『愛の渇き』『アドルフ』『ドルヂェル伯の舞踏會』
谷學名義で小説を投稿したサークルROSE BUD、その筆頭である文乃綴は三島由紀夫に私淑する小説家である。いいかげん三島由紀夫の作品を読もうと自分も思い立って、この年末から『愛の渇き』と『青の時代』、そして関係するフランスの小説として『アドルフ』と『ドルヂェル伯の舞踏會』を読んだ。
『愛の渇き』と『青の時代』はいずれも1950年、昭和二十五年に三島由紀夫が発表した長編作品。
三島由紀夫の長編作品
第1 盗賊 昭和二十二~三年 ロマネスク、箴言の多用
第2 仮面の告白 昭和二十四年 自伝的小説
第3 純白の夜 昭和二十五年 心理小説
第4 愛の渇き 昭和二十五年 反ボヴァリー夫人、ロマネスクな恋愛の成立の不能
第5 青の時代 昭和二十五年 事実に取材した悪漢小説
Wikipediaによると第一の長編『盗賊』には文体や箴言の多用という点でレイモン・ラディゲ(ヘモン・ハディゲ)の、とりわけ『ドルヂェル伯の舞踏會』の影響が多く見られるという。そして『愛の渇き』は「園丁の恋人である女中への激しい嫉妬の苦しみに苛まれた女の奇怪な情念」とその帰結を劇的に描いたと言われる。
『仮面の告白』は遥か昔に読んで、『盗賊』と『純白の夜』は読んでいない。『愛の渇き』と、文乃氏に勧められた『青の時代』を読み、数年前に古本屋で買ったきり積んでいた新潮文庫の古い『アドルフ』と、年末に地元の古本屋で偶然(110円で!)手に入れた堀口大學訳の『ドルヂェル伯の舞踏會』を読むことにして、最後のものをつい先ほど読み終わった。
なんだって『ドルヂェル伯の舞踏會』に似ているという『盗賊』を読まずにこんな順番で読む気になったのか? というのは、単に興味が偏っていたからだと言えば言えるけれど、別の理由も言えば言える。『愛の渇き』は大阪の郊外に土地を持つ富裕な家庭での恋愛模様を描いた作品で、「ロマネスク(小説的)な恋愛」を前提に物事を考える若後家の悦子と、彼女が恋焦がれる園丁の少年(読むものといえばもっぱら講談本であり、近くに少女がいれば当然の成り行きとして交接する、「ロマネスク」には縁もゆかりもない)がついに面と向かって言葉を交わし合うも、「ロマネスクな恋愛」という前提を同じくしないためにアンジャッシュよろしくすれちがう……という、本当にコントみたいなクライマックスを迎えるのだが、富裕層の恋愛模様、そしてそこに現れる三角関係(『愛の渇き』では園丁の少年は女中の少女とできており、上に言う「交接」の結果これを妊娠させている)という内容は、フランスの心理小説の傑作といわれる『アドルフ』や『ドルヂェル伯の舞踏會』にも見られる。内容面で似通ったところがあるのだが、しかし『アドルフ』も『ドルヂェル伯の舞踏會』もこんなコントめいた場面は描かないし、そのスタイルも三者でずいぶん異なっている。「心理小説」のジャンル内部の違いを見るに、この三者の比較はためになりそうである。
バンジャマン・コンスタンの小説『アドルフ』は19世紀前半の1816年に出版されたもので、ある旅行者の鞄の中に残された手記という体裁をとった小説。ドイツ某領邦の役人の息子である語り手の青年アドルフは、フランスのP何某伯爵が囲っているポーランド貴族出身のエレノアに惚れ込み、ここにアドルフ・エレノア・P何某伯爵の三角関係が成立する。初めはエレノアも青年の誘惑を拒むも、ふたりはP何某の許を離れて愛し合うようになり、しかしやがて破局が訪れ、エレノアは死ぬ。一連の叙述はもっぱらアドルフの筆による一人称で書かれ、彼の心理のめまぐるしい浮き沈みが、疾風怒濤の勢いと激しさで綴られる。
『アドルフ』は、先行する18世紀のゲーテの『若きウェルテルの悩み』や、英国はリチャードソンの『パメラ、あるいは淑徳の報い』といった、書簡体小説の流れをくむと言ってよい。手紙ではないとしても、個人が個人の名前で、書いた本人の経験した事柄や、その時々の思いを、率直に、克明に書こうとしている。その調子は真に迫るものがある。読者は文章を読んでいくなかで、アドルフに共感したり、あるいはばかばかしいと思ったりする。そうした判断や感応の素材になるのはアドルフ本人の「肉声」である。
『ドルヂェル伯の舞踏會』は1924年、作者ハディゲの死後に出版された彼の遺作であり、『アドルフ』と同じく年上の老ドルヂェル伯の妻マァオと、夫妻の年少の友人となった青年フランソワの三人の親愛と戀の関係を主題としている。形式の上で『アドルフ』と大きく異なるのは、本作が三人称で語られていることで、作品全編は作者ハディゲ(ないし本編中には名前の出ない語り手)によって一貫して語られる。この語り手は時折箴言ふうの文句を差し挟んだりして、登場人物の心理にちょっかいをかけるようなことはするが、しかし『アドルフ』の書き手である青年アドルフのように登場人物の激情を素直に書き起こしはしない。その文体は「硬質」であり、あたかも「細密画」のように、登場人物の心理が叙述されていく。
