自分のことについて書く2

 自分のことについて書くと言って以前はガアルの経験と夜の喩え、それに対する自分の感慨と舞台上から見る暗闇について書いた。舞台上から見る暗闇は痛みを与える外界の個物を隠して、これらを意識に与えない。舞台上から見る暗闇は、痛みの不在をそのメルクマールとすると言ってよい。また、舞台上から見る暗闇は、あくまで視界の前方にのみあって、全視野を覆い尽くすものではない。演技をしている自分の肉体や共演者のそれははっきりと見ることができる。これに対して、ガアルの経験は、なるほど個物が意識に与えられることはない(個物=存在者は現前しない)ものの、個物でないもの=存在者を欠いた存在はなお与えられている(存在者を欠いた存在は現前する)。ガアルil y aとは、その定義からして、存在者を欠いた存在の意識への現前であり、それは全視野を覆い尽くして、個々の事物や人間、個物や個人、のプレゼンスを覆い隠す。暗転した舞台上のありさまがそれに近いが、おそらく全く同じではない。ここで、存在が剥き出しのまま現前することで、意識は言い難い苦痛に苛まれることになる。この苦痛の有無という点でも、ガアルの経験と舞台上から見る暗闇は区別される。舞台上から見る暗闇は、日常生活において身の回りにある事物や他人の視線が一時的にせよ消え去る(意識上に存在することをやめる、不在になる)ことで、これらが与える痛みから意識を解放する。ガアルの経験は、あらゆるものが夜の闇に消え去ってもなお消えない暗闇そのものの経験であり(意識上には暗闇だけが存在する、現前する)、逃げようのない現前が意識に苦痛を与えつづける。一方は不在の経験であり他方は現前の経験である。この対照が苦痛の不在と充満という今一つの対照をみちびきだす。


(意識に直接与えられたものという思想史上のモチーフはアンリベルグソンに淵源するものであり、この思想家の議論をあたらないことには少なくともフランス語圏の思想史の十分な理解には及びえないと言ってよいのだが、今もって手を付けていない。)


 話すことが苦手である。自分の口は、普通より歯が一本多かったらしい。普通より一本多い歯が歯列の内側に突き出しており、歯が舌に刺さるかのように触れ、舌が凹み、やや腫れる。

 高校に進学してから歯列矯正を始め、余分な歯を抜いて、今では歯はきれいに一列に収まっている。しかしこういう風に歯が生えると、当然話しづらい。

 ついでに言えば自分の歯は上下で咬み合わせが逆になっており(反対咬合あるいは下顎前突)、これも矯正で下の歯は上の歯より後ろに寄せたが、今でも下の歯茎は上の歯茎より前に出ているようにみえる。反対咬合とは上の歯と下の歯の嚙み合わせという頭蓋骨の構造に、下顎前突とは上あごに対して下あごが突き出しているという顔の外観にそれぞれ着目した語である。どちらにせよ自分はあてはまる。

 問題はとにかく歯が舌にあたって話しづらいということだった。これは性格とか集団における社会的地位とかの問題ではなく、器質的な、話すための器官に問題があるということで、もうお話にならないと言ってよい。歯が一本多くなかろうと性格や地位の問題から自分はそうよく話す人間にはならなかったろうとは思えるとしても、しかし事実として歯が邪魔をした。

 緘黙。肉体によって邪魔される運動(口を動かすのだから言葉を話すのだって運動のはずだ)。

 自然、目で追うだけで読める文字と読み書きに興味が傾くことになる。言葉を話し、聴くことから、意識が遠ざかる。紙の上だけに障害(バリア)のない自由なのびのびとした世界がある。そういう気分で長いこと生きてきていたし、今でもそれを引きずっている節はある。

 人付き合いが好きになりきれない。人付き合いから得られる利益よりも苦痛が大きいからだろうと思う。しかしそれ以上に、面と向かって言葉を話すことに今もって慣れ親しんでいるとは言い切れないことが、大きな躓きの石なのではないか。

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