杉田俊介『男がつらい!』、高原英理「差別の美的な配備」を読んだ

・内面化された正しさ


備忘録。

 杉田俊介『男がつらい!』を3章まで読み終えた。「憎しみではなく怒りを」と語る杉田の戦略は、しかし――杉田自身、続く4章で「正しく傷付く」という言葉に対する論難を展開するのと同様に――今や「怒り」という言葉にすら「正しさ」の含意が付着する中で、「憎しみではなく怒りを」と語るのは、あまりにも正しい。正しさとは畢竟一個の規範への恭順であり、規範への全面的な恭順は一種の「修正全体主義」を意味する。……「修正全体主義」については後に述べる。

 むしろ求められるべきは正しさとは別の価値判断の軸の創設であると私には思われるが、こう百字足らずで言うことなら誰にでもできる。

 ただ自分の率直な感じ方を言語化するなら、杉田が語る「優しくリベラルな、正しい男性像」を私があまりにも深く内面化しているために、それを殊更に「正しい」と表現する必要を感じることができていない。料理や掃除や洗濯というのは生活能力の問題なのだから、家事くらいできたほうがいいにきまっている……と、私は極めて素朴にそう思っている。その能力が男性にもよく求められてくるという事実の歴史性を全く無視してそう思っている。

 現代の日本の女性主義が批判する家父長的家族制度、「男は仕事、女は家庭」は高度経済成長期に成立したものである。それへの批判として登場した「よりリベラルな」価値観は、せいぜい男女雇用機会均等法以後の、二十世紀の最後の二十年足らずと二十一世紀の二十年あまりの間にようやっと出てきた、きわめて新しいものである。にもかかわらず、世紀末に生れ新世紀に育った私、上野千鶴子や杉田俊介と比べてはるかに若い私は、そうしたきわめて新しい価値観を、あたかもはるか昔から常識であるような自然なものとして理解している。

 ここにギャップがある。


・新世紀育ちのパースペクティヴに正確な言葉を与えるために……/ロスジェネ論壇の正しさ志向?


備忘録。

 おそらくは、かつて杉田俊介が「ロスジェネ論壇」の一人として筆を起こしたように、異なる時代に生まれ育った人間の異なるパースペクティヴを改めて言語化することなしには、私の違和感をぼんやりとした違和感以外のものにすることはできない。新世紀に育った私は、就職氷河期を生きてきた「ロスジェネ論壇」の世代とも、また高度経済成長期の日本の家父長的同時代状況を批判してきた世代とも、異なるパースペクティヴを持っている。

 私見だが、同じく「ロスジェネ論壇」として登場した雨宮処凛の文章にも、杉田と同じく「正しさ」を求める志向があると私は感じる。彼女のまとまった文章を私は『相模原事件裁判傍聴記』くらいしか読んでいないが(後は『月刊 創』のコラムをいくつか流し読みした程度だ)、被告の植松聖の来歴を推量するくだりで、雨宮は次のように書いている。


 それ[介護の仕事の理想と現実のギャップ……引用者]はおそらく、ケアの仕事につくすべての人が感じている葛藤ではないだろうか。そして植松被告はその葛藤に、耐えきれなかったのではないだろうか。葛藤しながら向き合うのではなく、いろんなことをすっ飛ばして、最悪の回答を導き出した。(p. 71.)


 混乱の中、葛藤し続けることに耐えられなくなった彼は、ある一つの「回答」に辿り着く。ものすごく、いろんなことをショートカットして。それが「障碍者を殺す」ということではなかったか。(p. 185.)


