自分のことについて書く 3
李琴峰「五つ数えれば三日月が」をチマチマ読んでいる。同性愛者である「私」が同級生の女の子とキスをしたのを見咎められ、両親の折檻を受け、自転車を漕いで家から逃げ出していくくだりまで読んだ。同性愛に対する「逸脱」視、背後にある規範意識と、それに対抗する同性愛者の実存の対立が語られる。『彼岸花が咲く島』でも主人公を張る宇実は近未来の日本らしき島国で同性愛の廉で追放され、南方の「島」に漂着した。性的なそれを初めとして、少数者の実存を描き語ろうとするモチベーションが李琴峰にはみられる。連作『ポラリスが降りそそぐ夜』(未読)も日本国東京都新宿二丁目を舞台にした少数者らの叙述であるらしい。
文学の第一の意義が人間や世界の真実を叙述することにあるのだとして、私ははじめからそのようなものに意義を見出していなかった、ような気もする。叙述に値する真実は人間の悪性以外には無かった、だから芥川龍之介の諸作品や大江健三郎の「人間の羊」は好ましかったが、それ以外の何か正統らしい正義らしい事柄を語るものについてはまったく憎んでいた。なぜなら我がもの顔で語られる正義は必ずや嘘偽りであるからである。
単純な子供だった(あるいは今でも)。対テロ戦争を語るアメリカの大統領やそれを支持する日本の一般市民は嘘つきだと思っていた。嘘が嫌いだった。すると、嘘でないものは真実であり、したがってイスラームに対するシンパシーが醸成されていったのだが、唯一神自体嘘偽りの類だと信じていたので、別に彼らの信仰の現実に興味を覚えるわけでもなかった。政治的な機構のリアリズムに興味があるわけでもなかったので、ただ心情的にクリスチャンを憎み、それに敵対しているからという理由でムスリムを支持していたに過ぎなかった。お粗末な頭だった(あるいは今でも)。
フランスのモラリストのエセーにおける寛容の伝統――モンテーニュ『エセ―』の食人族に関する記述、ヴェイユ『重力と恩寵』の「ギュゲスの指環」冒頭の断章。
どのような考えであれ、それを信じるか否かは別として、そのように考えることは可能である。自然科学的自然主義に立てば、それはホモサピエンス種の脳髄の構造上の同一性に由来する。
思考可能性の拡張。アテナイ市民に対するソクラテス。批判哲学。現代現象学。現代物理学における局所実在の否定。信じず考える、のではなく、信じなくても考えられると試す。Essayer de le penser même si vous ne pouvez pas le croire, ou essayer de penser ce que vous ne pouvez pas croire.
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