第3話(8)
地区予選からしばらく経ったある日のことだった。そろそろ試験ということもあって、最近の部活はほとんどお休み。その日も部室を覗いて誰もいなかったので、一人で家に帰ることにした。もちろん、帰っても試験勉強するつもりはないけれど。
学校の最寄り駅は県内でもそこそこのターミナル駅だ。都心のような規模ではないが、駅ビルにデパートにと一通り揃う駅構内は平日でも人々で賑わっている。
私は人混みを避けようと、待ち合わせで混み合う中央改札を避け、比較的人の少ない駅の端の改札口に向かった。
すると、近づくにつれ女性の悲鳴のようなわめき声が聞こえてきた。
なんだろう、喧嘩? 事件かな?
単語が聞き取れる距離まで来ると、耳に飛び込むのはひどいだの、他の女だの、好きだの嫌いだの……これはどうも痴話喧嘩ってやつだ。おやまあ。
私はちょっとした野次馬根性で、鞄の中の定期入れを探すふりをしながら耳をそばだてた。周りの乗降客達も、気になるのか声のする方をチラチラと覗いている。声の主は改札前の柱に隠れるようにして立っていて姿が見えないが、どうやら高校生カップルの別れ話らしい。まるでドラマを見るかのような思いで、かといってジッと聞き入るほど厚顔にもなれず、あともう少しで顔が見えるかな、というところで喧嘩は佳境に入り──
「どうせ私のことなんて好きでもなんでもないんでしょ? もういい、ムカつく!」
と叫び声がするや否や、改札口にパン! と乾いた派手な音がひびきわたった。
驚いて立ち止まった私の横を、涙で顔をぐしゃぐしゃにした女子高生が走り去っていく。唖然としてその姿を見送り、視線を戻した私は思わず声を上げた。
「先輩?」
「マネージャー?」
頬を引っ叩かれた『ムカつく男』は、紛れもなく、うちの部の佐田岡先輩だったのだ。
「マズいとこ見られたなぁ」
佐田岡先輩は頬にうっすら手形をつけたまま、バツが悪そうに頭を掻いた。
「すみません、覗き見するつもりじゃなかったんですけど」
「まあ、あんだけ目立っちゃってたらね。一応みんなには黙っといてね」
「あ、はい、もちろん!」
私も知らず知らずに興奮していたのだろう、先輩が笑ってそう言うのを良いことに、よせばいいのにワイドショーのレポーターじみたことを聞いてしまった。
「あの、今のは彼女さんですか?」
不躾に気を悪くするかと思ったが、佐田岡先輩はこともなげに肩をすくめて答えた。
「まあ、さっきまで彼女だったのかな」
「フッちゃったんですか?」
「さあ、多分俺がフられたんだと思うけど。どうだろね」
どうだろね、って。こっちが聞きたい。
佐田岡先輩はなんというか、見た目はとても軟派だ。
大柄な部員の中でも一際背も高くシュッとしていて、私が野球部マネージャーと知るや否や、聞かれるのはだいたい佐田岡先輩の彼女の所在についてだった。その度にさあ知らないと答えていたが、まさか今日こんな騒動で知らされるとは。
美奈子や他の女子たちは船高のキムタクだの長瀬だのと騒ぐけれど(さすがにちょっと言い過ぎでしょ?)そんな華やかな見た目とは裏腹に、野球部内では一歩下がって遠くからみんなを見るような落ち着いた人だった。羽目を外しがちなラクダさんをうまく抑えたり、バラバラな部員達のまとめ役を買って出ることも多い。
笑うにしろ怒るにしろ、熱くなったところを見たことがない。たまに視線が合う時は、ひどくつまらなそうな顔をしていたりもする。達観していると言えば聞こえはいいが、高校生ってもっとおバカなものじゃない? つかみ所がなくて、私ははじめからちょっと苦手だった。
その上、さっきの佐田岡先輩の顔──泣き喚いて自分を責める恋人を冷たく見下ろす視線。いや、冷たささえない、どうでもいいというような顔。当事者があんなに無関心でいられるものなの? 私に気がついてパッと部活の時の柔和な顔に戻ったけれど、それがかえって不気味だった。ほんの一瞬のことだったけれど、背筋が凍りつく思いがした。
「さてと」取材を終えた芸能人よろしく、先輩はぽんと腰を叩いて伸びをした。「俺はそろそろ帰るね。また部活で」
「あ! ちょっと待って下さい!」
