『ひれふせ、女たち』を読んだ

 ケイト・マン『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』を半分ほど読んだ。備忘録。


 ケイト・マンはミソジニーと言われる観念の「素朴理解」として「女性に対する憎悪や軽蔑の感情」という定義を挙げる。素朴なnaïveというより文字通りのliteral理解と言うべきこうした定義は純粋に心理学的なものである。すなわち、gyne=woman, misos=hateという二つの語から合成されたmisogynyは、そのまま理解すれば「ある人が心に抱く女性一般への憎悪や悪感情」を意味するのだが、こうした感情はあくまで個人の内心における現象であり、厳密にいえば外部からそれとしてとらえることはできない。misos/hateという語は、その玄義においては、純粋に個人の内心にかかわるものであり、「この感情はmisos/hate (misogyny)だ」というかたちで言われる。逆に、フェミニストが言うように、他人に対して「それはミソジニー(的)だ」と言うことは、この文字通りの定義に従えば、すべて不合理になる。

 しかし、misos/hateに限らず感情にかかわる言葉は、純粋に内心にのみかかわるかたちでだけ使われるわけではない。誰かに「怒ってる?」と訊くとき、訊いた人は、訊いた相手がさも怒っているかのようにふるまっているので、そう訊く。同様に、何やらにこにこしている人を見ると、「何か良いことあった?」と訊く。感情は純粋に内心にのみとどまるものではなく、身振り手振りや、時には言葉によって、外界に発信される。misos/hateについても同じことが言える。悪感情は外界へ発信される。現実の事象について「それはミソジニー的だ」と言うときに「ミソジニー」という語が差すのは、内心よりもむしろこうした発信である。マンは術語としてのミソジニーを定義して、このような発信を指すものとする。このような発信をする者が「ミソジニスト」である。

 また、マンは素朴理解=内心・感情としての「ミソジニー」がもつ問題として次のことを指摘する。フェミニストをして「ミソジニスト」と言わしめる人間は、往々にして、「ミソジニスト」であると同時に良き夫、良き息子である。「女性一般に対する悪感情を持っている」人間が、同時に女である母親や妻を愛しているというのは、不合理である。(筆者は、ミソジニストという元来内心にかかわる言葉を非難の語に用いるフェミニストの用語法が問題なのではないかと思わないではないのだが、ともあれ、)マンは「ミソジニスト」が軽蔑の視線を向ける女性は必ずしもすべての女性ではなく、母親や妻や娘を愛しながら、同時に、他の女性に向けて強烈な敵意を向けることがありうる、と主張する。マンによれば、こうした「ミソジニスト」が敵意を向ける対象は、家父長制的規範に服さない女性である。

 以上より、マンはミソジニーという語を、家父長制的規範に適合しない女性への軽蔑や憎悪の表明、彼女への敵対や懲罰――そしてまた、家父長制的規範に適合する女性への称賛と厚遇――を意味する語として、再定義する。ミソジニーは内心の問題ではなく、態度表明や振舞いの問題である。

 憎悪や敵意はすべての女性に向かうわけでもない。しかし、規範に適合しない女性に対して敵意を向けることは、その前提として、家父長制的規範に適合するか否かという観点からの女性に対する監視を含む。したがって――ここで再びミソジニーの概念が再定義されるのだが――ミソジニーとは家父長制的規範に基づく「監視と処罰」の体系であり、すべての女性が監視され、そのうちの一部が監視の結果として「処罰」される、憎悪や軽蔑の対象となる、と主張される。これはミソジニーの概念のbehavioral definition, definition based on their behaviorと言うことができる。

 この定義を拡張して、Miso-something, ミソンティーMisontyを、何らかの規範に照らして適合しない者に対する態度表明、冷遇や懲罰、また、その裏返しとしての規範に適合する者への惜しみない称賛・厚遇として定義することができる。この拡張されたMisontyの概念は、規範意識とそれに基づく劣等者への蔑視、階層構造の転覆への掣肘を、人間の自由の名の下に撃つ。

 ところで、女性に対する非難と称賛は、必ずしも「ミソジニスト」によってのみ行われるのではない。家父長制的秩序に与する女性を最も激しく糾弾するのは、フェミニストである。フェミニズムという規範意識があり、それに適合しないものを非難する、こうした営みもまた、上に定義したbehavioral/ethical Misontyに含まれる。非難の対象は女性であるから、これもまたMisogynyと呼べる。そしてこちらはフェミニズムに基づくのであるから、フェミニスト・ミソジニーfeminist Misogynyと呼ぶのが妥当であろう。翻って、マンが定義して非難する「ミソジニー」は、家父長制的ミソジニーpatriarchial Misogynyと呼ぶことができる。この段落の冒頭の「ミソジニスト」は、したがって、「家父長制的ミソジニスト」と言い換えることができる。

 家父長制的ミソンティーの監視対象は当然男性にも及び、この秩序における規範を満たさない者は容赦ない軽蔑を免れない。この軽蔑や、それが暗黙の裡に意図する家父長制的規範強化の営みを、家父長制的ミサンドリー(behavioral/ethical) patriarchial Misandryと呼ぶことができる。また、フェミニズム的視座からより望ましい男性性と望ましくない男性性が選別され、前者を持つ男性が称賛され、後者を持つ男性が糾弾されるとき、これもまたfeminist Misandryと呼ぶことができる。

 一連の定義を定式化すると以下のようになる。


(behavioral/ethical) α-ist Miso-β-y


 αという規範意識に則りβを監視し、αに適合しない者に軽侮と懲罰を、適合する者に称賛と特典を与える振舞い(の体系)が、上のように呼ばれる。

 ここから、振舞いとしての憎悪の本質, behavioral core of hateを抽出し、目の前に取り出すことができる。憎悪は、はじめは内心に根差すが、これが外界へ発信されると、ある集団β全体に向けられる。憎悪は畢竟規範意識であり、集団βに「これをしてはいけない」「あれはしなければならない」という規範を課し、これに適合しない者には罰を与える。この規範は甚だしくは「生存してはならない」にまで激化し、その懲罰として肉体的抹殺という手段が採用されるに至る。憎悪犯罪、その頂点としての虐殺はこのように生じる、と説明することができる。

 これを単にミーソス、憎悪と呼んでもいいが、一般には心理的現象に起源を持つとされるこの語は無用の混乱を招くために、ミソンティー、憎物という術語が発明される。憎者は集団全体の監視と、特定の規範意識に基づく処罰と褒賞を意味する。ミソジニー、憎女から拡張されたミソンティー、憎物の観念は、規範意識に基づく「劣等者」への冷遇や蔑視を、人間の自由の名の下に撃つ。

 可能なる憎物批判、ミソンティー・クリティックとはいかなるものか。規範意識に基づく監視と処罰・褒賞の体系が憎物である。家父長制的イデオロギーは女性のみならず男性をも監視し、適合しない者に容赦ない非難と軽蔑を浴びせると書いた。適合する者が極めて少ない規範は、社会に軽蔑の感情を蔓延させる結果を生む。当の規範意識がよしとする対象を可能なかぎり増やすことが、反憎物の核心である。

 憎物批判がそれ自体別の規範意識に基づく憎物になることはありうる(ex. ethical feminist misogyny/misandry)。相互監視と相互処罰の網の目が形成される。処罰と褒賞、軽蔑と礼賛の均衡が求められる。極めて理念的な均衡状態を求めて、各々の憎物批判は遂行される。

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