ユーラシア主義Еврази́йствоについて

 日本語では一般にユーラシア主義と呼ばれる思潮は、その本場たるロシア語ではЕврази́йство と書かれ、おおむね「イェヴラズィイストヴァ」と読まれる。以下の論述ではとりあえずユーラシア主義(者)と書いたが、原音主義を採用すれば、少なくともロシアにおける「ユーラシア主義」は「イェヴラズィイストヴァ」と呼ばれるのが正当である。


1 汎在神論と正教、存在論


 安岡治子はユーラシア主義者の正教理解を論じるにあたり、汎在神論Panentheismといういささか耳慣れない観念をもちだす。


>汎在神論は、神の存在は全宇宙を包括しそこに浸透しているので、万物は神の内にある、とす る思想であるが、正教では、「自然(宇宙万物)と神の恩寵との問に明確な境界を区別せず、全被造物は神との霊的交わりの中にある」とされており、「万物は神の内にある」という汎在神論の 考え方に極めて近いと思われる。


 類似した思想の代表的な例として、本邦の仏教における「草木国土悉有仏性」や、『カラマーゾフの兄弟』に登場するゾシマ長老が自然を讃えて「全ての被造物は言を志向し、キリストに対して涙を流している」という言葉が挙げられている。これらの類似した思想(これらのとりわけ前者はむしろ汎神論や理神論と呼びうる)と汎在神論の違いは、安岡の要約するところの「万物は神の内にある」か否かという点にある。空間的なスケールで語られているのは、神と被造物の親和性や神の被造物への浸透ではなく、被造物と神の断絶である(安岡は浸透という語も用いているが、ここではその手前の「包括」に力点を置いて読む)。

 しかし、断絶しており理解を絶したものを被造物が志向し、それへ向けて涙を流すとは、被造物と神が交わるとは、いかにして可能なのか。正教神学はこの問題を、神という存在の、本質(ウーシア、実体)と働き(エネルゲイア、現実的働き)を弁別して考えることで解決しようとする。グレゴリオス・パラマスは太陽とそこから出る光線の比喩を用いて、「神の働き=光線は神の本質=太陽から出て被造物を照らし、温める=創造し、これを維持する。被造物は光線=神の働きを媒介にして現実を認識し、また光も目にするが、太陽そのもの=神の本質は、見る=理解するseeことができない」と説明する。「神の本質は、一切のものを超越した一であるが、その働きは多にして、被造物 に遍く浸透し働きかけている」。

 形而上学的な規定について話せば、ウーシアはアリストテレスのエイドス、プラトンの言うイデアに相当する。エネルゲイアはアリストテレスの存在論にそのまま登場して、現実態と訳される。

 アリストテレスの存在論においては、現実に存在する事物(エネルゲイア)はエイドスとヒュレーの合成によって成る。ヒュレーは材料、エイドスは形を意味して、それぞれ術語としては質料、形相と訳出される。木の椅子ならヒュレーは木、エイドスは椅子の形である。三角柱の積木なら、ヒュレーは木、エイドスは三角柱である。

 ヒュレーだけでも木として木は存在する。そして木が加工されれば木の椅子として存在する。では「椅子の形」=エイドスはどうかというと、これは現実世界には存在しえない。完全な三角形が存在しえないように。

 プラトンの著作でもイデアはしばしばエイドスと言い換えられていた(どちらも当時のギリシア語では「形」を意味する一般的な言葉で、術語の運用という意識は対話篇を書くプラトンには無かったようである)。この、現実には存在しないエイドス=イデアが、後に霊魂や神のウーシアに近しいものとして見られるようになり、神のウーシアとエネルゲイアの分離という理論も生じた。


2 人間神化について


 超越的な神による自然への働きかけが是認される正教神学において、いまひとつ独自な(?)営みが、人間神化(テオーシス)である。「われわれにかたどり、われわれににせて、人を作ろう」と創世記に言われるように、人は魂として神の似姿を有しているというのは少なくとも多数派のキリスト教においては共通した信仰であるが、観照を通じて己自身を神へと変貌させようというチベット仏教を連想させる営みがギリシア正教圏に成立した。神ははたらきにおいて諸々の奇跡を為したのであるから、人を神とすることもできる、神と成った人もまた……という、神人相似形の信念が語られる。浸透しない超越した神が、神化を果たした人においては、浸透するどころか、そのものとして完全に一体化する。そこには神と人との有機的統一が見いだされる。


3 『ユーラシア主義』の宗教・人間・社会観


 このような神観や自然観ひいては物理的実在を超えた世界観……絶対的な断絶はありつつ、神という実在のはたらきかけによって支配されている被造世界……は、そこからどのような国家観を発展させるか。

 1926年に発表されたユーラシア主義の綱領『ユーラシア主義、体系的叙述の試み』(Evraziistvo, opyt sistemachescogo izlodgenija. このうち正教に関する部分はカルサーヴィンによるとされる)では、正教を軸とした諸宗教のシンフォニックで有機的な統一が語られる。西方教会はカトリックにせよプロテスタントにせよ自由と統一の一方を等閑視している(カトリックは「自由なき統一」、プロテスタントは「統一なき自由」)が、正教的精神の精髄=ソボールノスチは全体による個人の抑圧=「自由なき統一」とも多性の一致との対立=「統一なき自由」とも無縁であり、理想的な宗教、唯一至高のキリスト教であるとされる(欧州の言語において、religio = религия(religija)とは即ちキリスト教を意味する)。

