前衛党についてのメモ
居安 正「前衛か大衆か:エリート理論とマルクス主義」、同志社大学人文科学研究所『社会科学』53号、1994年、pp. 107-155.
1節 エリート理論とレーニン以前の革命観
G・モスカ「政治階級の理論」…エリート理論の最初の提示
パレート『社会主義の諸体系』…パレートによるエリート概念の初出。「エリートの周流理論」:労働者大衆は政治的に無力でありエリートに利用されるにすぎないと言われる。
R・ミヘルス「寡頭政の鉄則」……上二者の総合としてエリート理論を提示
★レーニンの「前衛理論」は、一連のエリート理論に対する、ロシア帝国の革命という政治課題・環境における、マルクス主義的観点からの、彼の応答であった。
N・ブハーリン『史的唯物論』:パレート、ミヘルスを参照し、エリート理論が真ならば社会主義者は勝利しても社会主義=労働者階級の解放の思想は勝利し得ないとして、これを論駁する必要を主張。マルクスの階級闘争論とレーニンの前衛理論をよりどころとする。
マルクス・エンゲルス両者の革命観はどうだったか……
マルクス存命中は小規模な組織しか存在せず、必然革命は奇襲的になった。
エンゲルス晩年の第二次産業革命進行・普通選挙施行という状況の変化は、彼をしてマルクスの奇襲的革命観念を放棄せしめ、大衆自身による自覚的革命が社会民主主義として……後々revision也や否やの論争を引き起こしつつ……社会民主党内で是認されるに至った。
2節 レーニンの伝記と前衛理論に関する著述
1870年4月 出生(生名ウラジーミル・イリーイーチ・ウリャーノフ)
1887年6月 ギムナジウム卒業
8月 カザン大学入学
12月 カザン大学退学
(同年 兄がアレクサンドル3世暗殺計画に加わり銃殺刑。弟も目を付けられる)
1888年 兄の遺したチェルヌイシェフスキーの著書
『何をなすべきか』を読み、革命家を志す。
当初は「人民の意志」派に接触。
1891年 司法試験合格
1892年 サマラにて弁護士を開業
1893年 ペテルブルクに移りマルクス主義者のサークルと接触。
1895年 スイス行。プレハーノフらと接触し正統的マルクス主義者として帰郷。
~96年夏 「社会民主党綱領草案と解説」執筆。社会民主主義的内容
1897年 煽動罪の名目でシベリアへ(~一九〇〇年)
同年末 「ロシア社会民主主義者の任務」執筆。露骨に社会民主主義的。
1899年 『ロシアにおける資本主義の発達』刊行。
……『ロシアにおける資本主義の発展』では、ロシアのマルクス主義者の経済主義、すなわち労働者階級には経済運動のみを担わしめ政治運動はブルジョワジーの専門分野とする立場へ反対する。エリート理論の言う大衆の政治的無力に反駁するべく、前衛理論が登場する。
1900年 「われわれの運動の緊要な諸任務」、『イスクラ』創刊号
1901年 「何から始めるべきか」
1902年 『何をなすべきか』……上二論考の内容を詳論。
まずレーニンは労働組合が経済運動の範囲を出ないことを認め、そのような労働組合から自立した革命家の組織を立てることが政治運動・革命のための必要条件であると主張する。この、労働組合から自立し組合を政治運動へ動員する職業的革命家の組織が前衛党である。レーニンはここでとりわけロシア帝国という専制的国家の警察力に対峙する革命組織を構想した。警察力の目をかいくぐる必要があることから、前衛党は中央集権的な秘密組織でなければならず、その構成員は少数かつ専門的でなければならない。統率の取れていない組織では憲兵に一網打尽にされる恐れがあり、公開して多数の構成員を募ればなおのこと警察力の餌食になるだろうからである。したがって、前衛党は労働者とは異なる人間から成る、労働者を指導する集団として構想される。
1903年 ロシア社会民主党第二回大会…レーニン、党員資格の厳格化を主張。激しい反対にあい退けられるも、党中央委員会ではレーニン派が多数を占める結果になる。
1904年 「一歩前進、二歩交代」…自治主義的立場による党の解体を危惧し、中央集権主義擁護の立場から、部分に対する中央部の権利と全権との拡張を主張。
3節 レーニンの前衛理論に対する批判
・トロツキーのものとローザ・ルクセンブルグのもの。
前者…「代行主義」という批判。労働者を政治的に無能とみなし意思決定すべてを前衛党が担う(代行する)ことをレーニンは求める。しかし、労働者を前衛党が代行し、前衛党を中央委員会(前衛党内部の集権的な中枢組織)が代行するならば、中央委員会を代行する独裁者が出現するのではないか? という懸念をトロツキーは表明する。
