メシアニズムの模倣――倉井斎指「アフロフューチャリズム試論」を読んだ

 冒頭近い部分で「前史のおさらい」として見開き半ページくらいの範囲に固有名詞が乱舞して、まあ胡散臭いというか鼻につく文体。しかし備忘録、文献目録としては、このくらい密にギュッと書いてくれていた方が大変ありがたく、優れている。

 何か論壇誌めいた誌面構成で読んでいるから鼻につくだけで、これがもっと80年代のZINE、雑誌の一ページの下半分に圧縮され、赤地に白抜きで書かれていたなら、こんな文体でもスルスル読めたのではないか。媒体の体裁と文面が今一つ馴染まないので、何か違和感を覚えるのだろう。そんなことを思いもしました。


 さて本題。アフロフューチャリズムって、何。

 まず、この潮流はアフロと言ってもアフリカで起きたわけではなく、アメリカ合衆国の黒人コミュニティの中で発生したムーブメントである。前世紀に流行った未来学であるとか、あるいは「リスク管理」に関する政治的言説の中で、「未来に起きうる危機を予め言語化し、言語化しうる範囲内に収める≒制御する」という流れができた。アフロフューチャリズムは、こうした未来の制御の帰結として(あるいは制御そのものの内に)、未来さえも政治的権力によって制御される危機を感じ取る。

 アメリカのアフリカ人コミュニティは奴隷貿易によってまず過去と切断されている。MLK Jr. は「私には夢がある」と言って未来の希望を語ったが、その未来すらも、かつて奴隷貿易を行いアフリカ人から過去を奪った権力(その継承者)によって制御され、奪われようとしている。

こういう危機感がアメリカのアフリカ人コミュニティの中にあり、その危機に対抗するため複数の未来を語る言説を組織しようとかれらは試みる。これがアフロフューチャリズムの思想的背骨である、らしい。

「エシェンの大枠の主張は、…既存のポストコロニアル的運動は主に啓蒙=大きな物語に対抗しうる倫理的な記憶の収集によって担われてきたが、それが過去を越えて未来の領野にまで繰り広げられなければならない、ということである。なぜなら権力は今や「未来」を支配的な資本の領野として巣食っており、「サイエンス・フィクションはもはや、明日の預言と操作を夢見る、未来産業における研究・開発の部門」にまで貶められてしまったからだ※29。…かような自己成就的なディストピアにより、現実の延長である未来は資本の余剰生産の場として植民地化される」。(pp. 160-1.)

 ※29、原文の註釈の中で想像力を含めた「力」による未来制御の運動の、直近の例として、SFプロトタイピングが挙げられている。あれはわかりやすく、”現代的な形で力が未来をも支配しようとする”動きだと思います、自分も。そして、こうした一連の動きに対する反抗作戦として、アフロフューチャリズムは位置付けられている。

「過去ないし現在において、支配的な未来と競合・対抗的に表象される複数な未来(futures)を(全体化の契機を伴なわずに)戦略的ツールとして活用すること、それがアフロフューチャリズムの戦略的な第一義的定位と、ひとまずは言えるだろう。」(p. 161.)


 アフロフューチャリズムの過去の北米黒人運動に対する優位について……先の引用に(全体化の契機を伴なわずに)という括弧書きがありました。これは前世紀の北米黒人運動、ブラックパンサー団やネーションオブイスラムといった、トップダウンの統一的世界観を提示する運動に対する反応で、過去の運動は結局のところ「支配的な白人と従属的な黒人」という関係性を想像的に反転する以外のものではなかった。

 ヘーゲルは逆立ちしてもヘーゲルであり、逆立ちした白人ナショナリズムとしての黒人ナショナリズムは白人ナショナリズムと同じ粗雑さを鏡写しとはいえ持ちあわせている。これに対する反省から、粗雑な世界観からの脱却、そしてまた結局は支配的権力に従属的な想像力からの脱却の路を探るべく、アフロフューチャリズムは複数の未来を構想する……らしいのですが。

 ……いつものことながら、文化的現象であり同時に思弁的運動でもあるアフロフューチャリズムには、どうも複数の層があるように見えます。大乗仏教経蔵における露骨に呪術的な世界観と同論蔵における「空」概念の考究の発展のように……

 思弁的側面においては、「未来」は現在において生産されるものであり、それは絶えず複数に分裂して統一されることはありません(少なくともそのように弁明される)。

 しかしながら文化現象としては、「先史的な「失われた文明」という極端な過去表象と数百年後の宇宙船という極端な未来表象を結び付けている(=その二点の間を埋める歴史が欠けている)」(p. 159.)と言われるように、アフロフューチャリズムは未来表象をはっきりと結ぶ。しかもそれは括弧書きで捕捉されているように、現在とのつながりを欠いた未来である。

 この「歴史の欠如」について、北米黒人=「アフロディアスポラ」(ibid.)が「歴史から疎外=エイリアン化(alienate)」(同)されていることが理由として挙げられている。

 ディアスポラの、苦難の境涯にある集団が、現在とのつながりを欠いた特異な時間概念によって特徴付けられる未来を構想する……その一点において、アフロフューチャリズムは、千年王国、共産主義、啓蒙のユートピア意識に限りなく接近する。

 ユートピアは逆ユートピアであるという、本邦では澁澤龍彦以来の逆説を弄する心算は無い。ただ少なくとも、思弁的には対抗的な複数の未来を構想するこの潮流は、表象においては古い酒と革袋をどこまで打ち棄てられるか疑わしい。


イターシャ・L・ウォマックによる『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』、Amazonでも発売中。

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