 雨宮はここで「葛藤」と「回答」を対比させる。ケアの仕事につくかぎりついてまわる葛藤、それは一見すると非人間的な生存状況にある被介護者を前にして「このような生と死はどちらがよりましだろうか?」と悩むことである。これは解きがたい難問であり、葛藤を、そして葛藤しつつ介護を続ける=被介護者に向き合い続けることを、介護者に要求する。対してここで言われる「回答」とは、必ずしも一方の極に限定されないのだが、ここで植松が選んだ「回答」は「最悪の」極、すなわち「障碍者を殺す」という意思決定を下すことだった。あるいは「」という「回答」もありうるだろう。しかし振り返れば、T4作戦や優生保護法、1970年の母親による子殺しをはじめ、重度障碍者の「非人間的」と見做された生はしばしば「生きるに値しない」ものとして、その生の基体の物理的抹消、すなわち殺害が選ばれてきた。そうであるから雨宮もここで「回答」として代表させるのは、障碍者をはじめとするケアを必要とする生命の抹殺であり、それは「最悪」のものとして語られる。

 雨宮は葛藤を求める。葛藤し続け、それに耐えることを求める。それは正しいことだ。月並みなほどに正しい。一度も聞いたことがなくても何度も聞いたことがあるような気がして、つまりそれは紋切型ということなのだが、少なくとも正しくはある。そして正しさ以外の要素がそこには無いと言ってよい。

 雨宮処凛も、また杉田俊介も、悪とされるものに対するその姿勢が、あまりにも正しい。その正しさは、オルタナファクトを奉じ真実を語ろうとする手合いに向き合うことができないほど、正しい。雨宮処凛はこうした姿勢で植松聖批判が成ると考えてこうしているのだ(ろう)が、私にはそのように考えることができない。

 ホンネとタテマエという対立概念について杉田は『男がつらい!』の中で一節を割いているが、そこにも同じような正しさへの希求がある。一般にタテマエに対してホンネは発話者の本心を語ったものと理解される。杉田は熊谷晋一郎の議論を引きつつこうしたタテマエとホンネの対立関係の怪しさを主張する。タテマエに対するホンネと言われる言葉は、しばしば露悪的である。そして同時に、それを発することで他者に権力を行使したり、その場の空気をコントロールしようとする目的意識を含む。「ホンネは、じつは演技的=操作的な権力性を帯びており、ホンネで語る男たちのホモソ―シャリティを強化してしまう」(p. 154.)。これに対する本心とは、ホンネにあった発言の効果を意識するという目的意識を欠いた、「言葉をちゃんと聞くことがポイントとなる」(ibid.)言葉である。本心による会話では、他者の言葉を、そして自分の気持ちを、耳を澄ましてちゃんと聞くことが目的とされる。「本心とは、他者関係の中で互いの声に静かに粘り強く耳を澄ませることで、いわば協同的に[中略]発見されうるものだ」(p. 155.)

 発話者による他者への権力の行使を目的とするホンネと、他者との協同的な営みの中で発見される本心という概念対が形成される。熊谷の原典に当たっていないのではっきりしたことは言えないが、杉田の紹介するところを見ても、ホンネと本心の重要な違いは、他者に対する権力行使やホモソーシャリティの強化といった悪よりも、ホンネが結局のところタテマエと同程度には紋切型であり本心はそうではないという点にあるように見える。ホンネは概して露悪的である。それは「ホンネとはタテマエに対して露悪的なものでなければならない」という要請がホンネを語るにあたってあらかじめ働いていることを意味する。タテマエに対して自由な本心を語りうるかと思われるホンネは、しかしタテマエが一般にそうであるのと同様に、あらかじめ規制されている。これに対して本心、本心として語られる言葉は、タテマエともホンネとも異なり、発話者がどう思っているのかということに正確に言葉を与えたものである、と理解することができるだろう。ホンネと本心の構成上の最大の違いはここにあると私は考えている。

 然るに杉田はこの概念対から自生的/既成的という観点を抜き取り、正しさ(悪)とその欠如という対立から見ている。本心は正しく、ホンネは悪しい。それで構わないのだろうが、そうした区別はまさにタテマエめいており、ホンネと同様にあらかじめ規制された意識の領域を出ない。

 雨宮も杉田も、葛藤と「回答」、ホンネと「本心」という二項対立的概念対を提示し、後者の象徴する正しさに左袒しようとしている。そこでは既に正しさは決定されており、その正しさは概ね同時代人の常識的意識に合致する。しかし、同時代人の常識的意識にのみ合致しているこうした正しさの言辞によって、常識的意識から逸脱した人間と建設的な対話を試みること自体、果たして可能と信じられるものだろうか。


