力が抜け掛かる。


 いたずらっぽく微笑むシャオファは、言葉を続ける。

 「シャオは算数できないからさ。一回500だとして、掛けたら何シェルになるんだろうね?」

 「あ……」

 41500シェル。

 一般市民が、数年かけて稼ぐ額。

 それを、ユーデコスに請求しようというのだ。


 「そんな、無法な」

 稼ぐ手段を失ったユーデコスにとっては、途方もない大金だ。


 「でも、ユーくん。“いやだ”なんて言えないよね」

 「ぐ……」

 実際、そのとおりだ。

 閉鎖的な環境の中での“調教”に、完全に屈服してしまった彼の魂は、シャオファに尽くすことに至上の喜びを感じてしまっている。

 そして何より、天上の快楽を知ってしまえば、人の世には降りられないものである。

 

 「……まあでも、ユーくんが可哀想だからサービスはしてあげる」

 シャオファはユーデコスの顎から手を離し、背を向ける。


 「サービス?」

 まだなにかあるのか。

 シャオファの言葉に恐れすら覚えながら、続きを待つ。


 「シャオ、文字が読めないんだよね。さっき言った四万……幾つだっけ? その大金で、何がどれくらい買えるかも分かんない」

 「……」

 薄々、そんな気はしていた。

 シャオファは、全くの無教養。

 ボロい家には、時計がない。

 本も、ペンも。

 基礎教育に関係すると思われるものは、ことごとく存在しなかった。


 「ユーくん、頭いいよね。シャオが起きてから仕事に行くまでの、シてた時間。その半分をシャオの勉強に使ってくれたら、残りの半分はタダでサせてあげる」

 「……そうしよう」

 元より、拒否権はない。

 ユーデコスは、シャオファの奴隷だった。


 「じゃあ、決まりだ。ユーくん、服着て」

 言われて、自分の状態に気づく。

 二人とも、薄着も薄着だった。


 シャオファは、一気にカーテンを開ける。

 火の季節の、刺々しい西日が部屋に降り注ぐ。

 先ほどまでの倒錯的な空気が、一気に振り払われたように感じられた。


 彼の本来の服は、理性があるうちに洗濯し、畳んである。

 シャオファも通勤のための服に袖を通す。


 「何から教えれば良い?」

 ユーデコスは、脳を切りかえる。

 終わった後のご褒美のことは、今はいい。

 ようやく人として再起できそうで、内心ほっと一息ついていた。


 「算数。数字の意味と、読み方を教えて」

 「なら、市場に行こう。銅片と鉄貨は持ってるか?」

 銅片は10シェル。鉄貨は5シェルだ。

 この二つが数枚あれば、小さめの買い物はカタがつく。


 「えーと」

 シャオファは混沌とした部屋の中から、財布を取り出す。

 「これ?」


 彼女が財布から出したのは、燻し加工がされた銀貨だった。


 「それは……千シェルもする黒銀貨だ。銀行に預けた方がいい」

 「うっそ、千? 百の何倍?」

 「百の十倍。銅片は、この小さくて赤いやつだ」

 財布に手を突っ込み、例示する。

 同様に、鉄貨と一シェル鉄片についても、形を叩き込んだ。


 「予定を変えたほうが良いかもしれないな。銀行に行って口座作って、今シャオがどれだけのカネを持ってるか、一回自分の目で見た方がいい」

 「うーん、それもそっか。銀行の場所は分かるよ。何するところか知らなかったけど」

 居間から出て、玄関へ。

 靴を履き、鍵を閉めて外に出る。

 

 外は、程々に暑かった。

 久しぶりにかび臭くない空気を吸うと、脳が働き始めたように思われた。


 ユーデコスは、シャオファの少し後ろをついていく。

 黒の神子に敗北する前であれば、二人の立ち位置は逆に違いなかっただろう。

 今の彼にとっては、先をゆくことはおろか、隣に並び立つことすら、なんだか後ろめたく思えていた。


 自己否定に苛まれながら十分ほど歩くと、人通りの多い街路に出る。

 ユーデコスは、薄手のフードを目深に被った。


 「……何やってんの?」

 きょとんと、振り返ったシャオファが問う。


 「見りゃ分かんだろ、多分指名手配だぞ、俺」

 「……そうなの?」

 「百数十年かけて百人はってる。遺族に見つかりでもしてみろ、ブタ箱行きでゲームオーバーだ」

 すぐにでも裏路地に逃げ込みたい、という表情を作る。


 「あー、それね」

 ところが、シャオファのリアクションが、妙に軽い。


 「……? おまっ!?」

 疑問を呈したユーデコスのフードを、シャオファは容赦なく剥ぎ取る。


 途端に、衆目を集めてしまう。

 そのまま、顔を隠そうとするユーデコスを、シャオファが羽交い締めにする。


 「何すんだよ!?」

 《エナジードレイン》で戦闘力を根こそぎ奪われた彼は、シャオファよりも弱い。

 抵抗は、意味をなさなかった。


 「あ! デークさんだ! ちすちっす!」

 ツーブロックのオルクス鬼人族が、彼の肩を叩いて去ってゆく。


 「え……?」

 顔が割れている。

 それどころか、異様な気安さである。


 「ね? 心配いらないでしょ?」

 混乱するユーデコスの耳元で、シャオファが囁く。


 「いや、だって俺、たくさん殺して……」

 頭がぐちゃぐちゃになる。

 