去ろうとする先輩を思わず呼び止める。
苦手な先輩を呼び止めた理由──先輩は、目下意中の人である山田先輩と仲が良い。部活以外でもよく一緒にいるところを見かける。聞いたところでは、同じ中学出身なんだそうだ。
「なに、どしたの?」
「あの……こんな時にナンですけど、先輩に伺いたいことがあるんです。少し時間とれますか?」
聞きたいこと。それはもちろん、山田先輩のことだ。
私と佐田岡先輩は、駅前ロータリーにあるベンチに場所を移した。
◆
「で、なに? 聞きたいことって」
先輩はロン毛の一房を指先でいじりながら言った。笑顔の裏の面倒くさそうな空気に、少したじろいでしまう。
「あの、えっと……あ、ほっぺた痛くないですか?」
「平気だよ全然。あはは、もしかしてそんなこと聞くために呼び止めたの?」
「そ、そうじゃないんですけど」
連れ出してはみたものの、山田先輩に恋人はいるのかいないのか、そのたった一言がなかなかはっきりと言い出せない。
「なに、言いにくいこと?」
「いやその……」
でも折角のチャンスだ。校内ではなかなか二人になる機会はない。聞くことはきかないと!
私は膝の上の手を握りしめ、ぐっと身を乗り出した。
「山田先輩って、彼女いますか?」
「──え?」
妙な間があってから、先輩は意外そうに眉根を歪めた。こっちこそ意外だった。何事にも、それこそ別れ話の修羅場にもたじろがない人だったから。
「だからその、山田先輩は付き合ってる人がいるのかなって」
そう言い直すと、先輩はしかめた眉を緩め、いつものようにカラカラと笑った。
「それなんで俺に聞くの? 本人に言いなよ」
「え、だって、こんなこと直接聞けないし」
とはいえ、親友の佐田岡先輩に言えば当然本人にも伝わる。期待していたのは事実だ。内心で見下してきた、私に佐田岡先輩の彼女のことを聞いてきたクラスメイト達と同じことをしている。
急に恥ずかしさが襲ってきて、私はうつむいて握った手を見た。佐田岡先輩はふうと一つため息をつく。
「山田かぁ。予想外だなあ」
「そうですか? あ、じゃあ逆に誰だと思いました?」
なにが逆に、だ。照れ隠しに変なことを聞いてしまった。
「そうだなぁ、江崎とか?」
「うえ、江崎はナイナイ、ないですよ!」
あいつだなんて勘弁してほしい。調子ばっかりよくて、真面目な山田先輩とは大違いだ。
まあ確かに山田先輩は、佐田岡先輩のように格好いいとか、ラクダ先輩のように陽気で喋りがたつだとか、ムキムキだとか足が早いだとかの目立つ特徴のある人ではない。現に私も、つい最近までは改めて意識したことがなかった。
「あいつとなんか接点あったっけ?」
そう聞かれたので、私はこの間の試合の帰り、一人部室で涙を隠していた山田先輩の話をした。
「あぁ、山田らしいなあ」
佐田岡先輩が優しげに笑う。思わずドキッとする笑顔につられて、私もついつい口がすべる。
「そうですよね。表に出るタイプじゃないけれど、周りがサボっててもいつも真面目に練習してるし、些細なことでもいつもありがとうって声をかけてくれるし、そういうところが……」
好き、と言いかけて慌てて口を閉じた。すると先輩は今度はニヤリとして、
「そういう不器用で馬鹿正直なところ。俺も好きだよ」
と言うので、厭味な物言いに私は閉じた口をとがらせた。拗ねる私を一瞥し、先輩は両手を頭の後ろで組んでもう一度「山田ねえ」とつぶやいた。
「あいつって、今どき珍しいくらい硬派で奥手だからな。そこがまたいいところなんだけどね」
「ですよね!」
思わず食い気味に力説してしまって、またしても笑われる。なんだかすっかり子供扱いで、ちょっと面白くない。
そんな私に気がついたのか、先輩は組んだ手を下ろしてベンチに深く座り直した。
「そうだなあ。山田とは中学からつるんでるけど、女の子の話は全然聞いたことないな。俺はさっき見ての通りなんだけどね」
「佐田岡先輩のことは聞いてません」
「あっははは、キっツいなぁ吉川さん。まあ、あいつの事だから付き合ったとしてもなかなか周りに言わないだろうけど、今のところそんな気配もないかな」
「じゃあ、フリーなんですね!」
「多分ね」
やったぁ!