備忘録。

 ホモソーシャルのミソジニーな絆と欲望は正しくない。英文学者イヴ・コゾフスキー・セジウィックによって定式化された男社会のホモソーシャルな絆は悪しい。そんなことはわかっている。生憎と(?)、一連のフェミニスト・パースペクティヴが既に不可疑なほどの常識となった世界を、新世紀に育った私たちは、いや正確な表現をすれば私は、生きている。そんなものは常識以外のものではなく、その常識の領域内で何が言われたところで、月並みな反復以外のものが私には見得ない。それはあまりにも正しく、論証するまでもない、少なくとも私にとっては。「一体いつまで、この現代の権威的な論客達は、月並みな常識の反復をしているんだ?」というのが、新世紀育ちの正直な感想であり、そこには何の面白みも新規性もない。


・正しさへの恭順に対する反発の意識としての「ゴシックハート」……高原英理「13 差別の美的な配備」(『ゴシックハート』ちくま文庫版)


 直前に、正しくないことを正しくないと言うだけのことなどあまりに月並みである、と書いた。冒頭で「「憎しみではなく怒りを」と語るのは、あまりにも正しい。正しさとは畢竟一個の規範への恭順であり、規範への全面的な恭順は一種の「修正全体主義」を意味する」と書いた。この「修正全体主義」という見慣れない語は高原英理『ゴシックハート』新版所収の「差別の美的な配備」に見られる。

 冒頭、ゴシック者が愛好する非現実的な物語の成立条件としてしばしば差別的状況が用いられるという点で「ゴスの差別好き」を指摘する高原は、近代における差別の極点としてヴィクトリア朝時代を挙げ、都市と村落、貴族と従僕、栄光と悲惨……の残酷なまでの対比が存したことを述べる。次いで、日本でも1930年代にヴィクトリア朝期と同様に甚大な差別・格差の生まれたこと、後続する「戦時非常体制という、最も非ヴィクトリア朝的システム」を経て、敗戦後の1960年代には「民主主義と自由平等への疑いのなさ」、「世界は左翼的発想による社会変革の方向に向かっていてそれはもう止められない」という「固定観念」が人民に広く共有されるに至ったことを語り起こす。富の極端な偏在に反対し、再分配を旨とし、欺瞞と差別に敵対し、誠実と協和と平等を目指すことが、社会主義と資本主義という世界を二分する陣営の東西にかかわらず支持される。その支持は国家主義的な強権を伴なうものではなく、むしろ主権者たる人民が己の権利を少しずつ、時には富や階級の違いに応じて、すすんで放棄し、互いが互いを鉄鎖に繋ぐという方法で、達成される。この自発的に、強権による強制無しに己の階級や富に基づく利益を少しずる放棄し、階級や差別や欺瞞を消滅させようとする、非ヴィクトリア朝的志向を持ったシステムを、高原は「修正全体主義」と名付ける。倉橋由美子や三島由紀夫をはじめとする「反時代的」文学者達は、こうした「世界全体の流れとしての「民主平等」」、「世界全体の流れ」という「錯覚」に――当時それは「錯覚」とは思われていなかっただろうが――反発し、観念として共有された善を求める修正全体主義的=非ヴィクトリア朝的意識とは対極な「栄光と悲惨」を志向した、と言われる。

 ゴシック者も非現実的物語の構成要素としての差別を愛好するのだが、しかし現実の社会について言えば――自分が最高身分に属する保証を得てのことであればともかく――あらゆる差別が自明視されるよりも、少なくとも建前上は自由平等を旨とされることを求める。この傾向性は2022年現在に至っても変わらないだろう。したがって多かれ少なかれ現代の読者は1960年代の修正全体主義の影の中にいることになる。この点について1960年代当時を知る高原はやや違った、いや正反対な見方を取っている。

