第8話 潮風の小部屋



 友輝じいちゃんの心配する叫び声さえも耳に入らず、悠馬は無我夢中で岬の視線を追おうと駆け足で、浜木綿が咲き誇る灯台の真下にある木立闇に向かっていた。崖のすぐ横にある岩肌の窪地には茶渋のように薄汚れた白い漆喰の民家が建っていた。脳裏には多少なりとも疑念があったにも関わらず、悠馬の両足は掌握されたように前方へと進んでいく。岬は赤錆だらけの門扉を開き、樹木が重なり合う荒れた庭の繁茂を踏み、華奢な鍵束から一本の銀色の鍵を取り出した。壊れそうな鍵束の一本によって、チョコレートのような平面のドアは開かれ、岬は厳格な番人のように手をかざした。中に入ると磯の香が立ち込めた。海水が泥水と擦れ合い、海藻が絡んだような腐臭が鼻腔を突き刺した。ドアを開けるとそこは誰かの寝室のようだった。

 靴も脱がず、悠馬は土足でその部屋へ入ると、海が見える窓辺には朽ち果てた机が置いてあった。机には青い写真ケースがひっそりと置かれてある。白銀の砂浜で一人の少女が紺色のワンピースで麦藁帽子を深くかぶり、海を見ている横顔の写真だった。その横顔は誰かに似ている。呆然とする悠馬に、岬は繊細ななで肩をすくめながら近づいてきた。


「悠馬君のお父さんは僕の母さんを助けてくれたんだよ」

 それは何度も聞いた。いや、聞いたような気がしただけだ。まだ聞いていない。不意に背後から後頭を掴まれ、息が詰まるような音が響いた。振り返って唇に何か触れたと思えば、潮風の香をここまで感じた。呼吸の湿度が頬にゆっくりと伝わり、唇が何者でもない、泥濘に浸かっていく。ふと視界が晦冥に閉ざされると、同時に悠馬は狭い艦内にうつ伏せになっていた。その艦内は金属が腐食したような独特な異臭が漂っていた。澱んだ海水が目を見張るように侵入していく。あいつにキスされた、と悔やんだのは束の間で、投げ出された状況に酷く狼狽するしかなかった。



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