 せめて、なじってくれればよかったものを。


 今、また悪い夢を見ているのではないかと、頬をつねる。


 現実だった。

 人々はユーデコスを勇気づけ、通り過ぎてゆく。


 「種明かしは、銀行ついてからにしよっか」

 シャオファは茫然自失とするユーデコスの手を引き、数軒離れた銀行へ入る。


 「いらっしゃいませ」

 奥ゆかしい老人が、カウンターの外から呼びかける。

 黒い神官服。模造宝石の装飾。

 金融は、ミクレビナーの管轄だった。

 

 「こーざ? っての作りにきた! やり方教えて!」

 元気よく、笑顔で。

 大抵はそれで上手く行ったから、今回もそのようにしたようだ。


 ところが、意気揚々と未知に挑むシャオファの前に、数枚の紙が差し出された。

 「お名前と住所、職場の記入を」

 「げっ」

 文字だ。

 シャオファの目には黒い糸が交差している図形にしか見えないが、とにかく文字である。


 三秒ほど笑顔で固まっていたが、どうにか同行者のことを思い出す。

 「ユーくん、助けて」

 横目で、ユーデコスを見る。


 彼は、終わっていた。

 うつむき、うわ言を吐いている。

 「俺を許さないでくれ」だとか「こんなの、あり得ない」だとか。

 とにかく、現実を受け入れられず、正気を失っていた。


 「《サニティ》」

 銀行員の老人が、呪文を唱える。

 抵抗は難なく突破。呪文が効果を及ぼすと、ユーデコスは息を整え始める。


 「……悪い、助かった」

 シャオファの代わりに書類を受け取り、ペンを取って書き始める。

 ユーデコスは、魔導書をしたためたこともある。

 流石に、手早いものだった。

 

 書類を手渡すと、老人はユーデコスの顔を見て、何かに気づく。

 「おや、もしや。お連れ様は、あの高名なデーク様ではありませんか?」

 「え……」


 今、何と言った? 『高名な』?

 再び心の闇に飲まれとする彼の手を、シャオファが握る。


 「まあ、話が進まないし。こーざができるまで時間がかかるんだって。待ってる間に、ユーくんが何をしたことになってるのか、説明してあげる」

 「お、おう……」

 手頃なベンチに誘導され、座る。


 その隣に、シャオファ。

 彼女はどう話を組み立てるべきか迷っていたが、とにかく話し始めた。


 「確か、ユーくんってお金持ってたよね」

 「ん? まあ、そうだな。数百万シェルはあったと思うが」

 「わあ、すごい」

 シャオファは、クスクスと笑った。


 「それでさ。例の神子が居るじゃん」

 「神子? アイツと俺の金に、どう関係が?」

 彼は一瞬だけ尻の感覚を思い出し、ひゅっと縮こまった。

 

 「んーと。説明は難しいんだけど」

 「ゆっくりでいい。そっちのほうが俺も助かる」

 深呼吸し、促す。


 「ユーくんがシャオの家で倒れてる間に、ユーくんがお金隠してるところへ捜査が入ったの」

 「だろうな」

 そこは、予想できていた。

 資産の隠し場所の情報は、神子に吐かされたから妥当な成り行きだろう。


 「その資金の一部が、神子に支払われたの」

 「まあ、そうなるわな」

 腹は立つが、これも仕方がないことだ。

 問題は、たった一パーセントであってもかなりの大金になることだが。


 「それで神子……というか、神子のお願いを受けたピリニャスって人がさ」

 「アイツか、俺のケツを掘ったデカ女」

 「そそ。そのドライアドのお姉ちゃんが、麗家の外交ルートに情報操作をお願いしたんだって」

 情報操作。

 記憶によれば、相場は十万シェルから。国家や商会なら出せる金額ではあろう。


 待てよ。


 「まさかその金の出処って」

 半ば確証を持ちながら、ユーデコスは恐る恐る聞く。


 「まあ、うん。その報酬からだって。一緒に居たエルフのお姉ちゃんが言ってた」

 「マジかよ……」

 少なくとも神子の行動について、手段は分かった。

 

 だが肝心の、彼がどういう情報を動かしたのかは、まだ聞けていない。

 ここまで聞けば、続きも聞かざるを得まい。

 シャオファは語り続ける。


 「流した情報はたくさんあるんだけど、ユーくんに関わることは三つかな」

 「三つか。一つじゃないんだな」

 「うん」


 まず、一つ目を聞いてみる。

 

 「ユーくん、実は死んだことになってるね」

 「は!?」

 声を荒げる。

 途端に、「お静かに」と、銀行員からお叱りを受けた。


 「え、だってさ。なんで……?」

 疑問はある。

 そもそも、当の神子には、ユーデコスの死を偽装する動機がないはずである。

 