 2022年の文庫に再録されたこの文章は元々2008年に書かれ、高原はこうした1960年代の時代状況を「現在とは見事に正反対」と評価している。「二〇〇一年以後、それへの肯定否定は別にして、まるで六〇年代的世界観を反転させたような、つまり、より一層差別的な方向に世界は向かっていてそれはもはや止められない、という認識が主流になった」。高原はこの引用の少し前の注記で2008年と2022年の状況をそれほど変わらないものとしている。したがって2022年においても変わらず「より一層差別的な方向に世界は向かっていてそれはもはや止められない、という認識」が主流であり続けている、というのが高原の2022年の日本についての判断であると言える。

 新自由主義の隆盛は、確かに2022年現在に至るまで、同時代の主潮として見出されうる。しかし、2008年と2022年の間に勃興した諸々の新思潮は、こうした新自由主義的思潮、富める者をより富ましめ、強い者により強さを与える、差別を是とする思潮に真っ向から反対している。それは例えばハリウッドにおけるポリティカルコレクトネス(「政治的正しさ」!)の台頭や太平洋両岸で活性化する#MeTooムーブメント、極東アジアに限って言えば『82年生まれ、キム・ジヨン』のベストセラーをはじめとするフェミニズム文学の受容の拡大である。権力を持たないマイノリティに対する各種の「同盟アライ」が組織され、既得権者が恣にしていた横暴を糾弾し、語られてこなかった差別を明るみに出す一連の運動が2010年代特にその後半を通じて環太平洋的に隆盛した。一連の運動は、新自由主義やオルタナ右翼に対する重大なアンチテーゼとして捉えられるだろう。少なくとも私の目には、こうした動きはそれなり以上に大きなものであるように映る。

 最終節で高原は言う、「差別を糾弾することなど誰にでもできる」。正しいとされることを反復するなど誰にでもできる。それは羊にさえできることだ。そして「ただ非難して終えてしまえるような問題はもともと本質的なものではない」。醜いものは醜い、美しいものは美しい。その認識がすでにあらゆる差別の萌芽を含んでいる。ならば、「敢えて最悪の、差別の美しさ甘美さ、その忘れ難さを、アーティストたちは存分に見せつけてやればよい。アートの本当の意義は、前に立つわれわれ自身が、決してその外部にいるのではないと知らせることだ」。

 高原は末尾にあって激烈な怒りを表明している。「上品かつブルジョワ左翼的でリベラルらしさを装う態度がいかに世界に無力か、美的様式に向けて人の意識は、「いや、これは別」という言い訳のもと、どれだけ容易く「ずる」を行うか、それを我がこととして意識もしない者たちを私は許さない」。

 差別を糾弾するとき、また差別者を「あいつら」として名指すとき、糾弾し名指す「わたしたち」は「あいつら」とは本質において異なった者として捉えられている。そこに欺瞞、「ずる」がある。

 高原はアーティストに特に局限して語っているが、これをもう少し広くとることもできる。正しさとして反復可能な言辞になったとき、既にその主張の生命は終わっている。後に残るのは繰り返されるシュプレヒコール、ハッシュタグ、常套句、紋切型であり、そこにはいささかの機智ヴィッツ精神エスプリも無い。

 正しさを語ってそれが呑まれるなら、それを吞ませるだけの権力を、発話者や発話内容が持っているというだけのことだ。政治的権力を持たない人間の武器が、あるいは権力と関係抜きに機能する武器が、理路であり修辞であり機智であり精神である。この一連の技巧が、正しさと悪、ヘイトとアライの、臆見によって引かれた分割線を踏み越える契機である。この契機を欠いて通用する正しさは公式的な、既に常識としてその権威を認められたものに過ぎず、常識的意識から逸脱した人間の心を掴み発話者に向き直らせるに足りない。

「怒りを」と言うのならば応える、これが私の表明する怒りである。私は許さない、しかし高原英理のように許さないのではない、常識的意識に合致するだけの修正全体主義的正しさを私は許さない、なぜならその言葉は最も届くべき者に限って届かないにもかかわらずあぶくのように膨張するからである。

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