第2話(2)
四月頭の惨敗から半月ほどが経ち、俺達は落ちたやる気を上げることもできないまま、後藤にいたってはほとんど将棋部部員と化していた。
野球をするには良い季節なのだが、その日は中間試験が近いこともあって、部室を覗いて誰もいなければ俺もさっさと帰ろうかと思っていた。もちろん帰っても試験勉強をする気はさらさらないが。
「うぃっす、誰か来てる──」
開け閉めする度にキィキィ音を立てるボロいドアを開け、部室に一歩踏み込んだところで足が止まる。
「──っと、吉川」
この頃は部員のたまり場に戻りつつあった部室に、ただ一人マネージャーの後ろ姿しか見えなかった。
「あっ、山田先輩。おはようございます」
ベンチに座り部誌をつけていた梨花が振り向いた瞬間、ふわっといい匂いが漂った。香水つけてんのか? それともシャンプー?
いつもは汗とグリスのむさ苦しさにまぎれて気づかなかった薔薇の香りに、一気に心拍数が上がる。かっと熱くなった手を隠すように後ろ手で扉を閉め、勢いよく閉まったドアに自分でびっくりする。情けない。でも、これで部室には俺と梨花の二人きりだ。いやっほう!
いや、いや、いや、二人きりだからって別になにもない、俺はなにも期待してない、してないぞ。
瞬時に浮かれ踊る心をなんとか落ちつかせ、何気ないふうを装って梨花に声をかけた。声が震えませんように、と祈りながら。
「あれぇ、吉川ひとり?」
できる限り自然な動作で、肩に掛けた鞄を置く。がらんとした部室のせいか思いのほか音が響いて、またビビる。くそっ、意識すんなバカ。
「さっき佐田岡先輩が来ましたけど、部屋を覗いただけでさっさと帰っちゃいましたよ。またドラゴンボールの再放送見るからって」
梨花はノートを閉じると、肩をすくめてさらりと言った。俺のほうが先輩なのに、雰囲気にのまれてしまいそうだ。意識するな意識するな。
「まじかよ、あいつやる気なさすぎ!」
と、ぼやきながらさりげなくベンチ横のパイプ椅子に腰掛ける。俺だって一人で練習する根性はないが……このチャンスに梨花に少しでも近づきたくて、他の部員達を待つという名目でそのまま部室に居座った。
とは言え、普段大勢で会話することはあっても、二人でじっくり話したことなど全くない。なにを話そう、天気のことかテレビドラマのことか、それともそれとも──ぐるぐると悩んでいるうちに一秒二秒と気まずい沈黙が流れ、頭がパンクしそうになった俺に、梨花から救いの手が降りてきた。
「そういえば、先輩はどうして野球部に入ろうと思ったんですか?」
ほっとして、なんとか呼吸を整える。
「ええっと、大した理由じゃないんだけど」
「いいですよ、聞かせて下さい」
小首をかしげにこにこする梨花は、やばいくらい可愛い。ホントやばい。長いまつ毛が蛍光灯の光に反射してキラキラしてる。このまま見つめられてたら勃つかもしんない。またも乱れ始める思考に、俺は慌てて顔を逸らした。
「ほんっとうにしょうもない理由なんだけど、笑うなよ。タッチだよ」
「タッチって、あの漫画の?」
「うん、そのタッチ。夏休みによく再放送のアニメやってるじゃん、なんだっけあの長髪の──」
「新田君?」
「そうそうそいつ、そいつを見て野球部のエースってモテて格好良いんだな〜って思って、それがきっかけで始めたんだけど」
一瞬の間をおいて、梨花の顔が崩れた。
「あっはははは!」
「わ、笑うなって言っただろ!」
あくまでも野球をはじめたキッカケなのに……。
「すみません、なんかおかしくって」
恥ずかしい。言うんじゃなかった。俺は火照る頬を見られたくなくて、そっぽを向いて拗ねたふりをした。今なら顔で茶がわかせそうだ。
それでもまだクスクス笑っている梨花に、俺は憮然と(しているふりを)して訊ねた。
「じゃ、吉川はなんで野球部のマネージャーになろうと思ったん?」
「え?」
逆に質問されて驚いたのか、梨花はピタと笑い止んだ。きょとんと目を見開く姿は、やっぱり可愛い。
「うぅん……兄がずっと少年野球をやってて、小さい頃からよく試合の応援に行ってたんです。それで興味があったから、かなあ」
「へえぇ。でもうちみたいな弱小じゃ、甲子園どころか練習試合すら勝てないしさあ。期待はずれじゃなかった?」
「そんなことはないですよ」
と、梨花は言っても、あの悔しげな顔を思い出すと胸の辺りがちくりと痛くなる。俺は慌てて、言い訳するように付け足した。
「まあ、去年の春なんて、試合日に先輩が来なくってその場で不戦敗になったしな」
「えぇ! それじゃ試合しているぶん今年はマシなんだ」
「そうそう、そういやそん時ごっつんもサボってたわ。自分達も来なかったくせに先輩からボコボコにされてた」
「ええ、去年の三年生超怖いですね。引退した後でよかったあ。ていうか後藤先輩、ヤバ!」
「あいつサボリ魔すぎるよな。こないだも部活来ないで将棋部で将棋さしてたし」
目を細めてコロコロ笑う梨花。あぁ楽しいな。
「はぁ笑った……。でもやっぱり、試合に勝てなくても楽しいですよ。みんな優しいし。あ、あと家にタッチが全巻あったし!」
話題を蒸し返されて、俺は怒るどころか嬉しくなった。相手も気をつかって盛り上げてくれてるんだな、と思って。
「じゃ、吉川は南ちゃんな」
「南ちゃん! さっそく明日レモンのはちみつ漬けでも差し入れしないと。それじゃあ、先輩はかっちゃん?」
「死んじゃうじゃんか!」
「あ、そうか、じゃあたっちゃんで」
「新田にしてよ新田に」
「でも新田くんは南ちゃんにフられちゃうんですよぉ。だからたっちゃん」
「でも、たっ──」と、ここまで言った時、ふと会話が止まった。
梨花が南で、俺が達也。
新田は南にフられるから、俺はたっちゃん。
上杉達也は、浅倉南を愛しています。
見下ろした視線と見上げた視線がぶつかる。息を飲む音はどっちのものだ?
バカ、こんな軽口に深い意味なんてない。だから意識するな。バカバカ。赤くなんな。会話止めんな。
俺が馬鹿な妄想でパニックを起こしかけた時、唐突に梨花が真剣な目をした。そして、言った。
「私、先輩のことが好きです! つきあって下さい!」
呼吸が止まって一秒、二秒……なんて言った? いまなんてった?
『私、先輩のことが好きです』
嘘だろっ? 俺も好き!
いや騙されるな、浮かれるな! こんな幸せ、本当に信じていいのか? なんで俺なんだ、エースだからか? いやエースったってうちの野球部だぞ? 鋤じゃなくてスキーじゃなくて本当に好きか? 部員の仕掛けたドッキリじゃないか? 窓の外で佐田岡達が息を潜めてるんじゃないか? ウンなんて言ったらロッカーからプラカード片手にラクダが飛び出してくるんじゃないか?
けれど……うつむいた梨花の真っ赤な耳を見たら、そんな馬鹿げた疑心はふっとんでいった。梨花はきっと、勇気を出して告白してくれたんだ。真剣に応えなくちゃ駄目だ。俺も男だ。
俺は決心し、口にたまっていた唾を飲み込んだ。そして、こたえた。
「俺も……好きです」
なぜか敬語。顔が熱い。指先がぷるぷるする。
でも梨花はもう笑わなかった。あれだけ悔しがっていた初戦敗退の時にも見せなかった涙が、顔を上げた梨花の大きな瞳からひとすじ零れ落ちる。
「ほんとに……?」
潤んだ梨花の目を見つめ返す。視線をそらさないように。
「俺もはじめてここで会った時から、吉川のことが好きでした」
陽が落ち始め、部室の窓から覗く鉄塔が黒塗りになるころになっても、俺達は他愛もない会話で二人の時間を過ごした。それは告白の余韻に浸るような、この上なく満ち足りた時間だった。
帰りたくない。この時が永遠に続けば良い。それでももう帰らねばならないと悟った時、俺と梨花はこの瞬間を味わうように、どちらからともなくキスをした。
はじめてのキス──心の中ではタッチのテーマソングがリピートしていた。
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