第3話(3)

「山田先輩!」

 六月、梅雨の晴れ間の蒸し暑い放課後。帰りの校門の前で呼び止められ振り返ると、梨花が手を振りながらこちらへ向かってくるところだった。

「り……吉川、なに?」

 咄嗟にでかけた下の名前を、無防備な笑顔と一緒に飲み込む。二人の時は『梨花』と呼び捨てにしている俺も、校内では極力素っ気ない態度をとるようにしていた。

 そもそもうちの部には男女交際禁止なんていう硬派な掟はない、のだけれど。どうにも気恥ずかしい気持ちが勝って、大っぴらに付き合うのには気が引けていた。なにせ俺は梨花が人生初の彼女で、当然ながら童貞なのだ。

 そんな俺なので、二人の関係はファーストキスから二ヶ月近くほとんど進展していなかった。手を繋いでデートしたり、図書館で一緒に受験勉強したり、合間にほんのたまにキスをするようなごく健全な男女交際。その中で何度か梨花の積極性オッケーサインを感じたことはあったけれど。

「先輩、聞いてます?」

「え、ああ、聞いてる」

 ぼんやり思い出を反芻していたところに急に上目遣いの梨花が視界にあらわれて、俺はドギマギと視線を逸らした。俺はいまだに梨花と面と向かうと、可愛いとか好きだとか抱き締めたいって気持ちがドッと湧いてきて、なにもできなくなってしまう時がある。いけない、いけない。

「で、なんだっけ?」

「聞いてないじゃないですかぁ。明日の朝練ですけど、ミーティングをするんで一時間早めに来いって監督が」

「マジで? きっついなあ」

 一時間早く、というと六時半集合だ。ってことは五時半起き? うぅんキツい、が、仕方ない。

 三年生にとっては夏の大会が最後ということもあって、いつも適当な監督は最近やたらと気合いが入っている。朝練なんて言い出したのも、入部以来初めてのことだ。まあ、本来の監督である体育教師は野球部の存在なんて忘れているんだけども。

 それでも森先生が頑張る理由は、次の夏が三年生だけでなく学校にとっても最後の試合になるかもしれないからだ。なにせ文武の武を軽んじる我が高だけあって、今年度の野球部新入部員はゼロ。俺達が引退した後の部員は江崎くんの一人きり、さすがにそれでは練習試合すら組めない。野球部一人に陸部の友達すけっとが八人では、それはただの陸上部だ。次の新入生の入り具合によっては、廃部の可能性が濃厚だ。

 最後の抵抗というわけじゃないけれど、俺も監督を見習って少しは気合いをいれないと。

「じゃ、他の人には私から伝えておきますから。絶対に遅刻しちゃ駄目ですからね」

「はいはい、それじゃ明日な」

「はぁい、また明日! 今夜は早く寝て、遅れないで下さいね!」

 梨花はさらに念を押すと、下校する生徒の波を逆流しながらパタパタと走っていった。女の子って本当にヘンな走り方するよな、可愛いけど。その姿を見送って、今日の火サスは録画にして早く寝ないとなぁなんて考えながら、俺は家路についた。


 ◆


 翌朝──約束通り、六時半ちょっと前の校庭に俺は立っていた。昨晩サッと降った雨がキラキラと木の葉を濡らすなか、俺以外の部員が誰一人いない。というか見渡す限りひとっこ一人いない。気配すらない。

「もう部室に集合してるんかなぁ?」

 独り言をつぶやきながら、仕方なく校舎裏の部室棟に向かう。まだ校舎の鍵は開いていないだろうし、部室の鍵を持っている部長か梨花がいないことにはどうしようもないんだけど……と、不安になりながらノブを回すと、いつも通りキィと音を立てて扉は開いた。

「あ、良かった開いてる」

 ほっとして中を覗く。すると薄暗い部室のまん中で、梨花が一人突っ立っていた。なんだかデジャブを感じる光景だ。

「なんだ、来てるの梨花だけ?」

「先輩、お、おはようございます!」

 見回しても誰かがいる気配はない。時間を間違ったかと腕時計を見ても、やっぱり六時半だ。

「もしかして昨日の雨で朝練中止とか? せっかく早起きしたのに損したな。つうか電気くらいつけようぜ」

 とりあえずロッカーベンチに重い鞄を置こうと部室に踏み行った瞬間、梨花は突然走り出し、俺のわきをすり抜けて、ほとんど体当たりでドアを閉めた。

「な、な、なに、どしたん?」

 さらに勢いよくこちらを向き直るやいなや、今度はいきなり頭を下げた。

「先輩、ごめんなさい!」

 いったいなにごとだ? なんか謝られるようなこと、されたか? 三回に一回はズリネタにしちゃってるとか、俺が謝らなきゃならないことは沢山あるけど。

「私、嘘ついちゃいました」

「は?」

 嘘? なにが? 誰に?

 わけがわからない。という俺の顔を見て察したのか、梨花は俯いて申し訳なさそうに付け足した。

「だから、ミーティングの話、あれ嘘なんです。本当の朝練はちゃんと七時半からで」

「え、そうなの」たしかにいくらなんでも早すぎる、とは思ってた。「でもなんで」

「なんでって……わかりませんか?」

 部室の端にあった視線がまた俺に戻って、これまでないってくらいにじっと見つめられる。一瞬だけ別れ話という考えが頭をよぎったけれど、すぐに打ち消した。こんな嘘をついた理由──もちろんわかるよね? とその大きな目が語ってる。

「え、えと、俺に……」息を呑む音がひびく。「会いたかったんか」

「うん」

 小さく頷いた梨花の頬は、暗い部室でも一目でわかる程ピンクに染まってる。多分俺の顔はそれ以上だ。

「それで?」

「えっ? そ、それで?」

 こんな早朝の、誰もいない学校で俺に会って、それで?

