第2話(7)

 そんなわけだから、最初のうちはほとんど校庭の隅に突っ立っているだけだった。それでも、男の中に女が一人ということでみんなチヤホヤしてくれるし、まあ悪い気もしないので、ほぼ毎日練習に顔を出した。


 そのうちに暇を持て余してマネージャーの真似事をするようになった。といってもマネの仕事なんて全くの門外漢だ。私はバスケ部の美奈子に頭を下げて他の運動部のマネージャーを紹介してもらったり、兄に相談したりして、お茶出しや道具の整理などの簡単なことからはじめていった。

 するとどうしたことか、だんだんとマネの仕事が楽しくなってきてしまった! 例えば練習上がりにタオルを差し出す、そんな些細なことでも毎回ありがとうと言われる、それはなかなか嬉しいことだ。そしてなにより、新しいことを覚えるというのは結構な快感なのだ。

 私は図書館に通ってはスコアの付け方の本を借り、効果的な筋トレ法を学び、三学期の半ばには部費の管理も任されるようになった。


 それにしても我が野球部の弱さときたら! 他校との交流試合に勝てないのはもちろんのこと、遊びとはいえ陸上部との試合に負けたのにはさすがに眩暈がした。エラーにつぐエラーでただのゴロをランニングホームランにする始末。そんなプレーは小さい頃兄とやったファミスタでしか見たことがない。

 いつしか私は、本気で勝ちたい、一勝でもいいから勝たせたい、いや一点でいいから点を取らせたいと思うようになっていた。のだが……結局、いつも空回りしてばかりだった。

 練習メニューを考え提案しても、部員達のほとんどは負けるのが当然という雰囲気で、なかなか身を入れてくれない。体調管理に気を配っても、なにしろ部員の絶対数が少ない。全員が全員絶好調ということはまずない。

 はじめは私に気を遣ってか練習に顔を出していた部員達も、三学期の終わりにはぽつりぽつりとサボりはじめるようになっていった。練習試合の前日に将棋部で後藤先輩を見かけた日には、乗り込んで行って将棋盤ごと真っ二つにしてやろうかと思ったものだ。

 私が野球部にのめり込んでいくほど、歯がゆい思いはつのっていった。



 そしてついにやってきた、春季関東大会予選。

 私にとってはじめての公式戦、勝てないまでも、一点! 一点だけでも取ってやる!

 鼻息荒く私が身支度をしていると、とっくの昔に野球を辞めた大学生の兄がのそのそと起きてきた。

「おはよ、あぁ今日は試合なんだっけ」

「おっはよ! ねえねえ、今日の相手チームは県大会上位常連の強豪校だけど、調べたら先発ピッチャーはコントロールが悪くて四球も多いの。そこが狙い目だと思うんだけど、お兄ちゃんはどう思う? 足の速い橋本さんを──」

 と、ここまで言ったところで兄が遮ってきた。

「あのさあ、前から思ってたけど。この際だから言うわ」

 刺々しい声のトーンが、はやる気持ちに思い切り水をさす。

「お前がしたいのはさ、マネージャーじゃなくて監督やコーチがすることじゃねぇの?」

「は?」興奮していた分、一気に頭に血が上るのがわかった。「そうだとして、それのどこが悪いのよ」

「分をわきまえろって話だよ。お茶だしや洗濯がお前の仕事だろうがよ」

「そんなのちゃんとやってるよ! やった上でもっと出来ることを考えてるんじゃん」

 そう、重いお茶のポットを抱えて走り回ったり、真冬の水で洗濯だってしてる。そんなことは苦じゃなかった。わいわいお喋りをしながら部員達とボールを磨く時間が私にとってこんなに大切になるなんて、はじめる前は思いもしなかった。

「だいたい、監督も顧問も顔すら見せないし、監督代理は部長もコーチも兼任してる国語教師なんだよ。全然機能してないんだから、少しくらい私が代わりをしたっていいでしょ?」

「じゃあそれに周りはついてってんの? お前は監督どころか選手でもなんでもないじゃん」

 兄の言葉に、咄嗟になにも言い返せなかった。それはきっと図星だったからだ。

 わかってる。私は試合に出られないし、経験者でも専門家でもない。私の言うことなんて誰も真剣に聞いていない。

 だって私はただのマネージャーで、女だから。

「そんなこと言われなくてもわかってるよ……」震える手を握りしめて、振り絞るように声を出す。「だけど、試合の日に言うことないじゃんか!」

 思いがけず激昂した私に気押されたのか、兄は悪いとだけ言って部屋に戻って行った。

 ああ、悔しさで死にそうだ。でも絶対に泣くもんか。


 最悪の気持ちのままはじまった第一試合。船木場高校は面白いように打ち込まれ、ノーヒットのまま五回コールドで敗北した。



 惨敗の帰り道、さすがに私達の歩調は重かった。

 手も足も出なかった。私は、普段練習試合を組む似たような境遇の野球部とは違う、実力校との圧倒的な力量差に文字通り打ちのめされていた。下がっていく選手をハイタッチして見送る、相手校のマネージャーの笑顔にも。


「いやぁ、打たれた打たれた!」

 いつも盛り上げ役を買って出るラクダ先輩が、重たい空気をうち破るように声を張り上げた。それを合図にみな一斉に饒舌になる。

「まあ、相手が相手だったもんな」

「間違っても俺らが勝てるはずないっスよね」

「むしろマグレでも勝っちゃ失礼っつうか」

 そんな会話を聞いているうちに、私はどうしようもなく泣きたくなってきた。

「あ、あれ、マネージャー? どしたの?」

 言葉が出ない。口を開いたら泣いてしまいそうだ。どうしてみんなは、一点くらい取ってやろう、という気にはなれないんだろう?