後者…労働者の自律性を強調。
ルクセンブルクは、レーニンによる1904年「一歩前進、二歩後退」発表直後、『ノイエ・ツァイト』紙に「ロシア社会民主党の組織問題」を発表。労働者階級の自律性を全く認めないレーニンの立場に反対し、自発的組織の可能性に基づく社会主義運動を推す。
また、レーニンが批判する日和見主義・組織の分解は、大衆の自律性を認めるがゆえに起きるものではなく、大衆の自律性を認めれば直ちに統率を崩壊させるほどのロシアインテリゲンチャの未熟に由来する。この未熟を克服せずには必ずやテロルか組織の分解かに陥る。西方諸国のように、インテリゲンチャと大衆がそれぞれの階級的性格を明らかにすれば、大衆の自発的組織による創造性とインテリゲンチャの提示する理念による志向性が噛み合う結果になるだろう、と主張する。
4節 前衛か大衆か
・まず両者の置かれた状況が違う。レーニンとルクセンブルグ双方に、各個の状況にもとづいた、組織及び大衆の「過大評価」がある。「過大評価」を自覚し、歩み寄ることも可能なはずである。
日露戦争のロシア敗北に伴う1905年の革命は、レーニンに労働者階級と党組織についての再考を促した。プロレタリアートの自発性を目の当たりにしたレーニンは地下組織であった党組織に社会主義的労働者を迎え入れることを決める。前衛党の中央集権制による統一を放棄したわけではないものの、「民主主義的中央集権主義の原則」が1906年のストックホルムの党大会において提案され規約に取り入れられ、レーニンは「行動の統一」という例外を除いて広範で自由な討議が求められると主張した。この例外がレーニンの中央集権制の核心でもあった。
同じ出来事はルクセンブルクにも正反対の影響を与えた。革命意識を成長させた大衆の行動は、しかし、前衛組織の計画と指導を欠いては勝利をかちとりえない。社会民主党はプロレタリアートの闘争にスローガンと方向を与え、戦術を整えることで、大衆の自発的な力が十全に発揮されるようにすることが必要であると彼女は主張した。社会民主党はプロレタリアートの前衛であるとされた。職業的革命家の少数集団として規定されたレーニンの前衛党とは異なるものの、前衛党としての意義の重要性がルクセンブルクにおいても自覚されるに至った。
互いに接近したものの、それだけにいっそう両者の違いも鮮明となった。この両者の違いが、来るべき革命において両者の明暗を分けることになる。
5節 ドイツ革命とロシア革命
片や大衆の自己組織化の契機を高く評価し、片や民主集中制を説き中央集権を志向したルクセンブルクとレーニンだが、その後の革命において両者の明暗はどのように分かれたか。
レーニンは組織の製作と運営において絶大な才覚を発揮し田。彼によって造られた組織こそボルシェヴィキ党であった。4月に帰国したレーニンを主軸にしたボルシェヴィキは、中央統制とイデオロギー的同質性=「統一」によって、先の二月革命に続き台頭したメンシェヴィキ及び社会革命党を押しのけて優位に立つこととなった。統一的なイデオロギーと統制によってボルシェヴィキは、メンシェヴィキおよび社会革命党が複数の路線に分裂していたさなかにひとり思想的行動的な統一性を獲得し、十月革命において前衛党集団による迅速な行動を通じた支配力掌握に成功した。
ルクセンブルクはブレスラウの獄中に「ロシア革命論」を執筆し、革命の指導に見えるレーニンの前衛理論の非民主主義的性格を糾弾した。出版、結社および集会の自由を革命政府が廃止したことに対して国民世論を窒息せしめるものであるとして非難する彼女の根本思想は社会主義の大衆的自発性、大衆の精神的革命に立脚した政治的革命であった。共同体を組織する成員全体の精神的な成長が不可欠であるから、出版、結社、集会の自由、世論public opinionの形成とデーモクラチアー(民衆自身による支配)はルクセンブルクの社会主義にとって必要不可欠の要素である。
社会主義革命の使命はブルジョワ民主主義に代わるプロレタリアート民主主義の建設であり、プロレタリアート独裁の建設ではないとルクセンブルクは主張する。そうした立場から、トロツキー及びレーニンの独裁はエリート理論に基づくジャコバン的独裁と大差がなく、「そのような状態は、暗殺、人質の射殺などの公共の生活の野蛮化をもたらすにちがいない」と非難した。