 集合時間が早まったなんて嘘をついて、部員も誰もいない部室に俺だけを呼び出して、それから?

 梨花はどんな答えを待ってるんだ? どんな答えを用意してんだ? ああ、俺の頭はピンク色のハテナマークだらけだ。

「それ、それから、俺とふた、二人きりで……」

 自分でも驚くほど声がかすれてる。

「二人きりで……?」

 俺の言葉を繰り返す梨花の声もかすれてる。眼差しが熱い。

 顔からは湯気が出そうだし、頭はグルグル、なのに身体は石のように動かないし、梅雨寒で肌寒いくらいなのにとめどなく汗は出るし。もうどうしようもない状態の俺に、梨花はこの上なく優しい笑顔で止めを刺した。

「二人きりで。こうしたかったの」

 梨花のちっちゃくてつやつやで可愛い顔が、そっと俺の胸に触れた。羽根が落ちるみたいに、そっと。

 あの日嗅いだ梨花の花の匂い、はじめてキスした日の梨花の温度が、何度も思い返した記憶そのままに現実となって蘇る。塗り固められたようだった全身から力が抜け、中途半端に肩にかかったままだった鞄が床に落ちた。

 その音が合図だったと思う。俺の唇は考える間もなく、梨花の唇に重ね合わされていた。


 閉じたまぶたの裏側に、告白の日の情景が鮮明に描かれる。あの、唇同士が触れるだけのファーストキス。

 別に今日キスしようとか、今ここでしようとか、意識していたわけじゃなかった。梨花が「ねえ、先輩?」と俺を振り返った、その笑顔が眩しくて、梨花のことが可愛くて可愛くて……瞬間的に梨花に触れたいと思ったんだ。

 あの時目にして、感じたこと。

 引き寄せた肩の細さ。ふわりと舞い上がって、うなじにこぼれる髪の毛。誰かが置いていったロッカーの上の漫画雑誌──サンデーだった。俺が腰を屈めて、梨花が背伸びした一瞬──ぴったり同時だった。

 近付けた顔の横をすり抜けていった空気の湿度、目の下に梨花の長いまつげがあたった感触、俺の身体にはどこにもないふわふわした唇の質感。甘い匂い。

 フィルムに焼きつけられたみたいにはっきりと思い出せる。それらみんな、全て、今また目の前にある──あ、雑誌だけはもう梨花に捨てられていたっけ。

 あのキスも告白も、はじめて梨花と出逢った時も。思えばみんな、この部室でのでき事だったんだ。


 しばらくは唇を重ねたまま、お互い微動だにしなかった。その間色んなことを考えたような気もする。

 受験のこと、佐田岡が言っていた新しいゲームソフトのこと、高校最後の試合のこと。いまさらになって、今朝ちゃんと歯を磨いたっけ? なんて少し焦ったりして。

 とりとめのない断片が同時に浮かんでは消えていって、結局最後は梨花のことだけになってしまう。


 そのうち緊張しきっていた唇から力が抜けていって、どちらからともなく舌を差し入れた。恐るおそる、暗闇の中を手探りするように舌を伸していくと、ふいに先端同士がぶつかりあった。

 途端に広がる小さなしびれ! この感覚を、皆はなんと言うんだろう?

 思わずひっこんだ梨花の舌を我慢できずにおいかけて、すくい取るようにしてからめる。ほんのかすかに、小刻みに震える濡れた舌。ぬくい。すっごく暖かい。人の温度って、こんなに気持ち良いものだったんだ。女の子の唇の柔らかさには驚いたけれど、その中の感触にはもっと驚かされた。湿ってて暖かくって柔らかで、とろけるような、って表現がぴったりだ。

 俺はもっとよく感じたくて、知りたくて、口と口を密着させるように顔をひねった。すると梨花は身をよじり、俺の肩に乗せていた両手に力を込めた。

「ごめん、痛かった?」

 思わず身を引くと、糸を引いた唾液が俺と梨花のまん中でパチンとはじける。ああ、そんなことにまでドキドキする。

「ちがう……なんか、びっくりしちゃって」

「え?」

 その顔はさっきよりも火照っていて、赤く潤んだ目尻が色っぽくて目眩がしそうだ。梨花は少しはにかむ素振りを見せてから、もたれるように俺の耳に口を寄せた。

「ねえ」

 キスで温もった吐息の湿度と、くすっという小さな笑い。その後で囁かれた言葉に、俺は完全に、オちた。

「キスって、気持ちいいね」

 ああ、梨花は何度俺にトドメを刺す気なんだ? あまりにも率直で、あまりにもその通り!

 気持ちいい!

 たったこれだけのことが、なんて気持ちがいいんだろう?

「梨花!」

 なにより梨花が同じ気持ちだったってことが嬉しくて、梨花をベンチに押し倒しもう一度唇を求めた。さっきよりもきつく抱き締め、深く口づける。舌同士がくっつきあって、一つになってしまいそう。

 それからはもう夢中だった。文字通り夢の中にいるような感覚で、俺は梨花を抱き、梨花は俺を抱いた。

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