 今朝兄に言われた言葉がグルグルとまわる。私はただ、ニコニコしながらお茶を出していればいいだけの存在だったのか?

「そんな、泣かないでよぉ」

「泣いてませんよ!」

 ラクダ先輩の少し困ったような声に、私は鼻を啜ってぐっと涙を堪えた。絶対に絶対に泣かない。ここで泣いてたまるか。

「仕方ないじゃん、オレら弱小貧乏野球部だし。なあ、山田?」

 先輩は、隣にいた山田先輩の肩を軽く叩いた。

「あ、ああ……そだな」

「な〜!」

 山田先輩、どうしたんだろう。ラクダ先輩に肩を叩かれた時、ほんの一瞬だけだったけど、先輩は確かに顔をしかめていた。



「じゃ、今日は解散ということで」

 いったん学校へ戻った私達は、反省会はとりあえず明日にまわし、今日はこのまま帰ることになった。陸上部の面々はまた部活に戻るそうだ。

「なあ、腹減ったしどっかで飯食ってかない?」

 佐田岡先輩の提案に、空腹だった部員はどっと湧いた。

「いいねぇ、どこで食う?」

 食に目がない三好主将の目が光る。

「いつものラーメン屋でよくね?」

「えぇ、ラーメンかよぉ。記念になんか旨いもん食おうよ」

「記念って、なんの記念だよ」

「コールド負け記念なんつって」

「あはははは……って笑えるか!」

 部員達の間には、次第にいつもの活気が戻りはじめていた。そんな中、さっきから妙に黙り込んでいた山田先輩が口を開いた。

「わりぃ、俺はちょっと部室寄ってからそのまま帰るわ」

「なに? 忘れもん?」

 三好主将が聞き返す。

「うん、ちょっと鍵かしてくれる。帰りに職員室に返しとくわ」

 主将から鍵を受け取った先輩は集団から離れ、一人部室棟へと向かった。左手を振りながら。

 主将が私を振り返る。

「マネージャーも行くでしょ、飯?」

「……あの、私も美奈子と待ち合わせなんで、ここで失礼します」

 もちろんそんな約束は嘘だし、お腹も減っていたけれど、私には他に気になることがあったのだ。

「そっか、じゃあ俺らは飯行くわ。また明日な」

「はい、今日はお疲れさまでしたぁ」

 ごはんの相談をしながら連れ立って校門の方へ歩いていく部員達を、私は手を振って見送った。そして彼等の姿が見えなくなったのを確認し、一目散に部室へと走った。


「お疲れさまでした、山田先輩!」

「ん?」私の声に、後ろ向きにベンチに腰掛けていた先輩が顔を上げた。「あぁ、吉川か。みんなと行かなかったん?」

 やっぱり。

 先輩は右肩に氷嚢を当て、アイシングし直していた。きっとさっきから痛んで仕方なかったんだろう。なにせ今日の試合は随分と投げ込まされた。試合後に冷やしたくらいじゃ駄目だったんだ。

 これではまったく兄の言う通りだ。本来のマネージャーの仕事を蔑ろにして、部員の不調にも気がつかないなんて。

「あの、私がやりますよ」

「大丈夫、自分でできるから」

 先輩は出入り口に背を向けたまま静かに断った。

「でもサポーターとかつけるのに──」「平気だから」

 そう言った先輩の背中は他を寄せ付けず、私は開け放したドアの前で立ち尽くした。これ以上踏み行ってはいけないような気がした。それでも、と、私はどうにか言葉を探す。

「今日は残念でしたね」

「まあな」

「相手が悪すぎましたよね」

「だよな」

 先輩は振り向かない。私は一歩踏み出して手を伸ばした。

「やっぱり私やりますよ」

「いいってば!」

 いつになく強い口調に、思わず出した手を止める。

「あ、いや……。そろそろ暗くなるし、帰った方がいいよ」

 きっと私に顔を見られたくないんだ。もしかして……泣いてるの?

「それじゃあ、お先に失礼します……」

 私はそれ以上は言えずに、部室のドアを閉めた。

 ドアが閉まる瞬間、先輩が小さく「ごめんな」とつぶやいたのが聞こえてしまって──どうしようもなく、切なかった。


 その日以来、私はなにかと山田先輩を気にするようになっていた。

 練習中は気がつけば彼を目で追っていた。

 家に帰っても、宿題をしながら、お風呂の湯舟の中で、寝る前の夢うつつに……無意識のうちに彼の姿を思い浮かべていた。

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