第7話 流星の呼び鈴
友輝じいちゃんの語尾が掠れたので、悠馬は少し目配せした。
「颯馬君はいい部下だった。若いのに気が利いて頼もしい青年だった」
悠馬は海幸山幸の神話を聴くたびに遠く彼方の海へと泡沫と消えた、父の温もりに少しだけ、触れたようで気は重くなかった。憐れまれるよりも、故郷に伝わる神話を語り継ぐ方が何倍も良かったからだ。
熱風を呑み込む海は母が幼子を揺りかごであやすように穏やかだった。夕凪が間もなく訪れる火点し頃、橙色に包まれる島影さえ一つもない海原は白昼とは違い、その大らかな波風さえも無となり、空の終点まで続きそうだった。夏休みが明日から始まり、あっという間に青春時代が過ぎ、気が付かなうちに大人になっても父のようにこの海で朽ち果てるのだろう。ふと悠馬には運命的な予感がした。
「悠馬も潜水士になるといい。高校を卒業したら海上保安大学校に行ってこの海と共に背負って生きたらいい」
高校の進路だってまだ定かじゃないのに友輝じいちゃんの気の早い話だった。それも悪くない、と悠馬は西日に照らされ、黄金色に変化した白亜の灯台を見ながら思った。今年の春、母にその決意を打ち明けるとあまり気前のいい顔をしなかった。愛する人を失い、無音の砂浜で打ちのめされたのは山幸彦だけではなかったからだ。
「早速、体力を今からつけないといかんな」
友輝じいちゃんはまだ数年先の話なのにすっかり意気込んでいる。そんなお節介なまでの優しさが悠馬には照れ臭かった。
「ねえ、じっちゃん。この灯台から星月夜の晩になると、どこからともなく鈴の音が鳴って、海が青く光るっていう噂って本当なの?」
友輝じいちゃんは思案するように首を傾げたものの、うんうん、と頷いた。
「鈴が鳴るとともに海面が青く光る現象のことだろう」
悠馬はうん、とその合図を受け取った。それは海螢のことだな、と友輝じいちゃんが笑うと海螢? と悠馬は聞き返した。
「そうだよ。似たような自然現象に夜光虫というものがあるが、同じように海中を螺鈿のように光らせても因果関係が違うのさ。夜光虫は赤潮が原因で発生するし、日向灘は透明度が高いから、その正体は海螢だな。その鈴の音はひょっとしたら死者が冥土から現世に行き交う人々に対して、合図を送るように鳴らしているのかもしれん。ちょうど虫の知らせも人によっては鈴の音が聞こえると言うし」
死者が鳴らす鈴の音。目を見張る星月夜の晩でないとその軌跡は起こらない、とそれこそ、この前に宗祐がまことしやかに話していた。ここから見える海からは満ち潮と引き潮の道筋がリフレインし、無数の命の灯火が長きに渡る歳月とともに沈んでいる。傾き掛ける夕日に陰りが生まれ、悠久の歴史の礎となってもそれは何も変わらなかった。
「また会ったね」
その美声は話の途中でもはっきりと聞こえた。出くわしたのはあの転校生だった。悠馬の通う中学とは違う夏服のまま、岬は軽やかに微笑んだ。
「この灯台は僕の母も通っていたんだよ」
夕雲が浮かぶ海とは真逆のほうからの落日を浴びた、紅顔の美少年のコケティッシュな微笑に悠馬はたじろいだ。通っていたんだよ、と過去形の秘密に悠馬は腑に落ちなかった。
「僕の母さんは悠馬君のお父さんとすごく仲が良かったんだよ」
それは前も聞いた。それもかすかには思い出せない、遥か昔に聞いた気もした。
「何で父さんについて知っているんだよ」
悠馬は迫りゆく夕闇の仄かな陰影さえも忘れて言い返した。波打ち際から数百メートルほど離れた沖合では、一艘の白い巡視船が夕風に押されながら航行していた。巡視船の船上から見える雄大な夕焼けをまだ悠馬は見たことがない。
「悠馬君のお父さんの颯馬さんは僕の母さんを助けてくれたから」
水無月の夕べに岬の白いシャツはしなやかに靡いていた。助けたから? 悠馬にはそんな話を聞いた試しがなかった。岬の母親という存在もここで初めて知ったし、父が岬の母親と良からぬ関係を持っていた、という事実は母を一身に尽くした、父の信念からいって金輪際ない。悠馬は掌に広がる汗ばんだ手をぐっと丸めながら、乱れた呼吸を直した。埒が明かない岬の、ウェーブがかかり、見据えたような前髪は緩やかに垂れた。
「僕のうちに来ない? お父さんのことを教えてあげる」
岬は謎めいた伝言を残し、望遠鏡の前で踵を返した。悠馬は形振り構わず、岬を追いかけた。金色に輝く海上からその一艘の巡視船は真っ直ぐに絶海まで進み、しまいには船影さえもこの灯台からは見えなくなっていた。
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