 気を取り直す。

 「じゃあ、二つ目。『デーク』という人物が、各国政府のやってる奴隷解放事業に巨額の寄付をした」

 「んーーーー???」

 寄付。

 それも、元々の雇い主である奴隷商会と敵対する組織に。

 正直なところ、この時点で三つ目の情報の想像がついてしまう。

 ユーデコスと関係のある話題という事実が、彼の推論を確固たるものとした。

 

 「なら、最後の一つって、その『デーク』と俺って……」

 「そうだね、これ見て」

 シャオファは可愛い鞄から、一枚のパンフレットを引っ張り出す。

 

 そこには、紛れもなくユーデコス自身の顔が写っていた。


 「あーーーーあ……」

 ユーデコスは、がっくりとうなだれる。

 線と線とが、繋がった。

 

 要は、新しい顔を強制的に作られてしまったのだ。

 

 「なあ、シャオ。もう一つ聞いて良い?」

 「うん」

 「あの神子、なんでそんなことしたの?」

 「うーん……」


 シャオファは、考える。

 とはいえ、今の彼女に思い当たることなんて、数えるほどしかない。


 「えっちが上手だからじゃない?」

 「ンなわけあるかよ」


 ノータイムで否定する。

 

 ……否定した後、少しだけ自信がなくなってきた。

 なんせ、相手はあのルノフェンだ。

 あいつは、文字通りなんでもやってしまう。

 そこに、タブーなどないのだろう。

 

 ひとしきり苦悩した後、ユーデコスは大きくため息をつく。


 「まあ、理由が分かるまで、死ねなくはなったかもな」

 「そうだね。死なない程度に搾り取ってあげる」

 「うぐ」


 話が終わったところで、手続きも終わる。

 シャオファの口座は無事作られたそうだ。

 手持ちの黒銀貨を全部預けたら、一万を超えた。

 

 「帰ろっか」

 気づけば、もうそろそろ“半分”の時間が過ぎようとしていた。

 どっと、疲れが押し寄せる。

 シャオファもこれから仕事だというのに、普段より口数が少ない。


 家にたどり着く。

 カビの臭いが、鼻をつく。


 「明日、起きたらどこがカビてるか見るわ」

 「はーい」

 靴を脱ぎ、再び居間に。


 「……」

 無言。

 この家には、娯楽がない。

 本も、芸術も。生き物さえも。 


 どちらともなく、服を脱ぎ始める。


 無言のまま、シャオファが迫ってくる。

 ユーデコスは、受け入れる。


 結局、最後はこうなるのだ。

 

 (明日、真面目に教材探さないとな)


 その思考を最後に、彼の意思は蕩ける闇へと混ざっていった。


 ◆◆


 「よし、よし。だんだん慣れてきましたね」

 という言葉をのたまうのは、ツェルイェソドを祀る神殿の司祭である。


 ユーデコスと司祭が踏んでいる地は、神殿の畑である。

 二人は、畑に畝を作っていた。

 クワを使って、人力で。


 「初日はどうなることかと思いましたよ。まさか、たった十回クワを振り上げるだけで音を上げたのですから」

 司祭は水筒を差し出す。

 「だけど、今はそこそこやれる。そうだろ?」

 受け取り、少しだけ飲み、返す。

 「ええ。大分良くなりました」


 ユーデコスは、最初に手を付ける仕事として農作業を選んだ。

 理由は、単純に肉体を鍛え直したかったからである。

 家の中で筋トレを試したこともあるが、シャオファに「うるさい」と一喝されてしまったことも影響していた。


 「さて、次は《ファタイル・チャーム》のスクロールを使います。“緑の指”印の、収穫倍増効果付きです」

 「“緑の指”。確かサヴィニアックか。よく手に入ったな」

 「ここ数年、販路の拡大を試みているそうでして」


 司祭はスクロールをユーデコスに渡そうとして、止める。


 「これは、私が使ったほうが良いでしょう。デークさんは、種の準備をしてください」

 「分かった」

 言われるがまま、ベルトに据え付けられたカゴへ種を入れる。


 最初は、小麦。

 司祭のカゴにも同じように入れる。


 スクロールは、破るだけで効果を発揮する。

 それだけで畑が肥沃になるのだから、カイムスフィアの農業は、思いの外発展していた。


 「では、肝心の種まきです。火の季節は終わったとは言え、まだまだ暑い時期が続きます。いつでも水を飲んでください」

 「気をつけておくよ」

 二つの畝の上に、それぞれ立つ。


 「やり方は、教えたとおりです」

 

 畝に穴を開け、三粒。

 十センチ、後ろに下がる。


 「そうです。その調子ですよ。焦らないでくださいね」


 畝に穴を開け、三粒。

 十センチ、後ろに下がる。


 徐々に心が澄んでゆく。

 この行為が、永きに渡る贖罪のひと粒となるのなら。


 畝に穴を開け、三粒。

 十センチ、後ろに下がる。

 

 畝に穴を開け、三粒。

 十センチ、後ろに下がる。


 【終】

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