『ひれふせ、女たち』についての続き①

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 憎物批判による相互監視によって個々の憎物の効果を相殺しつつ理念的な平等へ近付いていくことができると書いた。西紀2010年代後半以降USAで広がり日本にも拡散しつつあるMeToo運動、また、これに代表される「キャンセルカルチャー」は、こうした憎物批判の運動(同時に、既存の憎物とは別のかたちの憎物)の一つとして理解することができる。

(キャンセルカルチャーの事例……事例ひとつをまとめて文章にしなければならない、大変つらい、面倒。呉座騒動でもまとめるか、どうか……?)

 フェミニストイデオロギーに基づく男性一般への監視および、適合しない者への「キャンセル」=処罰の運動であるから、キャンセルカルチャーを一種の憎物、フェミニスト的ミサンドリーととらえることが可能ではないだろうか。

 MeToo運動の場合、処罰の基準は現行の刑法であり、これはフェミニズムに外在的なものである。ある監視と処罰の体系をとくべつに憎物と呼ぶには、その体系が依拠する処罰の基準が体系に内在的なものである必要がある(マンの規定するミソジニーは家父長制秩序の「執行機関」的な役割を有し、その処罰の基準は家父長制的秩序である)。したがって、MeToo運動を憎物、ミソンティーの一種としてのフェミニスト・ミサンドリー(女性主義的憎雄)と呼ぶことはできない。

 しかしキャンセルカルチャーの場合、その処罰の依拠する体系は刑法と非法的価値秩序の境界に位置する、したがって非憎物と憎物の境界に位置すると言える。誹謗中傷に対して名誉棄損である、ないし侮辱であるとして法的処罰を求める場合、これはもっぱら処罰を刑法という外在的体系に依拠させるのだから、ミソンティーではない。しかし、この「キャンセル」が刑法に依拠しないで行われる場合、とりわけ道徳的非難・中傷、こき下ろしの形態をとり、なおかつ職掌への干渉を伴うなどする場合、これは処罰する者が、刑法ではなく、自らの内在的な基準の体系に則り対象を処罰するものであるから、マンの分類に従うところのミソンティーであると言える。キャンセルカルチャーはその一部についていえば女性主義的憎雄ethical feminist misandryであり、家父長制的憎雌ethical patriarchial misogynyと同様の害悪になりうる潜勢力を秘めている。

 キャンセルカルチャーが家父長制的ミソジニーと異なるのは、前者が後者ほどには既存の政治的権力と結びついていない点である。マンは本書第6章において家父長制的ミソジニーが男性に対する免責特権を与えるものであり、これは時として比較的従属的な位置にある男性を無実の罪で罰することさえも帰結すると、『アラバマ物語』を例に指摘する。何があったのかという事実問題を、何があったとみなすべきかという当為問題に劣後させて、事実を覆い隠す。こうした挙動を許す価値観の体制は、一般に言って、真実の敵である。Sum pro verirātēs et factōs.


Wife beating, slut talk, femicide... Yes, I'll eat

Bread being to blame if I'd a wife to beat.

You people for justice should kill golden boys

Instead you hate bad guys lonely playing toys.

Injustice and inaccurate anger

You show for us, all men, is to go there.

Let's catch and kill that golden boys and guys

With virgin clowns: I'm ready for disguise!



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(おもえらく、強い道徳的なコミットメントを意図する言説は、すべからく道徳的な強い負荷語を用いざるをえざるべく、社会的な拘束力を伴う議論が展開されることとなる……のではないだろうか。

 ……ただしマンの非難は論敵が道徳的な負荷語を用いて規範的な議論を展開しつつそれを記述的な議論であると称する点にあり、規範的な議論を展開すること自体を問題視しているわけではない。保守派の論敵から規範的な議論が差し向けられれば、彼女もまた規範的な論議でこれに応じるだろう。)


 n=0のままnを増やせない人間もいないではない中、nを増やせる人間はぼちぼち異性と接触しつつ、その接触の中で異性に少なからぬ危害を加えることがありうる。一方の異性の意識、環境世界に現象する他方の性のふるまいが、一方にとっては真実のものであるとしても、それを事実問題としては何の罪に問われるべくもないn=0の人間にまで拡張して「男性性」の「有毒・有害」なものとして論じられると、

「はあ……そうですか、そうですか。ビートするワイフがいたなら、俺もその罪状に連座することにやぶさかではないのだが。事実としてありもしない罪をでっちあげて糾弾されるというのは、非常に屈辱的なのですがね」

 という以外に思うところが少なくなってくる。

 女性の環世界的経験における現象的男性性の有害な類としてそのようなものがあるという事実、これは否定しがたいとしても、超越的規定としての「有害性」を語られては……その規定を真なるものとするためには、全ての男が全ての女を強姦する必要があるだろう。


Please give me a wife to beat and choke, then I will make it totally true your transcendental definition of men, by changing myself as evil as you defined.


 したがって、同じく環世界的である別の属性の主体の経験を率直に言語化することと、複数の環世界的経験の報告のテクスト批判的な営為とが、ここで必要とされてくる。

 Yes all womenは存在の開示である。Not all menもまた。インセルダムもまた彼らの経験的環世界についての認識を語っており、それは自分とは異なる世界観を持つ人間の認識を知るための資料として役立つ。

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