環世界について:「社会正義」と現象学的多元主義

●貴族主義的社会正義?


「社会正義はいつも正しい」で皮肉られ、批判されているCRTやクィアスタディーズは、社会についての知、真理を語る権利を少数者に限定するならば、それは知と真理における寡頭制、しかも変更不能な属性に基づいて権利が決定される貴族主義に他ならず、ラディカリズムによる普遍主義の殺戮を帰結する。


 米国における運動や理論は、とりわけ政治的な権利の拡大や法整備という実際的要求が後に控えている都合上、多数者の認識を誤りと見做し、少数者の認識を真理と見做す排他的性質を帯びる。

 しかし多数者の認識に基づく少数者の認識の黙殺に反対したこれら運動が、多数者の認識を否定封殺することもまた、彼らの否定するところの独断的なありかたではないだろうか。なぜ多数派に許されない否定が少数派には許されるか。それは畢竟別様の貴族主義、少数者を祀りあげる貴族主義に他なるまい。このような貴族主義的構えは、近代の民主主義によって必ずや打倒されるであろう。


 しかし別様に考えることもできる。むしろ、CRTをはじめとするマイノリティ運動が理論的に依拠する米国のフレンチセオリー、第二次大戦後のフランスにおける思弁がその理論的起源を持つ現象学においては、客体的な世界の確実な認識という観念に対する疑義、経験の多数性への洞察が含まれていたのではないか。


●環世界について:現象学的多元主義


 現存在が日々住まう「世界」は環世界と名付けられ術語化されている。都会人の環世界、木こりの環世界、宇宙物理学者の環世界…は、各々異なる。木こりは種々の木の性質を見分け、斧を自らの手の延長のように操る。木々は柔らかく、また硬い。斧は彼の長く鋭い手だ。都会人も宇宙物理学者も、そのような世界に住んではいない。自然科学者や材料工学者は、個々の樹木の木質を許容応力の差異として認識し、柔らかい・硬いという自然言語による陳述は素朴で曖昧で不正確な、知識(science)の名に値しないことと捉えるだろう。しかしそのような木こりの世界もまた、都会人や宇宙物理学者の住む世界と同じ資格で現実に存在する一環世界である。


 (以下しばらく読み飛ばし可……哲学史的な話なので……)


 先に挙げた環世界と現存在という二つの術語は百年近く前の1927年にドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが『存在と時間』で提出したものである。時あたかも1929年のウィーン学団成立前夜であった。


 ウィーン学団はオーストリア首都に発足した自然科学者・哲学者のグループである。かれらはルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や物理学者エルンスト・マッハの科学哲学の影響下に、「語りうることを明晰に語り、語りえぬことには沈黙する」、すなわち自然科学的な認識のみが知識に値する真正なもの(=明晰に語りうること)でありそれ以外(=沈黙すべき語りえぬこと)は知識の名に値しないという急進的な立場をとった。

 かれら以外にも、19世紀後半以来の自然科学の勃興に伴い、自然科学的な知識・知ること(science)こそが唯一の真正な知識・知ること(science)であるという認識を持つ者は多かった。これは自然科学者の「迷妄」に対する啓蒙の努力の結実である。


 自然科学者の攻撃は当然哲学・形而上学にも及んでいたので、ハイデガーの環世界に関する議論を新興の自然科学に対する反動的な議論とみることも不可能ではない。

 しかしながら、先ほど木こりの「硬い・柔らかい」を許容応力へ還元できるということを書いたように、自然科学者による木質の許容応力の認識は、木こりの感覚的認識とは別個のものとして現実に存在する。

 後者がどれほど間違っていたとしても、それが現実に存在することまでも否定することは、自然科学者にもできないだろう。現に存在しているからこそ、そのような素朴な認識は厳密な認識に改められねばならないのだから。


 そして、ハイデガーが『存在と時間』で言語化しようとしたものも、この厳密な認識とは別に現実に存在する素朴な認識、「生の事実性」である。彼は環世界という術語によって、自然科学的知識natural science以外にも、木こり的知識vulger science、都会人的知識urban scienceといった複数の知識plural sciencesが、正統な資格で現実に存在するということを主張したのである。


 ……西退西西CRT


(ここまで読み飛ばし可)


 同じことは米国における人種ごとの環世界の差異についても言うことができる。白人の環世界においては何ら警戒を要さない警察官の姿が、黒人の環世界においては致死的な危険を伴う姿として認識される。どちらの環世界も現実に存在している。二人の証言はどちらも真実である。白人の証言のみを以て警官の安全を語るのは、片手落ちである。黒人の経験もまた人間の経験の名に値するのであって、どちらも真実として記録されなければならない。


 このような現象学的多元主義の立場に立って、クィアスタディーズやCRTを眺めるとき、彼らの実践は多元主義に立つ普遍主義の補完である。補完に留まらずこれを掣肘する。普遍主義とは畢竟白人の、また男の、異性愛者の、アカデミシャンの、政治家の、普遍主義でしかないのではないか……そうCRTやクィアスタディーズは論難し、「普遍主義」の名の下の専横を食い止めようとする。


 彼らの論議の根拠は彼らの経験であり、認識である。黒人の、女の、同性愛者の、労働者の、人民の、経験や認識もまた、尊重されるべき人間の経験のひとつであり、かれらの環世界をより良いものにすることもまた、人間によって構成される政府の責務である。故に彼らの環世界を議会に伝える代表が必要であり、彼らの環世界を率直に語る言説が必要であるとされる。



●下ネタと普遍主義


「普遍主義とは男の…ものでしかないのではないか」とは、つまりは、「普遍主義」とラベリングされて議論される事柄が、もっぱら男の…の環世界のみを参照することで、男…以外の環世界参照した議論ができていないのではないか、ということである。昨日のチンチンとマンマンの話と同じようなものです。

 下ネタと言っても何故か対照ではない、扱いに差がある。下ネタを語る場が多く男によって構成されてきたからであり、したがって男の環世界のみを参照することで、女性器を専ら交接にのみ関連付け、肉体の一組織としての地位を等閑視してきたために、女性器を扱う下ネタはどことなくタブー視されてきたのではないのか?

 環世界とその多数性に基づく議論は、このような仕方で、広く共有され「常識」となっている事柄が、特定の環世界にのみ紐付けられており、他を無視している可能性を指摘する。

 一つの物理的世界の中には多くの環世界がある。どの環世界での経験も真実である。諸環世界における苦痛を減らすことは、物理的世界に支配力を発揮する政府の責務である。CRTやクィアスタディーズはこのような仕方で、政府へ、また政府の代表の多数派へ、自らの環世界における苦痛の経験を語り、是正を求めるのである。


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