9:木曜日 その1
カナは自分の10年分の給料と同じぐらい高価な検査機器を、ラボの隅から定位置へ押して移動させる。
その手=マニキュアが剥がれかかっている/見せるべき相手は来週まで別の仕事で不在/そのせいでネイルの手入れを怠っていた/どのみち褒めてくれたことはないけれど。
長い爪と
あーあムカつく/自分の年収と同じくらい高価な機械化義肢の感覚器調整器を放り投げたくなる/ちょうど壁によく刺さりそうな形をしている。
わかっている=リンの真意「ニシを手中に収めるのはあたしなんだから」という牽制。
たぶん、私に
たとえば=真っ先に思い当たる/ちびっこ隊長。
最近 ふたりは妙に仲がいい。ちびっこ隊長が積極的なのは前から。たぶん、2年前にニシが常磐で働き始めてからずっとだ/むしろ心配なのはここ数ヶ月の間、ニシから話しかけているとうこと。
常磐で最強の保安隊隊長&関東エリアで最強の魔導士/会話くらいするよね、普通。
彩られた爪先で焦げ茶色に染めた髪先にふれる=以前の私じゃありえないほどのおしゃれ/頑張って背伸びをしても普通の人と同じスタートラインには立てない。
「わかっているもん。そんなことくらい」
人間じゃないんだから、人並みの幸せなんて手に入れる資格はない=子供の時からの
先月、ニシの預かっている子どもたちと海へ行ったとき、私の魔導を見てみんなキラキラした目で見てくれた/褒めてくれた。
でも本当は惨めなんだ。
「やっほー。来たよー」
躊躇なく開け放たれたドア───その入口に登場したちびっこ隊長=リン。
「時間どおりね」顔をしかめる/取り繕う。あんな顔をライバルには見せたくない。
「5分前行動は社会人としての基礎だからねー」
「いちいち言ってくれなくてもわかっているから」
「ふーん、そう。新人時代のでこちゃん、大変だったからねえ。コピー機の操作が分かんなくて泣きそうな顔になっていた」
見られてた/覚えられていた。
「そんなどうでもいいことなんて覚えてなくていいから」
「新人のかわいーい女の子が
ライバル───ぐっと堪える。
「昔話は興味ないから」無理にでも切り上げないと過去の失敗をいちいち挙げられそう。「服を脱いで診察台に乗って」
「全裸?」
「下半身だけでいいわよ、パンツは脱がなくてもいいから、いつも通り。はいこれ、タオル」
しかしリンは渡されたタオルとカナを交互に見比べた。
「女同士、別に見られたってなんとも思わないんだけど。腰から下は作り物だしさ」
リン=小言を言いながらもさっと社支給の作業着兼戦闘服のズボンを脱ぎ捨てると、ブランド物のパンティーを見せつけるかのように診察台に乗った/ライトに照らされるCalvin Kleinの横文字/仰向けになって天井を見上げる。
代理感覚/半年ほど前に読んだ論文=機械化義肢は完熟操作に時間がかかる上に幻肢痛を併発しやすい/それを防ぐには「機械の手足を操作している」という代理感覚が必須/リンにはその素質がある=たぶん
勉強のことをなるべく考えるようにする=知識は人を裏切らない。
カナは、リンが弄んでいたタオルを奪う/ふわりとリンの顔にかけた/常磐興業のエンブレム付き=「社会に光をもたらします」。
「今から義体を確認するけどタオルを取らないでね」
「あたし、怖くないんだけど」
「義肢に配線をつなぐ。そういうのを見たら幻肢痛を発症しやすって報告があるの。ほら、足を広げて。膝をもう少し広く」
小さな機械の膝をペシペシ叩く/体温もあるし静脈も見えるようにシリコン皮膚の内側が着彩されている。
何度もこの義肢には触れてきた/今年の魔導工学の大学院の研究テーマ。
尻と太腿の隙間を指でなぞり、シリコン皮膚の蓋を開けた。
「もー触り方がエッチだぞ、でこちゃん」
「あいにく、女のデカ尻に興味はないわ」
「ふふん、シリコンの偽物だしね」
まったく、笑っていいかどうか迷う冗談ばかりだ。
「今から感覚器を切るわ」カナは作業台の上からマイナスドライバーを手に取った。「3つ数えたら───」
「背中がしびれる、でしょ。わかってるっての」
1、2、3。マイナスドライバーでスイッチを長押しする/リンは何も言わない。やはり足を失う感覚は彼女なりに思うところがあるのだろう。
「あたしが何も感じないからって変なところ、さわらないでね、でこちゃん」
そうでもないらしい。
カナはUSB-Dの正方形の端子をハムストリングスの間のソケットに挿した/もう一方の診断機のキーを操作/データ受信開始。
これまでの歩行データ/重心パターンを集積/誤差を修正=しばらくは機械に任せてこのまま放置。暇だから論文でも読もうか。
「ねぇ、
タオルの下から不気味なくらい丁寧/低くて静かな声。
「あらたまって。どうしたの?」
「もっと義肢、義体って増やせないのかな。腕とか骨格全部とか」
カナの嘆息=まあ無理だろう/技術的:グレー、倫理的:アウト、医学的には多分無理/本人もわかっている。
