『禁色』他を読むためのノート
九内悠水子「三島由紀夫「禁色」論 ―記紀への遡及―」『広島女学院大学日本文学』2009年7月、pp. 23-39. より。
・三島由紀夫の中期の作品群では「精神上の」父、ないし母、という主題の反復が見られる。
・擬似親子的な関係性は『午後の曳航』『絹と明察』をはじめ多くの作品で反復される。
・九内は一連の父子、母子関係の祖型を記紀に比定する。
・指摘……『禁色』の俊輔、悠一、鏑木夫人の三人は、『記紀』(及び三島の最初期――昭和十七年前後――の作品「青垣山の物語」)における景行天皇、倭建命、倭比瑪命の三人の関係性と並行的である。
・「崇神朝の疫病流行」と伊勢神宮、日輪神社について……pdf p.12. 伊勢神宮と共に日輪神社が「崇神朝での疫病流行を鎮めるという共通の役割を果たしていた」と言われる。
「天照大神を祀る地を探す旅は、疫病終息後も続き、六十年の歳月を経て、倭比女命によって伊勢の地に定められたのである」。このとき天照大神は伊勢に祀られ、伊勢神宮は「皇室の宗廟」と言われる。「伊勢志摩は、……皇室の宗廟たる伊勢神宮を有し、日本の歴史文化の中心的な場所である」。天照大神は天皇家の祖神であり、古代においては「神威」つまり祟りを揮い疫病の原因とも比定された。中世に入ってからは皇室・貴族以外の庶民からの信仰をも集めて、国民神的な性質を濃厚にしていく。しかし『アマテラスの変貌』に明らかなように、祟り神・皇室の守護神・国民神……という複数の属性は歴史的蓄積の結果であり、それらすべてを統一した「皇祖=国民神」という天照大神像は、いささか「いいとこどり」的な虚構である(『アマテラスの変貌』によれば古代において神々への信仰はあくまでその神を祖とする氏族によって独占的に執り行われるものであり、豪族の祖神を庶民が拝むなど言語道断のことだった。そうした規定が緩み、貴族の信仰が仏教に傾いていくに従って、諸社は生き残りのために庶民を信仰の主体とする根本的な方向転換を行った。すると、皇祖神すなわち天皇家の祖神としてのアマテラスと、国民神としてのアマテラスは、相互に排他的な属性であって、両者を等号で結ぶことは不合理であるようにみえる)。十界的世界観における最高位、「あの世」で救済をつかさどる如来と習合した「この世」の神格である天照大神への、如来へのそれをも含めた国民的信仰を、天皇家という「この世」の一豪族家に集約しようとする企みがここにはある。
これは近代的あまりに近代的なアマテラス信仰ではないか。近代においてそのようなアマテラス信仰が存在したことは祟り神としての、また国民神としてのアマテラスの現実存在と同様の事実ではある。ただし、それらはいずれも並列するものであり、いずれかひとつが超越的な優位を得ることはできない。
中世における
現代に生きる人間が祟り神として国民神としてあるいは皇祖神としてのアマテラスを信仰できないとして、ではどのように信仰できるか。現代人はキリスト教やイスラームやヒンドゥー教や、その他種々の信仰とその神話を知っている。したがって、いずれか一つの神話を世界の記述として超越的な優位をもったものとして信じることはできない。しかしながらキリスト教徒は否応なくキリスト教的文化圏の中で育ち、仏教徒は否応なく仏教的文化圏の中で育っているので、思弁的信念についてはともかく、実践としては生まれ育った文化圏のものにもっともよく適合している。超越的な優位の信念抜きに、実践的様式の継承として、従来の神々を信じるようなポーズをとることはできる。
あくまでプラクシスである。三島の論議に惹きつけて考えるなら、どこぞで彼は式年遷宮という形態を称賛していた。同じ石造りが永続するのではなく、同じ構造をもったものが壊されては作り直されていくことに意義を見出している。三島は構造上の同一性を要請している。したがって三島自身の論議を進めれば、やはり超越的なアマテラスに対する信仰も必要とされるだろう。しかしここでは三島の視座にはとらわれず、永続に対する実践的継続の称賛という観点を取り出しておきたい(この辺りの論議については『古典文学読本』を参照するのがよいかもしれない)。
するとどういうことになるのか。近代的あまりに近代的なアマテラス信仰を抜きにして、アマテラスの変貌を歴史的に眺めながら、現代的なアマテラス信仰として、その超越的地位を否定しつつ、身振りとして二礼二拍手一礼をする、天照大神を大日如来と結び付ける、十界論的世界観を導入して、初期近代=近世以来の純粋化された皇祖神を、大日如来との中世的混交体へと再結合させて、これを鑑賞する。
・十界論的天界と東アジアの自然学について……よく知らない。哲学者の天球に相当するような、自然学的宇宙構造に関する探究は、どのようなものであったのだろうか?
・『禁色』と『潮騒』……ともに伊勢志摩が背景に書き込まれ、神的な力の残照が見られる。海女の採る鮑が捧げものの筆頭であること、また男の心性に「荒魂」的なものがあることが言われる。『禁色』では鏑木夫人と悠一は京都へ向かう途上に伊勢志摩へと足を伸ばす。「有名な伊勢志摩の夕凪」が叙述される。王朝的古典文化への目配せが為される。
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