 ユーラシア主義において、ロシア=ユーラシア社会は正教によって統一されることが望ましいとされるが、このユーラシア主義的統一文化と国家機構を説明するための鍵概念として、「シンフォニック・リーチノスチ」が導入される。リーチノスチとはキリスト教の三位一体教義における位格を意味するギリシア語hypostasisの訳語としても用いられる語で、西欧の術語で言うpersona, personne, personを意味する。ユーラシア主義者によれば、リーチノスチとは本来的には西欧近代における全体からは独立した個人individual, individuとは異なるものである。個人は全体から自らを引き剥がし、独立しようとするが、その独立は個人自身を貧弱なものにする。ウラジーミル・ロスキーは「自身の内容を放棄し、自由意志でそれを捧げ、自身のために存在することを止めれば、リーチノスチは万人共通の一なる本性の中で自身を完全に表現することになる」と記す。万人共通の一なる本性の中で自身を完全に表現する、全体の統一性において真に自由になる人格という観念が、シンフォニック・リーチノスチ(交響的人格)の核心にある。シンフォニック・リーチノスチの概念を通じて、全体と一部が互いを抜きには存在しえないような有機的な統一体が語られる。このようなシンフォニック・リーチノスチが構成する社会は、「唯一完全なリーチノスチとしてのソボール的全地普遍協会であり、それは同時に、多くのリーチノスチのヒエラルキー的統一なのである」と語られる。人間と同様に、社会もまたリーチノスチとして実存することになる。人間と国家の相似形がここでは語られているが、それは同時にヒエラルキー的統一を成す。

(社会におけるヒエラルキーに対して人間におけるヒエラルキーとはいささかイメージしづらいが、これはアリストテレス以来の魂論を念頭に置いていると思われる。『霊魂論』においてアリストテレスは魂の低次の機能から中間的機能、高次的機能までを分類しており、それぞれ植物的=栄養摂取、動物的=運動、人間的=思考の能力が当てはめられている。人間の魂を構成する諸能力すらも階層を成しており、その高い・低いの格差は社会と同様であるとされる)


4 『ユーラシア主義』の国家観


 ユーラシア主義者によれば、正教はカトリックともプロテスタントとも異なる人間と社会の有機的統一を可能とする宗教であり、人間的概念でも社会的概念でもある「シンフォニック・リーチノスチ」を核として統一的な社会が構成される。国家規模の社会を運営するにあたって、ユーラシア主義者が提唱する理念が「イデオクラシー」(観念支配)である。統治者の理念(イデア)、すなわち正教の「信」に基づく理想を核として国家は統治されるべきであると主張するこの理念は、デモクラシー(民衆支配)を掲げる西欧的国家観に対するアンチテーゼである。多数決によっていちおうの総意を表そうとするデモクラシーはその統一性においてはるかに不完全である。人間がテオーシスにより神という実在を超越したイデアと一体化して、さらには神化した人間同士をも正教的理念の下にシンフォニック・リーチノスチとして有機的統一を果たすことで社会を構成し、国家は実在を超越し(ウーシア)かつ働きかける(エネルゲイア)正教的な神への信仰を核としてこれを統治するというイデオクラシーは、理念と統治者と人民の、強制力を伴わない自発的一致として叙述される。

『ユーラシア主義』その他の文献で語られるユーラシア主義的国家観・世界観は、「イデオクラシー」における「イデア」が正教的信仰であるかぎりにおいてテオクラシー(神権政治)と一致し、イデオロギーの無謬性とそれに基づく一党独裁を布いたソ連を思わせる(安岡33)。同時代のフロロフスキーは、国家による内部対立なき統一という目標はいささか素朴に過ぎ、社会を構成する個々の人格が自律性を失い上位のリーチノスチ=国家の器官となりおおせるのではないかと危惧を表明している。

 ただし、こうした批判はまさにユーラシア主義者が批判しようとするところの西欧的individuを前提としており、論点先取である、という反論はありうる。安岡はまた別の視座からの批判を挙げている。それは、ユーラシア主義者が提唱するシンフォニック・リーチノスチが、そもそも極めて困難であるという点から発する。人間神化とは静寂主義という一種の神秘主義的鍛錬の果てに成就する境地であり、当然ながら困難を極める。イデアおよびエネルゲイアである神との一体化、そこから共にエネルゲイアに与る他者との協同的社会建設というユーラシア主義者の全一的ユートピアは、神秘主義者のごく小規模なサークルであればともかく、広く社会全体を統御する理念としてどこまで実現可能だろうか疑わしい。然るにこれを可能であるといささか拙速に断じた地点に、ユーラシア主義者の躓きの石があると安岡は指摘する。

 伝統的なキリスト教信仰においてイデア=ウーシア=神とは最高度の現実であると信じられるが、しかしその最高度の現実とは人間と社会が実存するこの現実、生成に属する不完全な世界の「現実」ではない。神学的修辞はしばしばこの逆転を弄して神を讃えるが、その逆転によるglorificationの只中において、神的理想ideaの実現realisationの不可能が見逃される。そこに蹉跌hがある。


5 亡命知識人における問題意識と冷戦崩壊後の新ユーラシア主義


 ユーラシア主義とは元を糺せば、……(以下、後日)

浜由樹子は2008年の論文「「ユーラシア」概念の再考 ―「ヨーロッパ」と「アジア」の間―」の中で



参考文献


安岡治子「シンフォニック・リーチノスチ ―ユーラシア主義に見られる全一的理想社会の探求―」

同「ロシア文化におけるリーチノスチ」

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