読者はマァオやフランソワの恋心を思い悶々とする、悲痛な気持ちに駆られる。しかしそれは『ドルヂェル伯の舞踏會』の本文、その文言を読んで直接に喚起されるのではなくて、むしろ行間を読むことによってそうなる。本作の文体そのものは全編まったく落ち着いており、「読者は……」と、小説を読んでいる読者に冷静に呼びかけるかのようなくだりさえある。
(この硬質な文体と箴言の多用は『愛の渇き』と『青の時代』双方にみられた特徴でもあり、初期三島が長編執筆にあたってハディゲの長編に多くを負っていたことが窺える。箴言の多用について言えば愛の渇きよりもむしろ青の時代の方によりはっきり見受けられる。語り手がいたって冷静に作中の出来事を観察しており、ときおりそれに気の利いたような口を挟んだりするのは、どちらも同じである。)
内容面でも『アドルフ』と『ドルヂェル伯の舞踏會』は異なる。『アドルフ』では庇護者を見限って愛に走ったエレノアはついに死んでしまうのだが、『ドルヂェル伯の舞踏會』では、互いに思いあっていることを知ってしまうマァオとフランソワは、しかし両者が持っている老ドルヂェル伯への愛のために身を引き、物語はマァオとドルヂェル伯の会話で終わる。しかしこの夫妻の会話の中で起きるのは、痛ましいほどの相互不理解の露呈、両者の相互理解の不可能性のマァオによる自覚であり、しかもその露呈、自覚は、語り手によって、読者に対してのみ明かされる。相互理解の不能といえば『愛の渇き』でも描かれたが、ここでの不理解は老ドルヂェル伯の社交的性格とマァオの激情のすれちがいであり、二人は富裕層として同じ社交界に住まっている。
『愛の渇き』は形式・内容について見るとどのようなものか。そもそも本邦には『アドルフ』や『ドルヂェル伯の舞踏會』で描かれたような「社交界」という伝統は無いということで、三島は舞台を郊外の農園に移した。これを経営する素封家の家族とそこで働く園丁・女中らを主たる登場人物として、素封家の次男と結婚し、これを早くに亡くしたため農園に居つく悦子の、園丁の三郎に対する恋慕の昂進とその爆発までを、登場人物を突き放した調子の硬質な三人称で描いていく。どちらも既に上で書いているが比較のために改めて書きとめておく。
繰り返すように『愛の渇き』は、その形式の面では『アドルフ』よりも『ドルヂェル伯の舞踏會』に近い。内容面で言うと、三角関係の一角が悦子という富裕層、ほかの二角が園丁と女中という下層階級という点で異なり、これは舞台設定の変更からの余波でズレが生じている。『アドルフ』でも『ドルヂェル伯の舞踏會』でも登場人物はみな社交界に出入りする富裕層(ブルジョワ、富裕市民)や貴族であり、講談本を読みロマネスクな恋愛を理解せず自然のなりゆきで交接する園丁の三郎のような人物は、一行出るか出ないかの木っ端役である。この登場人物の階級のズレが、終盤の展開のアンジャッシュを、悲惨だが傍目に眺める分には爆笑もののすれ違いを生む。
上の長編の羅列で「反ボヴァリー夫人」と書いた。未読だが、フローベールの『ボヴァリー夫人』(1857年刊行)は、ちょうど『アドルフ』や『パメラ』のような小説を読んで育ち「ロマネスクな恋愛」にあこがれるエンマ嬢が、ボヴァリー氏との退屈な結婚生活に飽きて不倫に走るという内容の小説で、遊び人にもてあそばれるエンマの姿と、「ロマネスクな恋愛」という幻想の挫折のさまが描かれるらしい。これに対して『愛の渇き』では三島は「唯一神なき人間の幸福といふ観念」を描くべく、「希臘神話の女性に似たものを、現代日本の風土に置いてみようと試みた」という。あれほど悲惨なアンジャッシュをやっても、悦子は幸福なのだそうだ。本当だろうか? あまりそうは思えなかった。むしろ、悲惨にも崩れ行くエレノア、マァオ、悦子の、その崩れようの三者三様のさまを面白いと思った。
エレノアは愛に走ってはついに周囲の庇護を失い死ぬ。
マァオは激しい愛に駆られるが、それを止めてほしいという夫への願いを理解されないまま終わる。
悦子はそもそも自分の恋愛、ロマネスクな恋愛の感情を、想い人に理解されないで終わる。
人間の心理を描くという点で『アドルフ』『ドルヂェル伯の舞踏會』『愛の渇き』はおおむね一致している。しかしそこで描かれる心理の動きや、心理を書くスタイルが、各々異なる。ざっと百四十年のあいだに書かれた三つの小説を読み比べると、そういう面白さがある。
……どうして悦子が滑稽にばかり見えて、幸福そうにはあんまり見えないのか。具体的にどこがどうと挙げて説明する必要があるだろうが、今は措く。
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