自分のことについて書く

 何かについて思いを抱き、それを文章にして表明する前に、そう思いを抱き言語化していく自分について明確に言葉を与えておいた方がよいのではないかと思い、これを書く。


『レヴィナス読本』のil y a:平均的理解


『レヴィナス読本』を買った。さっそく術語紹介の章のil y aのページを読むと、1940年代の著作の中で扱われたこの概念について手短に要約されている。峰尾公也はil y aを怠惰や疲労の分析と、また「逃走論」の吐き気の分析と結び付けて、存在者が存在するという事実の苦痛mal du fait d'etre de l'existantについての術語としてil y aを理解しているように見える節がある。この存在するという事実の苦痛としてのil y aは、ハイデガーの現存在の「存在」(気遣い)、すなわち存在者の存在とは異なっている、と言われる。il y a概念のハイデガーとの対比という点が強調されている。

 この記述では『形而上学では何か』における不安の分析、また『ヒューマニズム書簡』におけるes gibtの議論についてそう多くまたはっきりとふれられているわけではない……と書こうとしていたが、しかし見返したらしっかりと触れられていた。ハイデガーの不安は、不安を感じる現存在じしんが大きな変容を被ることはない、不安は不安でも、せいぜい不安どまりである――日常生活を中断することはあっても、意識におけるその条件が破壊されることはない。しかしレヴィナスが語るil y aは、それに意識が曝されるや、日常的な意識、普段使っている、使い方を承知している物に囲われ、自分の身体の個々の部分の位置もしっかり認識して把握している意識が壊滅する、破壊的な性格を有している。

 しかしハイデガーがes gibtについて語ったのはヒューマニズム書簡だけなのか。彼の書いたものを、またレヴィナスがハイデガーについて書いたものをもっと多く読んでおく必要がある、あった。そうなると精神分析をはじめ1960年代後半以降のフランスの知的流行にかかわっている時間は少ないか、無いことになってくる。残念なことに、知識人や思想家、批評家としての興味は自分には乏しく、むしろ哲学史家に似ている。本当は全部読めればそれに越したことはないし、そのくらいするべきなのだろうとしても……美学の本も多く残しているのだった。


il y a の暗闇:誤読と実際について


 そもそもなぜあれほどまでにil y a概念にこだわったかといえば、il y aの夜、暗闇、と言われるとき、それは苦痛の原因となるところの一切の事物や人格を欠いた暗闇に似ているからである。il y aは何よりもまず、一切の事物や人格(personne, 人物)の無への回帰ののちになお残る「何か」として定義されている。この「何か」、何もない(不在)という事実の意識への現れ(現前)を――そこからの存在者=意識の出来を語るための前段として――語るための修辞的表現としてレヴィナスは夜という措辞を用いたのだが、その夜、暗闇は、干渉しようとして結局は苦痛を生む事物や人物を欠く、すなわちマイナスが無いという点で、理想的な無として自分にはとらえられた。

 このことはレヴィナス自身の記述とはかかわりがない。彼は夜という修辞の他に(似ているが)歩哨や不眠の経験をil y aに曝される意識の類似例として挙げている。明かりもない夜にひとり命じられて立ち、暗闇の奥を見張る。見張るべき者が常にいるわけもなく、しかし立っていなければならないので、ほとんどの場合歩哨は夜の暗闇、目の前には何も見えないという無に曝され続けることになる。真っ暗闇の場合、立っている自分の手や足さえも見えないということがありうる。少なくともil y a、事物の不在に曝されきった意識について言えば、その意識主体がふだん自分のものとして用いている身体がそこにあるという視覚的認識さえも遮られ無いものとなる、とレヴィナスは考えているようである。他人がいなくなるというどころではない、より過激な無の経験がil y aであると言ってよい。

 また独特のエロス論でも知られるようにレヴィナスはとりわけ親密な他人との関係を快と結び付ける傾向にあり、親密な他人などいないし関係は苦痛であるような自分は彼の良い読者ではない。そもそもil y a自体が(くりかえすが)il y aという現象学的無に曝される意識がなお個体化しているとして存在者(意識を持つ存在者――人間?)の個体化の契機を論じるための前段であり、これにかかずらうということ自体が彼の読解としてはあまり良い道ではない。

 お話にならないほどの実存的な読解なのだが、それしかできなかったのだからもうどうにもならない。

 il y aは煎じ詰めれば「不在の現前」であり、そこには何も無い、と言った。しかしその無いということは、決して物理的にあらゆる事物や人物が抹消されたということを意味しない。無への回帰というはあくまでも意識に現れるものが無いということを意味する。歩哨の意識がil y aに曝されるというのも、決して歩哨の三歩先の地面が消えていたり、彼の視線の先には見張るべき何者もいないということを意味するのではない。地面はあり、見張るべき対象が現れることもあるのだが、それがあるということ……地面の知覚や見張るべき対象そしてその対象が隠れている木々などの知覚が、夜の歩哨においては、光のない暗闇のために得られない。対象が意識に現象しない。それは物理的無ではなく現象的無である。


心地よい暗闇の原像:舞台上の演者の意識について


 この、心地よい現象的無――だから心地よいと感じるのは私でありレヴィナスはそう書いていないのだが――はなぜ心地よいか。振り返ると、その暗闇は舞台上から見た客席の暗闇に似ている。

 高校で演劇をやっていた。素人演劇でろくに呂律も回らないひどい台詞回しだったが、何かと面白がられた。うまいこと観客を笑わせて笑い声がどっと響いてきたり、カーテンコールで拍手を浴びるのは気持ち良かった。

 何より舞台上で強烈な照明に照らされながら照明の落された観客席に向かっていると、こちらを見る観客の顔はほとんど見ることができない。演者は明るい舞台に立ち、暗闇に向かって演技をしている。ひとりひとりの視線がこちらに向いているのかもしれない、向いているのだろうが、しかし見ているひとりひとりの目をこちらは見ることが出来ず、意識もしない。観客ひとりひとりの顔が演者の意識に現象せず、舞台の上がり框の向こう側の暗闇に向かいあって演技していることを、これは意味する。il y aの心地よい暗闇の原像は、おそらくここにある。

 ……こうした事柄については、個人の来歴や自分自身の実存的身体にあまりにも強く紐付けられているため、現実に存在する自分をよく知る人々がいる場で書くことができない。書くことができないと思うのは単に私自身がそうできないほどにshyだからで、私は自分の過去というものをおよそ恥の積み重ねだと思っている節がある。

 本当は未だに『存在の彼方へ』に目を通してもいないことにこれ以上ないほどの大きな問題がある。一度目を通すだけでもいい。何しろ1970年代のこの著作の中ではふたたびil y aが主題的に取り上げられているのだから。1940年代との違いを見るためにも、全体に目を通していくに越したことはない。

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