第3話 飛翔する少年



 夏休みに入った七月の末、まだ、太陽も南中も来ていないのに照りつくような早朝の下、悠馬は部活動の練習のために半ば義務的に自転車を漕いでいた。代わり映えしない土曜日なのに、九時から部活動があるなんて取るに足らない憂鬱がたまる。岬中には部活動はたった一つしかない。少人数でもできる卓球部だ。体育館はまだ九時半なのに蒸し風呂のように熱く、顧問に言われるがまま、卓球台とピンポンを用意した。部員には来てからまだ、日が浅い転校生もいる。ニキビが一つもない端正な額には、こんな猛暑なのに一滴の汗さえも滲んでいない。女子たちの熱い目線は岬に釘付けだったし、顧問は今どき、珍しいスパルタ式で生徒たちを切磋琢磨させ、体力に縁遠い女子生徒から順番に脱落していく中、ひ弱に見える転校生はその場で何と軽々と連続でバク転を披露した。

 その圧巻な演技につい悠馬は目を疑った。宙を飛翔するかのような、俊敏な動きは思わず息を呑むほどで、ずば抜けた演技に女子たちからも歓声さえも起こらなかった。十分経っていても休憩は訪れず、汗が滝のように背中を流れ落ちるのを感じながら、もう、限界だ、と思った矢先、顧問が休憩だ! と笛を鳴らしたので、悠馬は真っ先に給水場に行き、紙コップに麦茶をついであっという間に飲み干した。みんな悠馬と同じように水分補給に邁進していても、岬だけは先生の警告を一切無視し、コップに手さえもつけなかった。体育館の出口の日陰で休憩していると、かんかん照りの青空からその転校生に顔を覗き込まれたので、悠馬は少しだけ苛立った。


「潜水訓練のときは水を飲んだらいけなかったから……。これくらい僕は平気だ」

 悠馬の無防備な背中は自然と伸びていた。潜水訓練? 何を言っているのだろう。悠馬はその瞬間、写真の中で見た父の零れるような笑顔が脳裏によぎった。こいつ何か違う、と悠馬は苛立ちのあまり唇が湿り、直感的に虫唾が走っていた。

「悠馬君はお父さんについて、どう思っているのかい?」

 潜水訓練。それは潜水士にとっては欠かせない訓練だ、と悠馬は熟知している。身体と密着する黒を基調としたオレンジ色のウエットスーツを着用し、水中で息継ぎなしに二分三十秒も耐えるのだ。青々と満ちた海洋で二十数キロもある酸素ボンベを背負い、両手を駆使して器用に水面を掻き、消耗する体力を少しずつ温存させ、顔面を水中に出したまま、十分間も立ち泳ぎをする。誰が見ても過酷な訓練である事実に変わりはない。父はその死守すべき難局を貫徹し、晴れて難関の潜水士になれたのだ。転校生がその晴れ晴れしい功績に口を挟む権利はさらさらない。


「何でお前が父さんを知っているんだよ」

 父の話になれば、口調が自然と荒くなる。岬は眉目秀麗な顔立ちのまま、悠馬の真横にゆっくりと腰を落としていった。

「僕は誰よりも知っている。海の怖さも。海の儚さも」

 海の怖さ。海の儚さ。視線は見えもしない海へと繋がっていた。悠馬にも見覚えがある言葉ばかりだった。結局、岬は一滴も水をつけないまま、負荷のかかる練習に励み、体力を相当消耗している筈なのに、軽やかな動きは衰弱を知らず、練習試合でも誰一人負け試合を妥協させなかった。矢継ぎ早に振り下ろす、ピンポンの速度も今まで遭遇した試しがない。まるで、戦艦から大砲を撃つかのようだ。すっかりくたくたになって部活動の練習が終わると、夏萩が揺れる校庭で蜩が訳知り顔で鳴いていたのがどことなく鬱陶しかった。



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