っと、先輩がフリーだからって付き合えると決まったわけじゃないけれど。でも、これで第一関門クリアだ。
「いいねぇそんなに喜んじゃって。青春だねえ」
「先輩だって、まだまだこれからですよっ」
佐田岡先輩はハハハと笑って後ろ髪をくしゃくしゃと掻いた。
「さて、そろそろ帰らないと」
話がひと段落したのを見計らってか、先輩が立ち上がって腕時計を見る。
「あっ、ごめんなさい、なにか用事ありました?」
すると彼は、ぴた、と急に神妙な面持ちになった。私なにかまずいこと聞いちゃった?
「実はね……。五時からドラゴンボールの再放送があるんだよ」
「あっははは、やめて下さいよぉ、真剣な顔するからなにかと思ったじゃないですか!」
「まぁそろそろ本当に戻ろうか」
というわけで、私達は再び駅へと向かった。
件のいわくつき改札に戻って来たところで、私はふと思い立った。
「あの、佐田岡先輩ってどうして野球部に入ったんですか?」
もう一つの疑問だ。先輩達は、とくに好きでもなさそうな野球をなぜ続けているんだろう?
うちの学校はそこそこの進学校で部活強制でもないから、生徒の三分の一は部活に入っていない。運動部なら尚更だ。なのに、ヤンキーだったという以前の先輩のようにただの溜まり場にするでなく、山田先輩のように真面目に野球するでもなく、本人もダラダラ走ってはエラーしてばかり。あげく陸上部にすら負けるような野球部になぜ居続けるのか。
「え? 好きだからだけど、他になんかある?」
ところが、先輩は悩みもせずにそう即答したので、私はびっくりしてしまった。
そうか、好きだったのか。
私は勘違いしていたのかもしれない。今まで佐田岡先輩達のことを、勝つ気がないとか、やる気がないとか思っていたけれど、そういうわけじゃなかった。それぞれに真剣なんだ。
みんな、好きだから野球をしてる。……後藤先輩は違うかもしれないけれど。
当然といえば当然のことだった。好きじゃなければ、どうして名門でも強豪でもないうちの野球部に入る?
勝つことだけが部活じゃない。甲子園だけが高校野球じゃない。スポ根なんてまっぴらだったはずなのに、いつの間にか、イメージ通りの野球部を彼らに求めていたのかもしれない。
私は自分の考えの浅さに恥ずかしくなったけれど、同時に嬉しくもあった。冷たく無機質に思えた佐田岡先輩の意外な一面も見えた気がした。
「どうしたのニヤニヤして。電車来ちゃうよ、吉川さん総武線でしょ? 俺は駅からバスだから」
「あっホントだ!」
電光掲示板を見ると、次の電車は一分後!
「それじゃ、お先に失礼します。今日はわざわざ付き合ってくれて、どうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ変なモンをお見せして」
「じゃあ、また明日!」
私は深々とお辞儀をし、ホームに向かって駆け出した。
「あっそうだ!」
去り際、私は振り返って笑ってみせる。ニヤリ。
「そのほっぺた、ちゃんとアイシングしたほうがいいですよ!」
子供扱いしたことへの、ちょっとしたお返しだ。佐田岡先輩は苦笑して頭を掻くと、私に向かって手を振った。
◆
帰り道、私の足は軽かった。
今なら空も駆け上がれるかも……なんて、私らしくもないけれど。
それにほら、もうずいぶんと風も暖かい。
季節は晩春。
私にとっては高校生活二度目の、先輩達には最後の夏がはじまろうとしていた。
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