教祖の哲学? ――あるいは託宣の哲学
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェのアフォリズム群……『ツァラトゥストラかく語りき』『華やぐ智慧』『偶像の黄昏』『力への意志』等々……は20世紀に入ってからというもの独仏国境の東西を問わずよく読まれていたようで、1968年のフランス五月革命に影響を与えたとされる同地の思想家たちにも大きな影響を与えていたと言われる。「ニーチェの著作が、60年代、70年代のフランス哲学、特にミシェル・フーコーの仕事において持っていたはずの重要性を確認しよう」とリザ・シュタイナーは「アンチヒューマニズムの時代に」(メディチ後藤スカイ訳、『REBOX3 特集=ウエルベック』p. 35.)で述べているが、フーコーはどちらかといえばニーチェの前期著作に大きく影響されている(系譜学という発想は言わずと知れた『道徳の系譜』に由来するものだ)。このミシェル・フーコーの名前を例えばジル・ドゥルーズにすれば、よりいっそうニーチェの中後期の著述と関係してくる。
アフォリズム群は――彼のもののみならず一般に――、敢えて悪し様に言えば、その一貫性の欠如によって特徴付けられている。「時には託宣のような不可解で曖昧な命題を投げつけ、それに取り組んで明快な命題に翻訳し、適切な例を挙げ、その意味を論理的に証明しろ、と読者を徴発する。通常の学問的な手続きにおいては、著者が命題を公式化し、さまざまな議論によってそれを裏付けるわけだが、それとは対照的にラカンはしばしばこの仕事を読者に委ねる。いやそれだけではなく、読者は、ラカンが次々に繰り出す互いに矛盾した命題の中から、どれがラカンの本当の命題なのかを決めなくてはならず、託宣のような公式の真理を忖度しなければならない」――いや、これはジャック・ラカンのエクリに関するスラヴォイ・ジジェクの評だった(スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』p. 218.)。しかし曲りなりにもまとまりのあるものについてすらそういうことになるのだ、いわんやまとまりを持たない警句群についてをや、という次第になる。警句から思惟を取り出そうとするとき、人は託宣を前にした門徒の顔をするより選ぶところがない。
坂本安吾に「教祖の文学」という短文があり、これに託けて「教祖の哲学」とでも言ってみようかと考えたのだが、しかし坂本が上で批判するのは解釈者としての批評家としての小林秀雄である。小林秀雄はかれ自身が託宣を与えるのではなく、託宣の読み方、正当な解釈を門徒に教える者として語られている。与えられた読み方についてははっきりしている。「小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ」云々。……だから小林秀雄は上のジジェクの文章で言う「読者」にあたる位置にある。読むべき対象は別にあり(世阿弥、骨董、その他)、小林秀雄が達人的な腕前でそれを見、読む。その読みを語る。彼はやはり託宣を発するのではなく、託宣の読者である。しかし同時に彼は権威ある読者でもあり、彼の読み方は権威を持っているので、その読み方を習いに人々が訪れ、彼は教祖となる。
すると「教祖の哲学」と言おうとされた事柄は、むしろ「託宣の哲学」と呼ぶべきものになる。ジジェクのフレーズそのまんまで心苦しいが、そう表現するのが最も適切なのだから仕方がない。「教祖」小林秀雄によって読まれるべき託宣として、ラカンのテクスト(エクリ、written)は位置付けられることができる。託宣は時に矛盾し、謎めいている。これを読解するには独特の技が必要とされる。
別件になるが、坂口安吾の「教祖の文学」は「あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ」などと、「余り自分勝手だよ」などと、いささか人格が文面に出過ぎている、というか口語的に過ぎる。この話し言葉に傾いた性格というのはあるいは小林秀雄の一部の文章でも見受けられるものであるか知れない(坂口は生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例ためしがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」と「無常といふこと」から引用している。「仕方のない代物だな」、「してみると、……かな」、口の端から飛ぶ白い唾が見えるようで私はこうした文体を憎む。あるいは芥川龍之介の物ばかり読んでいた時期があったのも、彼がスタイリストとしてこうした話し言葉めいたものを極力排除するところがあったためかもわからぬ)
また彼は文学なるものを称揚する、その文学称揚の態度も、もうずいぶん前の文章なのだから当たり前だが、些か大時代に過ぎる。少なくとも現代人の多くはこの坂口安吾ほどに文学なるものの機能を信じることができないだろう、いや正確に言えば私には彼ほど文学を称揚することはできない、「人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。」と言うことはできない。
曲がりなりにも多少とも真面目に哲学史を眺め渡すと、「そのように思考することが可能であるか否か」とは別に、「そのように思考することが私には可能であるか否か」という軸が浮上してくる。あるものの場合にはできるし、別のものについてはそうすることができない。いや、正確には、そう思考すること自体はできる。そのように考える際の理路がどのようなものであるかを理解することはできる。しかし、そうした理路が何らかの意味で真であると信じることが私には可能ではない。ということが問題になる場合が確かにある。それは白豪主義であり女性主義であり、横田弘の障害者エゴイズムの理路についても、そう考えることができてもそれを真実と信じて考えることは私にはできない。裏を返せば、真実と信じることなしに考えられる事柄が確かにある。
あるイデオロギー、アイデアとロゴス、すなわち理念と言葉が目の前にある。その理念が発生した土壌、白人や女性や障碍者が置かれた実存的状況を「理解する」ことは私にはできない。おそらく、語義やアイデアとは異なり、状況とは「理解」される範疇ではないのだろう……それは「生きられる」ものであり、生成に属し、知性的理解にそぐわないものである(そしてこの非知性的なものの劣位を覆し、非知性的なもの=感性的なものを表現する言葉を案出したり、あるいは知性的なものと感性的なものの境目にあるものthe sensual, le sensuelに言葉を与えたりする努力が、例えばドイツ語圏における生の事実性の分析であり、フランス語圏におけるJLナンシーの業績であったりしたのだが、今は措く)……しかし理念は解されうる。理解されうるのはただアイデアのみである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます