第1話(6)
「あぁ吉川ちょうど良かった、ちょっといいか?」
高校生活に目新しいものも無くなり始めた一年生の三学期、休み時間にトイレに向かう途中で担任教師の
はぁ。教師から名前を呼ばれると、別段悪いことをした覚えはなくてもつい憂鬱な気分になってしまう。一体全体なんの用件か? と身構える私に、担任は意外なことを言い出した。
「お前さ、野球どこファン?」
「はあ?」いきなりなんなんだ。怪訝さが思わず声に出る。「横浜、ですけど……」
「よっしゃ! 吉川、野球部のマネージャーになる気ないかな」
「はあぁ?」
なんで私が野球部のマネージャーに? というか、なんで横浜だとよっしゃなワケ?
眉をしかめた私に、担任は返事を待たずに続けた。
「いや実はさぁ、うちの部、マネージャーがいなくて困ってんだよ」
そういえば、担任は野球部の監督だかなんだかをやっているんだっけ。でも、うちの高校の運動部はほとんどが弱小で、野球部も例に漏れず、甲子園なんて夢のまた夢の超・弱小。内申に影響するでなし、そのマネージャーだなんて誰もやりたがらないに決まってる。
「イヤですよ、やりません」
と、言い切った所でおしまいにすれば良かったのに。えぇ〜と頭を抱えた担任を見て、つい二の句を継げてしまった。
「……だいたい、なんで私なんですか」
すると、担任はパッと明るい顔をあげた。あぁ失敗した。
「それなんだよ、ホラ、うちのクラスの江崎が野球部員でさ。むかし吉川の兄ちゃんと少年団で一緒だったって話を聞いてさぁ」
げ、江崎のやつめ余計なことを。昔から上にばっかりヘラヘラ調子がよくて好きじゃなかったけど、ますます嫌いになった。
「マネージャーって言ってもそんなに特別な仕事はないんだけど、野球のこと多少はわかってる奴じゃないとダメじゃん?」
「わかるっていったって、基本ルールを知ってるってだけですよ。スコアブックの付け方とかわかりませんよ」
「いやいやぁ、横浜やスコアって単語が出てくるだけでも充分! 合格!」
「嫌ですよ、無理ですって!」
確かに兄は少年野球をしていたけれど、応援に行ったのなんて留守番ができない年頃までだ。せっかくの休日が潰れて嫌な思いをしたのも一度や二度ではない。横浜ファンだというのも、兄や父がファンだからなんとなく言ってみただけだ。
第一、マネージャーなんてしていたら私の時間が潰れてしまう。私の時間、なんて大層なモノがあるわけでもないが……。
「頼むよ、ちょっと見学に来てみない? 今日の放課後も練習があるからさ! ちょっとのぞくだけでも!」
やりたくないし、やる気もなかったけれど。担任のあまりの必死さに私はしぶしぶ返事をした。というより、何度断っても食い下がられていつまでもトイレに行けなくなりそうで、とりあえず了承する羽目になったのだ。
「じゃあ……、見学だけなら」
「来てくれるか!」
イェイイェイと身振り付きではしゃぐ担任がムカつく。オデコ薄いくせに。
「でも、引き受けるかどうかはわかりませんから」
「ああもう全然オッケーオッケー!」
全然オッケーって、この人ホントに国語教師? この押しの強さ、教師よりもキャッチの方が天職なんじゃない? と、思ったことはもちろん言わない。私は推薦狙いなのだ。
「じゃ、今日の放課後に校庭で! よろしく!」
担任はパンと手を打つと、スリッパをバタバタ言わせながら駆け足で去っていった。廊下は走るな!
さてどうやって断ろうか? と考えていたところに、今のやりとりを遠目で見ていたクラスメイトの美奈子が近付いてきた。
「森ちゃんとなんの話〜?」
「あぁ、なんか知らんけど野球部のマネージャーやれって」
彼女は大袈裟に驚いて、ケラケラ笑い転げた。
「うっそ、梨花が南ちゃん? 超似合わね〜」
まったく酷い言い草だ。ガラじゃないのは自分でわかっているのに。
「それにさ、野球部ってヤンキーの先輩の溜まり場になってるって噂じゃん」
「嘘っ、そうなの? 聞いてないんだけど!」
「いいじゃん梨花、ワル好きじゃん。あとめっちゃ人気の先輩もたしか野球部じゃなかった? マネージャーになって紹介してよぉ」
いやいや、ワルで人気でカッコイイだなんて空っぽなものは前の彼氏でまっぴらだ。
「だめだめ。絶対断るよ、ヤンキー無理だもん。それに、南ちゃんって悪女じゃん」
「でも、男子にはなんでか人気あんのよね〜」
美奈子が苛つく表情で覗き込んでくる。私はフンと顔を背け、廊下を駆け出した。
「どっちにしろやんないよ、『南ちゃん』なんて!」
「ちょっと梨花、授業始まるよ〜?」
「トイレ!」
本当に野球になんて興味なかった。私はこの時、とりあえず練習だけ見学に行って、適当な理由で断るつもりだった。
そのつもりだったのだが──
その日の放課後、私が見た光景は想像していたものとはかなり違っていた。
坊主でもなければスポ根でもない。野球部と言えばみな頭を五分刈りにして、やたら団結力が強くて、とにかく泥臭いイメージだった。でもここの部員達はなんと言うか、不真面目というか、かといってヤンキー集団と言うほどではなくて。和気あいあいっていうのかな? 考えてみれば当たり前のことだけれど、みんな普通の学生だった。なんなら背が高くてスラッとしてて、ちょっと格好いいかも。なんて思ってしまった。
しばらくして練習が終わり、私は部員達の集まる部室に招かれた。
「おぉいお前ら、注目しやがれぇ」
森先生の一声で、部室内の視線が一斉に私に集まった。みんな背が高い。五、六人とはいえ、ずらっと並ぶとちょっとした迫力だ。百五十ちょっとしかない私は壁に囲まれたようで、さすがに緊張する。
「あれっ、森ちゃんその子は……」
部員の一人がそう言いかけたので、とりあえず会釈する。監督である担任は一つ咳払いをして、彼等に私を紹介した。
「新マネージャーの吉川梨花君、一年!」
「えっ!」新マネージャーの、ってどういうこと?「あの先生、私まだ──」
私の訴えは、瞬時に沸き上がった歓声、というかほとんど怒号にかき消された。
「森ちゃん、いや森監督、あんたサイコー!」
「そぉだろそぉだろ、俺は約束を守る男だろ」
私との約束は思いっきり破ってるくせに!
だが抗議しようとしたその時、後ろの方からぼそっと「可愛い」という単語が聞こえてきて、思わず出かけた言葉を飲み込んでしまった。
実をいうと、私は自分でも可愛い方かなって思ってる。もちろん内心で。でも実際に言われれば、やっぱり悪い気はしない。悪いわけがない。
「うっし、じゃあ自己紹介するかぁ。俺が主将でキャッチャーの三好ね」
「あ、はい、よろしくお願いします」
ついつい悦に入ってしまったことで、ますますタイミングを逃す。私ってやつは……。さらに落ち込む間もなく自己紹介はどんどん進む。
「オレ副主将でサードの
「ラクダさん……ですか」
なるほど。その妙なあだ名の理由は聞かずとも顔を見ればわかった。ちなみに私は『梨花ちゃん』と呼んでいいとは言っていない。
「で、こいつがピッチャーの山田とライトの佐田岡、こっちははしもっちゃんと……ごっつんは今日もサボリ?」
「いやいやお前が勝手にまとめんなよ、俺はショートの橋本で──」
結局、なにも言い出せないまま全員の自己紹介が終わり、その日は解散ということになってしまった。
『それじゃあ、また明日部室に来てね』
さすがに今さらやる気がないとは言えない。こうして私はまんまと担任の罠にかかり、不覚にも野球部のマネージャーを務めることとなった。
はぁ。
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