de amore ad superiores

 従属と特権の本質的構造についてはともかく、現実的には男性もまた「家父長制」社会において処罰されうる――その数がどれだけ少なかろうとも。そこで処罰されるのはしばしば抑圧された階級に属する。ケイト・マン自身アメリカのある小説を引用して、家父長制的ミソジニーの体系が時として無実の男性を罰し罪ある女性を放免することを示した。マンは捻じれた処罰の理由としてこの体制が女性の性的能動性を否定するために姦通があれば無実だろうと男性の側を罰さざるを得ないのだと主張している。

 私はこの処罰された黒人に同情を、エンパシーを覚える。文字通りにはヒムパシーだが、ここでは同情は力の弱い者へ向けられている。マンは如上の問題が存在することを認めるだろう、それがいわゆる「差別コスト」の一つであるという条件付きで。彼女の言うことは正しいのだろうと思う、たとい私が彼女の生きている環世界を決して知覚できないとしても。口ぶりが蛇のように曲がりくねっているのは、マンのような女性主義者がある意味で真実で正当なことを言っていると私が信じているからであり、同時に私は日々感じていることを率直に告白したいしそうなるとこの二つの真実は互いに反目するだろうからである。意を決して言うのだが、フェミニストのいくつかのテーゼは偽として見られうると私は感じている。


 なぜこの黒人男性は処罰されたのか? マンが言うように、女性は欲望の主体たりえないという観念が組織され共有されていたため、姦通が起きたなら男が誘った、あまつさえ乱暴したのだということになった、という考えには一理がある。しかし別の考え方として、彼が黒人であったために罰されたのだと考えることもできるだろう。言い換えれば、権力を少なく持つ者が罰され、多く持つ者が放免される。もし男女の人種が逆だったなら、男性は決して罰されず、女性が牢獄に繋がれる結果となったのは明らかだろう。彼女の証言が受け入れられなかったのは彼女が女であるからだが、彼が罰されたのは彼が黒人だからだ。そして当然のことながら事実問題として黒人は白人よりも権力において劣っていたし、あるいは今もそうである。


 今一つマン自身が挙げている例を見てみよう。ゴールデンボーイと呼ばれる、成績優秀で肉体的にも健康、将来有望な青年が強姦事件を起こす。しかし、加害者の家族をはじめ誰もが、彼は全く好青年であって強姦事件などという怪物的な行為とは無縁であると語る。しかし事実は違う、女が犯され殺されるのは主として配偶者や家族によってであり、見も知らぬ他人、見向きもされない怪物のような男は、強姦や女殺しの条件を満たさないとさえいえる。

 ひとは家族や良き隣人を愛している。かれらが才能あふれる人物である場合は特にそうである。その愛ゆえに非道な行いをかれらは為しえないと思いなす。そして非道な行いの主体を想像し、その像へと非道や悪徳を投射する。こうして真の悪行の主体は免責される。一種のhimpathyとしてマンはこうした事例を挙げる。しかし、ひとはかれの男性性を愛していたのか。かれの有する現実的な権勢、能力における優越を愛していたのではないのか。そのような仮説を立てることはできる。


 また別の仮説――マンが語るところの「ミソジニー」、女性を監視し処罰するにもかかわらず男性をもまた処罰するこの体制は、権力への愛好、フィロクラシーphilocracy, 或いは優れた者への愛好amor superiorum, 優越者への劣等者による優越者のための愛好love of superior by inferior for superiorに等しい。

 こうした思いつきは、仮説というよりも視座、別の公理の提起と呼ぶのがふさわしい。人間は権力を有する者を愛し、その悪徳を免責する。権力を持たなければ、それは処罰される理由になりうる。


 歴史的な男性と権力の一致のために、従来の女性主義において男性性とは権力であり女性性とは従属であった。それがたとい構築されたものであり、権利上は女性もまた権力を持ちうるとはいえ(女に生まれるのではなく、女になる)、少なくとも西欧においてその歴史の全体を通じて事実上は、女性性すなわち従属性であり男性性すなわち権力性であった。そのために、女性主義者は従属性としての女性性を永遠化するのと区別がつかないほど、その言説において男性性と権力を一致させた。

 しかし事実を観察すれば、女性性とは必然的絶対的な従属性の烙印を押すものではない。少なくとも社会的には。マンが挙げた小説において、自由意志に基づく関係を恥ずべき災難とみなされるにもせよ、処罰され罪人の烙印を押されることはないように、実際にはジェンダーより多くの変項があり、事実女性が男性に優越するということはありうる。herses victimhood is an axiom. if one says it is true proposition, it would become false.

(とはいえ、同じ人種・階級の中では、やはり男性が女性に優越するだろうし、従属的な位置を占めるのは女性であるから、上の事実によって従来の命題が全く否定されることはない。全否定を試みれば、それもまた偽となる)


 さて問題はフィロクラシー、アモレ・アド・スペリオレス、優越者に対する抗いがたい愛であるのだが、これについて考えるには今の私にはあまりにも準備が不足している。別の二点について書く。

 まず、遇難者としての女性という公理について。公理とは数学においては、「論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題」、あるいは「 自明であると否とを問わず、ある理論の前提となる仮定」である。ある問題について考えるにあたり先んじて準備される道具立てが、公理である。仮定であるとも言われる、この公理それ自体の真偽を問おうというのは、悪手であるか、少なくとも良い手立てではない。少なくとも人間はそのように考えることもできる。別の公理を採用すれば別様に考えることもできる。人間はその都度別々の公理を、別々の前提を用いて、思考の可能性を拡張している。ならば、女性主義に対しても、その公理を借り受けて自分でも考えてみるというのが、さしあたり最も有益である。マン自身『ひれふせ、女たち』の序論において、「考えるためのツールキットを提供したい」と書いている。ならばその「ツールキット」を借りない手は無い。これまで書いてきたように、A-ist Miso-B-yやamor superiorumといった別のツールを作り出せるかもしれないのだから。


 次に、このような公理系を援用したディストピアフィクションについて。『時計仕掛けのオレンジ』を書いたアンソニー・バージェスは、先行するディストピアフィクションである『すばらしい新世界』と『1984年』、特に後者を称賛しつつも、これらは対立構造があまりにも鮮明に過ぎ、思弁的に稼働するだけの抽象的なモデル構築に終わっていると批判している。バージェスは『時計仕掛けのオレンジ』において、ディストピアな機構に蹂躙される被害者でありつつ、自らも暴力に訴える粗暴な少年を主人公に据え、のみならず主人公とは別の外国人という立場から体制に反抗しようとする人物を登場させることで、「ディストピア」な世界をよりいっそう多面的に叙述することを試みた。

 ただ一つの立場、視座から「ディストピア」を描こうとすれば、描かれるそのディストピアもまた、一面的な性格を免れない。すでに『その他もろもろ』『鉤十字の夜』『侍女の物語』をはじめとする優れたミソジニー・ディストピアフィクションが世に出て邦訳もされている現在、新たにフェミニスト/ミソジニー・ディストピアを書くならば、バージェスの批判を享けて多面的なディストピアフィクションをつくる方が、より良いものができるのではないかとも私は感じる。

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