とはいえ彼女らの革命はロシア革命と比較して全く鮮やかに失敗した。本論筆者は状況分析と戦略戦術の規定において独立社会民主党が統一的見解を持ちえなかった点にその原因を見る。党として統一的な指導を行いえなかったことが運動の失敗の主たる要因であった。
6節 ブハーリンのエリート理論批判とマルクス主義的社会主義の擁護、その欠陥
ブハーリンは革命以前のロシア社会主義の代表的な理論家であり、「運動・社会」のレーニンに対する「理論」のブハーリンとして双璧を成した人物であった。そのブハーリンが1節でみたようにエリート理論の批判と、これを退ける理論としてのマルクス主義の擁護を転回したが、それはどのようなものであり、またどのような欠陥を有していたか。
ブハーリン『史的唯物論』では階級を社会の生産関係によって規定されるとする。パレートは階級を能力の差に関連させたのと対照的である。生産関係によって規定される階級は、生産と分配における共通の位置、したがって利害における共通(階級利害)によって結合されている。(ただし甲と乙が階級的に同質であることと二者が実存的に同質、同一であることは別である。教育の程度などによってある程度まで統一的でも、まったく同じというわけではない。)
労働者階級(プロレタリアート)の場合、置かれる状況の多様から、ブルジョワよりもいっそう統一性が希薄であるとされる。とはいえ対外的には労働者階級として同質的であるので、階級を代表する政党の必要性が生まれてくる。この政党は同時に労働者階級を指導する政党でもあるとされる。
統一性を欠いた同質の階級の内部で対立する利害を調停し、階級を統一化して他の階級に対抗するために、政党が必要とされる。ブルジョワがブルジョワ政党を作り階級利害に基づいて行動するように、プロレタリアートもプロレタリアート政党を作り階級利害に基づいて行動し、共通の利益を実現する必要がある。ここで労働者階級の前衛党が必要とされてくる。
この前衛党は、労働者階級の「もっとも前進的な、もっとも訓練された、もっとも結合した部分」として、「階級の利益をもっともよく代表するもの」であり、そのようなものとして労働者階級を指導する。そして、前衛党は労働者階級から区別されなければならないとされる。これは身体とその頭部の区別から類比的に語られる。
前衛党内部でも同様の類比があるとされる。党指導部は一般の党員の頭部である。労働者階級が同質でありつつ統一されないように、前衛党内部も(擬似)階級的には同質だが統一的ではない。特に前進的結合的な部分が頭部として全身を指導しなければならないとされる。
こうした論議は、突き詰めればエリート理論と同様の少数支配の必然を帰結するかに思われる。ブハーリンはそうした問いに次のように答える。
階級の存在は生産力の不充分な発展の結果であり、そこでは管理は必要であるから、指導者が生まれる。しかし将来の共産主義社会では、生産力の高度の発展により、(不充分な資源を分配するための?)管理の必要がなくなり、階級もまた消滅するだろう。同時に、教育の普及によって、啓蒙された大衆により固定的かつ封鎖的な集団による権力の独占が打破され、かれらは平等な社会を実現するだろう。ミヘルスが不変の所与とみなした「大衆の無能」が消滅するからである。
ブハーリンによれば、エリート理論は労働者階級=大衆を生産力ではなく能力と結び付けて彼らを無能と規定し、なおかつその無能を永遠化した点で誤りである。
(とはいえ、ブハーリン自身現在時点におけるプロレタリア独裁=前衛党による少数支配を是認しており、歴史観としてはこれを「退行」と呼んで、革命以後の混乱状況を統制するための必要悪として見ている。)
★筆者による批判……
「もっとも前衛的」とか、「前進的」とかいわれるが、それを誰が判定・評価するのか。結局のところ指導部への絶対的服従が要求されるのではないのか。
★その後のロシア革命……
1918年 ロシア共産党の一党独裁成立
1921年 クロンシュタットの反乱発生
同反乱の鎮圧後、分派行動の禁止が決定される。「党内における指導部の独裁、さらには個人独裁への道を開くこととなった」。
死を前にしたレーニンはスターリンの権力拡大を止めるべく、自らの遺書において「明らかな分派行動」を行うも結局無効に終わり、彼の死後スターリンによる専横が始まる。
1924年 トロツキー、軍事人民委員を解任される
(ジノーヴィエフ、カメーネフ、等々が排除される)
1937年 ブハーリン逮捕、翌年反国家活動の罪で処刑
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