坊主と袈裟について, seu de creatorem et creatum

 オタクによる個人崇拝めいた言辞をひどく嫌っている。

 シン・仮面ライダーに関するあれこれで庵野秀明という固有名詞に言及したり、『チェンソーマン』最新話の展開を見て「タツキ、シン・仮面ライダー観た!?!?!?!?」などとツイートしたりする、そういう連中をひどく嫌っている。


>オタクの個人崇拝めいた挙動(ex. 「タツキ、シン・仮面ライダー観た⁉️」「庵野❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️」)が嫌いなの、要するに自分は袈裟を拝みたいので坊主は限りなく無に近付いてほしいという欲望なんよな。


 こういうツイートをした。

 坊主と袈裟という例は、芦花公園の2023年5月6日のツイートに由来している。


>フェ……の作家の人に引用説教され、放置してたらフェ……一般人からもガンガン説教が飛んできたので作家ごとブロックしたことはある、作品は嫌いではないが本体はマジで嫌い、袈裟が美しいクソ坊主


「袈裟が美しいクソ坊主」の文句は、当然ながら「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の慣用句に由来して、芦花公園はここである立場にコミットする作家の人格(坊主)とその所産である作品(袈裟)とを分離して、双方を別々に評価している。

 上の自分の投稿に、アーキテクト氏は「美しい袈裟、透明な坊主」とツイートし、芦花公園も両者をリツイートして「原色の坊主でゴメン……」と投稿した。

 それを見て振り返ってみると、自分は庵野秀明や藤本タツキを固有名詞的に扱って礼賛するオタクの挙動は憎んでいても、芦花公園のふだんの挙動を憎んでいるわけではない、ということに気付く。

 すると、自分は上のツイートでどのようなことを言おうとしていたのか。

 初めのツイートを見ると、前半は「オタクの個人崇拝めいた挙動」すなわち読者のふるまいに対する意見、後半は「袈裟を拝みたいので坊主は限りなく無に近付いてほしい」という作者のふるまいに対する意見という、二つの異なるものから成っている。そのために、ツイート全体での趣旨が曖昧なものとなっている。

 自分は前者に対する嫌悪を強く持つ、すなわち読者の反応の中に作者を無暗に言挙げするものを感じ取ると、これを強く嫌悪する。

 ひるがえって作者のふるまいについて言えば、『ほねがらみ』以来続々とホラー小説を上梓する芦花公園がツイッターでどのような態度をとっていようと、坊主がどうあろうと、あまり関心はない。マーガレット・アトウッドやナオミ・オルダ―マンといったシスターフッド的フェミニズムを強く打ち出す人物の小説だろうと、ディストピア・フィクションの一例として読むことができる。その上で袈裟の造作の巧拙について言うことがあるとしても、それはまた別の話である。とりあえず袈裟は拝ませてもらう。

 坊主は拝まない。人格は崇拝せず崇敬しない。

 死者だけが、死者の作品だけが、驚愕と尊敬に値するほどに美しい。なぜならそれらは生きている人間が持っていた権威とは全く無関係に鑑賞され、権威による称賛を離れて時の流れに浸食されつづけたうえで、なおも読者の胸を打つからである。あるいは作者とは隠者のようであるべきであって、時代を代表するかのような社会に対する人格的参与は慎まなければならない。少なくとも社会に対する人格的参与と作品の製作は別の人格を用意して行うべきである。以上のように私は信じている。

 したがって私は読者の挙動を憎むのであって作者の挙動を憎むのではない。作者の所産である作品を最も美しく鑑賞するために、作品を構成要素へと解体してその配置を分析する、それを妨害する固有名詞の言挙げを私は憎む。


 なぜ個人名を言挙げするような読者の語り口を私は嫌悪するのか。

 作品は多くの要素から成る。一つの作品には数多くの要素が配置される。要素の多くは他から借り受けられている。あるいは作者がはっきりと記憶していなくてもどこかで見たことがあるかもしれず、また小説であれば芦花公園も王谷晶も大江健三郎も同じ日本語という言語を用いているからには、日本語という舞台を借りていると言える。『エクリチュールの零度』冒頭でホラン・バハトは言語をその性質ごとにいくつかのグループに分類しているが、ともかく作者は作品を無から創造するわけではない。creatores humani non ex nihilo creatum creant. 精神の所産と呼ばれる作品は、しかし実在するからには現実的な諸要素の集合体として実存する。したがって作品の分析は、作者の固有名詞、その特異なものに着目するのではなく。作品を構成する諸要素の分析によってこそ、よりよくなされる。

『チェンソーマン』129話では、アサをとチェンソーマン=デンジを狙う地獄の悪魔から逃げるために、ふたりは通行人から奪ったバイクに二人乗りで逃走しようとする。しかしデンジはバイクの運転方法がわからない。アサは後ろから座席に乗るデンジにつかまった状態で戦争の悪魔の力を行使するべく叫ぶ――「スーパーチェンソーマンバイク!」――バイクは赤く染まり、車輪をまっぷたつにするかたちで巨大なチェンソーが生え、地獄の悪魔の攻撃を両断して突っ走る。

 これを見たツイッターのオタクは、例えば次のような反応を示している。


>タツキがシン・仮面ライダーを見た結果がスーパーチェンソーマンバイクなんだろうなって


>タツキ!! シン・仮面ライダー見た!?

 (爆笑してる)


「タツキ、シン・仮面ライダー観た⁉️」だの何だのとはしゃぐのではなくて、プラーナの形で同居する本郷と一文字のツーリングという閉幕の構図を強奪バイクの逃走劇に差し替え、なおかつ戦争の悪魔の力とチェンソーの意匠による改造を加える、その付加と改変に着目せざるべからず、という話をしたい。例えば自分の次のようなツイート……


>おたくが言いたいことはわかりましたよ、しかしおたくは藤本タツキによる改造、チェンソーの意匠の付加による…サイクロン号に類似するとしても、それ以上の…異形の二輪機関、それに"チェンソーマン"デンジと戦争の悪魔の力を持つアサがタンデムするというスペクタクルを見逃している。


>ダブルライダーでは絶対にできないタンデムチェンソーを見ろ


『シン・仮面ライダー』において「仮面ライダー」とは、おおよそ「バイク乗りの改造人間」を意味する自称であって、本郷も2号こと一文字もそれぞれ自分のバイクを持っていた。したがってダブルライダーは決して同じ一つのバイクにタンデムすることがない。

 129話を見れば明らかなようにデンジは免許はおろかバイク運転の習慣さえない。事情はおそらくアサも同様だろう、彼女は戦争の悪魔の力でバイクを支配下に置くことでかろうじてその制御を可能としている。語の玄義において、ふたりは決して本郷や一文字のようなライダーではない。タンデムするふたりは、オーグメントとも異なる異形の力を振るうことでその機械仕掛けを動かす。その結果として、決して動くとは思われないような改造を施された怪物的機械を駆るふたりの悪魔人間というスペクタクルが展開する。このスペクタクルに129話の面白さは集中している。

 固有名詞をつぶやく燥ぎは『動物農場』の羊に象徴される無知のわざである。無知のわざは悪を増殖させる。私はこれを憎む。

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