10:木曜日 その2
サナの小さなジャンプ:バスとバス停の間の小さな隙間を飛び越える。
背後でドアの締まる音/電動バスが滑るように発進/魔導セルから流れ出すほのかなマナを感じて肌がピリピリする。
日常/慣れた日常/退屈な日常=数ヶ月前までは何もかも知らなかったことばかりだった/今ではすっかり普通の日常だった。
幹線道路のバス停から自宅まで=500m/堤防沿いの道を歩く。
右側=5年前の魔導災害──知らなかったこと──で更地になったまま/コンクリートの丈夫な基礎が残っている/たぶん大きな建物があった。
左側=利根川と河川敷、そしてその向こうがかつての東京──知らなかったこと──そして東京潰瘍/真っ黒い巨大なドーム/白い円柱が周囲を囲んでいる。お兄さんが働いている常磐興業──知っているもの──もちょっと見えた。
「お兄さん、今日も帰ってくるのが遅いのかな」
しかも普通じゃない。いつもは常磐興業のエンブレムマーク付きのマウンテンパーカーなのに、今週はスーツ/うす青色のシャツと紺色のスーツ=大人らしさ/かっこいい。
仕事=わからない。朝も夜もゆっくり話す時間がない=寂しい。
サナはリュックサックの奥から“魔法の”杖を出す/右手で握る/左手で撫でてみる。
人前で大っぴらに魔導を行使してはいけない=お兄さんの教え。
「あーあ、最近、お兄さんと魔導の練習できてないな」
誰にも聞かせたくない独り言=だだっ広い旧東京の荒野の風が吹き飛ばしてくれる。
「あ、それって恋だよ」=ツカサちゃんのふわふわボイスを思い出す。
「サナも大人の恋ってのをわかってきたんだな」=ルイちゃんのうきうきボイスを思い出す。
───「そんなのわかりません」=ぴしゃり/サナの返事。
恋心───知っていること───じゃないと思う/好きとか思ってないし。
この気持ち=信用/信頼/信任=国語の授業で習った類義語というやつ。
この気持ち=共存/依存/共栄=これはちょっと違う/私がお兄さんに一方的に頼っているから。
だから恋心/恋愛/愛慕=どれも違う。
“寝ぼけた顔とぼさぼさ頭でも気負わず話せる優しい人”=正解。
「夫婦じゃん!」ツカサ&ルイのドキドキボイスを思い出す/耳年増な中学生。
そうじゃない=ツカサ&ルイとの別れ際のサナの反論/一緒に暮らす&助け合うパートナーだ。
そう、好きな人じゃない=好きな人は別にいた?=チクリ/心に棘が刺さっている。
記憶に幕が降りている/思い出させてくれない=誰が?/たぶん過去の自分。
無くなってしまった記憶に未練はない/チクリ=心の棘だけが過去の自分の存在を証明している。
「やほ、サナ」
モモ=キリッとした目つきと気丈な挨拶/子供っぽいMagical★Girlsのロゴ入りTシャツ=子供と大人のアイデンティティの共存/精一杯背伸びをした女の子=お兄さんにとても愛されている。家の門柱の前で鉢合わせてしまった。
「どしたの? 下校が早いじゃん。中学生は部活とかあるんじゃないの?」矢継ぎ早の質問=どうしてモモはこんなに噛みついてくるのか。
「帰宅部です」
「キタク? なにそれ」
「うちの学校は部活の加入は自由なの。それに、マナに感応力があると入れない部活も多いのよ」
魔導=マナへの感能力/便利な分 不便もある=運動部/魔導で体力を補強できるので加入禁止。芸術系/素質なし。その他/興味なし。
「よくわかんないけど。わたしはそんなの気にしないし」
モモは“黄”クラスの魔導士だ。たぶん普通の子と同じように部活ができる。もっと上位の橙や、お兄さんと私みたいな“白”クラスの魔導士は制約が多い。
「帰宅部でいいの。お兄さん、最近疲れているみたいだし。私が家事をぜーんぶしてあげるんだから」
「あら、中学生のお姉さんは無理しなくていいのに。お勉強があるんでしょ。わたし、5年間ずっとニシ兄ぃと一緒にやってきて家事はお手の物なの。わたしに任せればいいの」
ぐぅの音も出ない=当て付け/掃除機の使い方を知らなかったことをまだダシに使われている。
気にしない=大人として。
サナは一歩前へ/モモも一歩前へ。
同時に駆け出した/門柱から玄関までは20mほど/魔導の訓練のせいで焦げ&穴ぼこだらけの庭を横切る。
不意にマナの奔流を感じた。
