47210525(ブノワ邦訳、思想の歴史とか)

『第四の文学』最新の更新で、文乃綴がアランドブノワの反普遍主義を紹介している。

 ブノワは普遍主義的な思潮に共通の特徴として、抽象的な立脚点をまず定めて、そこから実在する特殊な物事に規定を与えようとする、その恣意性を挙げる。当為を定めて、そこから存在へ向かう。そこには存在する物事の一々を観察しようとする客観性に向かう意志ではなく、己の意識に打ち込まれた(=「意識に内在する」という初期近代的な意味におけるsubjectiveな)楔を中心として、そこから事物の規定を与えようとする主観性から出発する意志がある。邦訳されたブノワの引用に曰く、「それは主観性の形而上学による倒錯した体系の誤りを象徴するものである」。

 文乃はこれに続けて、所謂進歩的知識人の国際的な連帯を普遍主義という特定の思潮に対する帰属に基づいて連帯した一種の帰属主義=ナショナリズムであると打ち出して、その中で次のように言う。


>これはいわゆるポストモダン哲学にも同一のことが言え、ポストモダン哲学とは実態としては進歩主義を内包した集団が進歩目標を失った(いわゆる”大きな物語”)が故にその状況にアプローチをかけるというのが主題にある。しかしこれは前提として進歩主義があり、進歩主義的アプローチが困難になったという前提を共有する集団にとっての哲学である。ということは、ポストモダン哲学という枠組みそれ自体にコミットメントするということは、進歩主義的世界観その枠組みに参加することそれ自体を指すということになる。


 所謂ポストモダン哲学はサルトルに代表される近代的進歩主義など(「大きな物語」)を否定する思潮だったはずなのだが、それが喧伝され受容される段階で「実存主義はもう古い、これからは(ポスト)構造主義」という、あからさまに進歩を前提とした意識が共有されるというパラドクスがある……と『構造主義とは何か』の平凡社ライブラリー版解説で内田樹が既に指摘している。

(内田に指摘される事柄はポストモダン哲学が内包する進歩主義的前提という文乃の論旨とはいささかずれているが、)

 これ(内田の指摘)は、レヴィ=ストロースに先行する書斎人類学者レヴィ=ブリュールが、諸民族の心性を単線的な進歩の諸段階として叙述する以外の視座を求めたにもかかわらず、「未開人les homme primitifs」の心性を「前論理的pre-logique」と命名したために、時間的な前後とそれによる進歩を含意しているとしてレヴィ=ストロースの批判を受けたことに類比的である。19世紀のあからさまに進歩主義的でショーヴィニストな人類学の視座を転換して、複数の心性が異様に成熟することをレヴィ=ブリュールは語ろうとしたのだったが、彼の用いる言葉は彼が哲学史家として訓練を受けた19世紀のパラダイムに深く浸透されていたため、「未開人」の独自の心性を名付けようとしたとき、否応なしに19世紀のショーヴィニスト・プログレッシビズムに影響されてしまった。その影響から人類学が遂に脱出するには、半世紀以上後のレヴィ=ストロースを待たねばならなかった。

 そして不幸にも、そのレヴィ=ストロースを巨星のひとつとする構造主義を受容する際にもまた、同時代の(そして現在に至る未来の)人々は、彼らが非難しようと欲したサルトルに代表される普遍主義・進歩主義の影響を深く被った言葉の体系の中で語るために、構造主義以来の反普遍主義の思潮の思惑と夢を裏切っている。

 ……するとどういうことになるのか。実のところ、「ポストモダニスト」はその身ぶりにおいて「進歩主義的」でないこともできる。1980年代以降「他者の倫理」のキャッチフレーズの下に注目を浴びたリトアニア出身のフランス語哲学者であるエマニュエルレヴィナスの所説は、他者=他人という鍵概念を徹底して個人的な意識の経験の内部に置き、意識に先立つ抽象的規定を削ぎ落すよう努めた。少なくとも1960年代初頭に公刊された『全体性と無限』についてはそうだった(残念ながら(?)この傾向は継続されず、1970年代の『存在の彼方へ』では自我を身代わりとして叙述する独自の独断論が語られている)。レヴィナスは(ポスト)構造主義の言語哲学的潮流には必ずしも帯同しなかったとはいえ、あるアプリオリな理念を前提として、そこから他者認識と他者への倫理的実践を決定しようとするような「進歩主義」、ブノワの言う「普遍主義」と同様の思考の傾向から離れている。

(ただし、再反論として、「そうはいってもレヴィナスのそうした思考は、かつて広く信じられた進歩主義の失効という同時代状況を共有した上で遂行されているのだから、レヴィナスの事例を挙げることはブノワ=文乃の言う如く「ポストモダンが内包する前提としての進歩主義」のテーゼの論駁にはなりえない」というものが考えられる。この点は確かに認められる。一群の(ポスト)構造主義者はそのパラダイムの内部では諸思潮の併存を主張する一方、己に対して過去の思潮を低める。そこには態度の上での矛盾がある(筆者の主張)のと同時に、過去の思潮を己の思考の前提として、過去から現在、未来への流れに己を置いている(ブノワ=文乃?)点で、構造主義は進歩主義の係累である。)

 筆者は「進歩主義」がその包括的装いの名に反して排他的な攻撃性を見せるというふるまいの上での矛盾を克服することを望む。レヴィ=ブリュールに対してレヴィ=ストロースが改めて表明したような異様の心性や思考の平和的共存を眺めて過ごしたいと願っている。あるいは加藤典洋が引用したある詩句の如く「悪から善を作る」――それ以外に方法がないために――ことも可能かもしれぬ。そのためには、21世紀の人間は、ラテン世界の哲学史を唯一の哲学史として受容することをやめ、いわゆる東ローマ帝国のギリシア世界哲学史や、知恵の館バイト=ル=ヒクマに翻訳され広範な受容を得た(ギリシア=)アラビア世界哲学史を、ピロソピアーの複数の歴史の一々として己のものにする必要がある。そして日本語を読み、書き、話す筆者や読者は、日本語・漢字世界の思想の歴史を摂取する必要がある。

 ギリシア=ヘラスは古代世界の辺境に位置する日の没する地であり、ラテン語世界はギリシア語を一度たりとも公用の言語として持たなかった語の玄義における聾啞蛮土ガイア・バルバリアであり、日本列島は西方極楽浄土から遠く隔たった粟散辺土である。自身を知るにはあまりに愚かであるがゆえの倨傲、夜郎自大が、人をして普遍を名乗らしめる。その倨傲を撃つ。

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