第9話 人間魚雷
背中に鈍い感触を覚えたので、ふと目をやるとやっと小柄な大人が一人座れるくらいの大きさの操縦席があった。その頭上には友輝じいちゃんが何度も話してくれた、特眼鏡、――船底まで目を配らせ、突撃するための指針となる回天の眼となる基幹、それが天井から無情なまでに宙へとぶら下がっている。眼下に魚雷を操縦するための無数の発射ボタンを発見した。それに出口のない千尋の海で発射するために不可欠なガソリンの澱んだ臭気も立ち込めている。前方にも後方にもこの内部にも敵艦幾千万の爆撃を決行するために念入りに組まれた、炸薬の物々しい重量も伝わった。操縦席は非常に狭く、深く座っても天井に何度もぶつかった。父も同じように触れたであろう、垢まみれの縦舵機もある。
まさか、あの回天の中にいるんだろうか、と刹那の不安がよぎったとき、溢れ出てくる泥にまみれた、海水を全身に浴びながら身体中の血管が這うように縮まる心地がした。何度も友輝じいちゃんから聞いた、哀しい物語が現実味をはっきりと帯び、途轍もない恐怖となって襲来した。死ぬのか、と悠馬は脳内に血流が集中し、顔の半分が濁流に浸かりながら苦衷の海の中、思う。
父もこの母なる海に連なる黒い波によってその命を喪ったのだ。多くの搭乗員が奪われなくていい、その尊い生涯をこの黒い波によって終止符を打たれたのだ。あいつの正体は何者だったのか、と思考が及ぶ前に浸水によって息が止まり、夕靄と戯れる走馬灯のように短い半生がよぎった。死にたくない、死にたくない、死ぬな! と悠馬は何度も語尾が掠れた叫び声を発しながら、海淵に誘われつつあった。
「海はとても怖いんだよ。穏やかでもないんだ。泡沫と揉まれながら死を自覚するとき、人間はとても怖気付くものなんだよ」
「お前は何なんだよ! 俺が何をしたって言うんだよ!」
悠馬は振り乱すように叫んだ。海水の量が減る気配はなかった。とうとう顎の辺りまで浸かり始め、決死の覚悟は否めなかった。
「僕も怖かったんだよ。筆舌に尽くし難いほど。君には分かるかな? 僕の苦しみが」
こいつは何か予期せぬ魔法でも操っているのか? 精神的に限界に達し、悠馬の中で何かが決壊し始めた。意識が朦朧とすると瞼の裏で手招いている、一人の少女の姿が見えてくる。あの写真立ての中の面影を宿した、少女の隣にかすかな人影が窺えた。その正体は写真の中でしか見たことのない、若かりし頃の父だった。白い制帽をかぶり、海上保安官の夏用の白い第二種制服を着た父はその少女と降るような星空の前で、待ち侘びるように見ていた。規律を遵守するかのように拝礼する父は宿命の炎を抱く凛々しい青年に見えた。
なぜ、こんなところで、と驚きを隠せず、唇が冷たくなりながら悠馬の額には汗が滴った。鼓膜の奥からどこかしら、冴え冴えとした鈴の音が鳴っている。優しい音色だ。聖夜に鳴り響くハンドベルのような、聴く者に安らぎを与える芯のある音色。死者がこの世でさまよう迷い人となり、ここにいるよ、と所在を教えるために鳴らす、凛とした音。
あとは海が聖なる青い燐光を放つだけだ。この空と大地と海が共鳴し合うだけだ。多くの神話や名も無き伝説が星をなぞらえて、永久の物語を紡いできた。殉職した父も夭折を余儀なくされた搭乗員も目映い星となって、地上に哀しみを照らすのだろうか。その星屑さえも流れ星となって散り際には、孤独な子供たちの願いを受け入れるのに。
「もうすぐ父さんに会えるのかな……」
独り言も打ち砕くような酷い耳鳴りがする。悠馬は流離う難破船の行く末に身を委ねた。もういいんだ、もういいよ、と諦めかけ、意識が遠のく先で、ある一人の少女が手招いている。溺れかける悠馬はその視界の穴から手を差し伸べられた。
「あなたはまだこちらの世界に来てはいけないのよ。もう少しだけ耐えて。しばらくすれば目を覚ますから」
星を流す鈴の音は心が洗われるように響き渡った。拍子に合わせた荘厳な鈴の音は音源を増し、祈りにも似た涼やかな音は、どこまでも心の奥底に縹渺と木霊した。行ってしまうの? 父さん? 行かないで! と悠馬が足掻くと大波が顔面にかかり、そのまま、水泡にまみれながら意識が飛んだ。そこからはあまり覚えていない。
帰り道に灯台の前の鉄砲百合が咲き乱れる停留所で、倒れ込んでいたところを宗祐が発見してくれた。帰宅後、友輝じいちゃんに電話すると、灯台には行っていない、という返事があり、狐に包まれた悠馬は慌てて、岬はどうなったんだ? と宗祐にラインを送った。そんな奴なんて来ていないよ、と想像を超えた通知が来たので悠馬はつい、唖然とするしかなかった。そんな、と悠馬が吹き出しワードに送ると宗佑から頭を冷やしたら? と調子の悪そうな通知が夜分遅くにあった。
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