「私の研究は健康な体を切り取って機械化するのは目的じゃないのよ。常磐が無償で高価な義肢とメンテナンスを提供するのはあくまで医療目的。実験とデータ収集よ。その様子じゃついでに胸も大きくしろ、なんていいかねないわね」
「アハハっ、長い乳なんて動くときの邪魔にしかならないよ」
リン=根っからの
「ねえ、命の重さって知ってる?」唐突=タオルの下でリンが言った。
「何よ急に。哲学? それとも医療倫理?」
「それで、でこちゃんは知ってるの?」
「命、というかそれを言うなら魂の重さになるのだけれど、有名な話があるわ。今のような倫理規程ができる前、魂の重さを量ろうとした科学者がいたの。臨終の患者の体重を正確に測って。水分なんかも考慮してね。すると21gだけ死後のほうが軽くなったの。まあ、都市伝説みたいなものだけど」
「答えはね、7.5g」
「で、その数字の
カナ=あくまで
「9mm
カナ=困惑/細い眉が釣り上がる。魔導士は銃弾程度では死ねないせいでジョークの面白さがわからない。
「ナンセンスね。銃弾の破壊エネルギーは弾頭の口径だけじゃないわ。運動エネルギー、重量、至近距離なら熱エネルギー、軟標的と弾頭の炸裂も考慮した破壊エネルギー。その計算式は───」
「堅いなーでこちゃん。堅い堅い堅すぎる石頭おじょーさまね。そんなんだから彼氏ができないんだゾ」
違う。リンはいけ好かないやつだけど、わざと言ったわけじゃない。
「余計なお世話よ。で、どうして全身義体が欲しいわけ。まるでSF映画ね」話題を戻す───これ以上深掘されたくない。「確かにこの前のサイエンス誌では有望視されている技術だけど、まず解決しなきゃいけないのは倫理規定のほうね。人間版テセウスの船、よ」
「いい女たるもの、好きな男を守りたいでしょ」好きな男───またドキリとさせられ
る。「でこちゃんだって、好きな男を守りたいでしょ」
「別に。私のほうが強いし。守るだなんて訳ないんだから」
精一杯の
カナ───指が艶やかに舞い、マナが軽やかに流れ出す/魔導の
検査台に置かれたセンサーを念動力で浮遊させると、リンの義肢に押し当て触覚/痛覚/温度感覚を測る:どれも正常値。
「で、海はどうだったの?」
唐突な
「別に、なんともないわよ。話して、子どもたちと遊んでお昼を食べて」
そして珍妙な魔導生物と戦った。あれはあれで楽しかった。
「でこちゃん、ずうっとニシと一緒にいるから聞けなかったのだけど───」
ずっといっしょにいるのはリンのほうだろうに。
「───水着を見せただけってこと? うわーまじありえない」
「意味がわからないんですけど」
「うっかり
「淫乱なオチビさんと一緒にしないでほしいわね」
ムカつく。乳の長さは無意味だったんじゃないのか。
しかし/一瞥。カナはスラリとしたリンの体を見た/服の隙間から見えるシックスパック/固そうでいてしなやかな体躯/まさに都会の
細くも力強い足回り/生身だった頃を参考にして作られている/美しいまでの骨格&肉付き。
逡巡=やっぱり男の子ってこういう体のほうが好きなのかな。
魔導士の体=やや特殊/マナが常時ダダ漏れな
「ニシとは
「好きなんでしょ、ニシのこと」
「
「そうよねー。確かに。ニシは優柔不断、八方美人、誰にでも優しくて誰からも慕われるけどその実、本心が見えない。したいとかしたくないとか誰にも本性を見せない」
「そんなこと無いんだから!」
しまった/つい声に力がこもってしまった/かき消すように乱雑に検査道具を検査台にしまう。リンの義肢の情報解析はあと数%で終わる。
「ふふーん。やっぱり」
「何よ」
「でこちゃん、ばーじんでしょ」
「そんなわけないでしょ。やりまくりよ」
「いいのよ。ばーじんは希少価値なんだから」
タオルの下=絶対ニタニタ笑っている。まったく中学生みたいな体型して中学生な耳年増=リンはアラサーだから分相応ではあるが。その調子のままリンは、
「ちんちくりんな幼児体型のくせに恋愛を語るな、って思ったでしょ? あまいなー体で釣れる男なんて雑魚よ、雑魚。かえってこのほうがいいの。でこちゃん、やっぱりばーじんじゃん」
「さっきからずぅっと思わせぶりなことばかり言って。おちびちゃんだってニシのこと好きなんでしょ」
「ええ、そうよ」リンの即答。
どきりとした/他人から他人への告白。リンのいい加減だった物言いが急変した。
「だったらとっとと告白しちゃえばいいじゃない」
「だめだなーでこちゃん。いい女たるもの男にこそ告白
気づいたら、リンにじっと見られていた/腹筋だけで上半身を起こして微動だにしない/軍人らしい強靭な体幹。
「ええ、そうね。あなたの言う通りよ」
カナはリンを見ることができなかった。今何を言ってもその本心を見抜かれそうだった。
「わかった。デコちゃんは男慣れしてないんだ。触ったことないでしょ、男の人」
「あるわよ、もちろん」あるわけない。
「あたしが一肌脱ごう」リンは聞く耳を持たなかった。「今度、合コンに来てよ。総務の林ちゃんも彼氏募集中だったし。女の
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