「アニラ、バサラ! お願い」
モモの短い魔導の詠唱/サナのつま先が地面を離れた。
「え、え、ちょっと、何してんの!」
足先が空を切る/プールの授業を思い出す=まるで空中で溺れているかのよう。
サナの眼前で、モモはゆうゆうと玄関をくぐった/丁寧に手で玄関をぴしゃりと閉める。
「何がどうなってんのよ」
見上げた/2枚の式神が体を空中へ持ち上げている/頭の部分にマジックで「A」と「B」とやや雑に書かれている。
モモの魔導=モモの世界認識/代理行為とすることで魔導を行使できる/式神を駒として多彩に振る舞える=憧れてしまう魔導。
「くそぅ。ちょ、モモ! 下ろしなさいよ!」
効果=無し。声をかき消すように家の中で掃除機が唸っている=仕事をひとつ取られた。
リュックサックの中=“魔法の”杖がしまってある/サナの魔導の発動キー。
もぞもぞ。空中でぶら下がっているせいでうまく背中に手を回せない。
ぼとり。
リュックサックが足元に落ちる/手を伸ばしてみても溺れるようにジタバタするだけ/モモが次の仕事=洗濯に取り掛かる前に罠から抜け出せないと。
手を伸ばす/届かない=もちろんわかっている。
念動力=単純な魔導なら発動キーは不要。
「こい! お願い、とどいて」
マナの奔流=体の中心からじんじん熱くなる。
リュックサックの留具が弾ける/杖が飛び出る/サナの手にすっぽりと収まった。
「ふぁ、ふぁいあ!」
すかさず杖を振る/魔導の詠唱。
燃え上がる2枚の式神/途端に地面へ落下した。
痛───くない。膝をしこたまぶつけたが擦りむいていない=
便利なこと=“タンスの角に小指をぶつける”ということがない。むしろタンスを破壊してしまう。
不便なこと=体育のクラスではどれだけ気をつけていても片手でスリーポイントシュートを決めてしまうこと=魔法使いは“ズル”するという周囲の評価。
サナがうずくまっていると目の前で玄関がガラガラと開いた=モモが仁王立ちで睥睨している/一段高くなった玄関の上=さながら勝者。
「あーひどいなぁ。燃やさなくったっていいのに」
モモの背後で別の式神が器用に掃除機をかけている。
「ひどいのはそっちでしょ。私を魔導で釣り上げなくったっていいでしょ。お兄さんだってイタズラで魔導を使っちゃダメだって何度も言っているよね」
「大人ぶらないで! ニシ兄ぃのことを何も知らないくせに」
どうしよう/頭が熱くなった=魔導を使うときつの暖かさとは違う/血が沸騰するような怒り。
「わたしは5年間、ずっとニシ兄ぃと一緒だったの!」モモが声を張り上げた。「辛いときも一緒だったし、嬉しいときも一緒に笑ってくれたの。わたしはニシ兄ぃのことが好きだしニシ兄ぃだってわたしのこと、好きに決まってるんだから。それなのに、急に来たあんたがぜーんぶ奪っていった」
どうして/モモの言葉が理解できない=返す言葉を探そうにも、中途半端な姿勢のまま口がぱくぱく動くだけだった。
「ニシ兄ぃはわたしのものなの。だから、もし余計なことをしたらただじゃおかないんだから!」
ピシャリ。モモは手を使わないで魔導でふたりの間の玄関を閉めた。
旧東京の平野を駆ける風/ゴウゴウと掃除機と洗濯機の生活音が聞こえる。
サナは膝立ちのまま移動した/マナのお陰でちっとも痛くない。
玄関の横の壁に背中を預ける/膝を抱えてうずくまる。
「ぞっとしないなぁ」
こんな気持ちが以前にあったかもしれない/記憶の残像が見えるのに手が届かない。思い出したくないと思うほどひどいことが起きていた=過去の自分。
潰瘍と魔導災害からの5年間の地獄=子どもたち──モモも含めて──の言動を見ていてわかる。他の大人も子供も魔導災害のことはなるべく口にしない/話題を避けている。
一方のサナ=空っぽの少女。
潰瘍も魔導災害も知らなかったこと。きっと自分の過去だってそうだ。思い出して楽しいことばかりじゃない/だから未来を見ていた──過去は捨てたはずだったのに。
「ぞっとしないなぁ」
知っている。誰かの声/誰かの口癖だった。思い出そうとしても思い出せない=その幻影/心に灯る光=恋心だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます