兼子「メモランダム」(『告白』)を読んだ
サークルRose Budのニューカマーによる小説を読んだ。リンクは↓。Discordで書いても良いが長くなるし長い文章はDiscordでは見づらくなるのでこちらにアップロードする。
https://kakuyomu.jp/works/16817139558760716221
ごく短い自叙伝あるいは自叙伝のための覚え書きというていの小品(実際題名は「メモランダム」である)。各節の内容を整理しながら書く。
まえがき風の第一節は以下の文章を書くことになった経緯と、その文章の性質についての断り書きから成る。小説を書けという依頼が来て、じっさいに書くために自らの文章を書く経験、中でも「私の人生のうち、もっとも感受性が豊かであったある時期」を振り返ろうという趣旨が書かれる。また、あくまでも小説を書くための前段階、メモ書きであるから、時系列の錯綜や。その上で「何らかの印象や感想を抱いていただければ幸いに思う」と言われる。
第二節は語り手の母親のプロフィールが導入される。母親の指導の下で種々の読書感想文のコンクールに作品を提出することが夏の風物詩となっていた語り手の家庭では、語り手の母親が息子(この時点では性別は言明されないが、後の第五節で言われる)の感想文について多岐にわたるアドバイスを与える。
母親による読書感想文指導は中学三年の時まで続くと言われる。高校一年のときの読書感想文という核心への布石が打たれる。「このような、母の一連の指導は小学生の頃に始まり、中学三年の夏まで続いた。」
第三節では語り手の住む北九州のマンションと、両親の干渉が語られる。マンションは北九州の西の方に位置し、子供部屋にはIKEAを彷彿させるメーカーの木製家具が置かれる。両親は母親が読書感想文を熱心に指導する以外にも、例えば年々の自由研究など、息子の夏休みの課題にたびたび精を出した。「私の夏休みの課題を手伝うというのは、両親にとっては、どこかに旅行に行くというのと同じくらいに重要なイベントであった。」
第四節では、まず三節の自由研究への親の手伝いから翻って、日々の家事における息子の手伝いについて言われる。主たる部分は小学校入学から中高一貫の私立校への入学という次第と、その私立校がある福岡市内の地理に費やされる。北九州から福岡へ通うこととなった語り手にとって、「中学高校六年間、実家のある北九州から離れる事が重要であった」。長い通学時間はそのまま語り手一人の自由な、他から解放された時間になった。
第五節では「親との関係」とりわけ母親の思い出が語られる。一つはまだだいぶ幼いころ、語り手が勘違いによってベランダに締め出すという罰を加えられて、その誤解に母親が気付き息子を抱擁したというもの。かなり古い時期のものであるのか、この挿話については語り手は断片的な記憶しか持っていない。今一つは反抗期に入ったころ、いさかいの中で母親を突き飛ばしたとき、彼女の肉体がまったく軽く薄い中年女のそれでしかないことに気付くくだり。時期を見ると、「私にとってのそれは中学三年生の秋あたりに唐突に来た」とある。母もまた息子の肉体的力を観念し、その様子は「母の声音や表情の奥底に、どこか諦念とも覚悟ともつかない色が覗く瞬間」として語り手にも知られる。
第六節――以降、やや時系列が錯綜してくる。はじめは高校一年生当時かと思ったが、第十節の内容と照らし合わせれば――高校三年の読書感想文。課題は小川洋子『果汁』。前節の反抗期のくだりを受けて、母親の手を借りずに書いてやろう、これまで母から教わった技巧とは正反対のものを書こうと語り手は決意する。肉体とともに精神的な側面でも母親を追い抜こうとする語り手の意識が言われる。
「もう私は高校生なのだ」と言われ、一見すると高校一年当時の話であるのかと思われる。しかし第十節の内容に鑑みて、これは恐らく高校三年生の夏のことである(第十節時点で「お前の読書感想文は良かった、高校の年一回発行する雑誌に載せたい」「今年の文章は、お前が書いたのか?」と言われるとき、語り手は高校を卒業し上京と大学入学を控えている)。なぜ三年近い空白が、わかりづらくも、しかし実は、空いているのか? 第七節以降は語り手が読書感想文から離れるに至った経緯が語られる。しかしこの第六節の時系列上の位置は、明記してよかったかもしれない。
第七節。母親に勧められて、あくまで賞品の万年筆欲しさに、松本清張の名を冠した読書感想文コンクールに応募することを決めた語り手は(事実上母親が書いたような読書感想文で)優秀賞を受賞する。この出来事の時系列ははっきりとは言われない。しかし節冒頭が「中学に入学してからというもの、私は松本清張という名前にうんざりしていた」であること、優秀賞受賞の一件にふれる文章に続く段落で中学二年の頃のことに言及していることに鑑みて、中学一年のときのこととみてよいだろう。……中学生になったころから「母親が赤入れした原稿の存在が周囲にばれることの恐怖」「私の「才能」への疑念」が語り手の心裡に芽生えた。感想という内容についてはともかく、技術的な面では明らかに母親の手を借りた文章で自分が評価されるということに対する負い目が言明される。第六節を受けて、その心理的な動機の根が時間をさかのぼって語り起こされている……と見て良いと思うのだが。
第八節。中学三年の時分のことが語られる。一年の時と同じく松本清張の作品が指定されるが、語り手は一文字も書くことができない。結局この年の読書感想文は、それまで内容の部分については自分で書いていたところまでも母親の手になり、語り手はまるっきり母親の手で二度目の受賞を果たすことになった。
第九節。高校に進級した語り手は部活動を始めることを決める。写真部だろうか。読書感想文、文章、の世界とは遠ざかる。
ここから三年近く、語り手は読書感想文を書かない。そして高校三年の夏に今一度書き、「今年の文章は去年とだいぶ違う」と言われる……しかしどうも何かがおかしい気もする。この解釈はどこか間違っていないだろうか?
第十節。時系列が高校三年の時分に戻る、第六節の後である。教師Sは初めて語り手が独力で書いた読書感想文を(その背景は知ってか知らずか)よく書けていると褒め、高校の年刊誌に載せたいと打診する。この時点で語り手は高校を卒業し大学入学を控えており、その状況は「卒業生であり新入生でもあり、不合格者でもあり合格者でもある」(後者は第一志望校の不合格と第二志望校の合格を指す)と言われる。「卒業式以来あっていない教師に最後のあいさつにでも行く事を思いついたのは僥倖であった」。だからこの「今年」は高校三年で、「去年」は高校二年のはずだ。
*
第六節の要約にて、第五節の肉体的な成長の提示を受けて精神的な野望に触れられている、というようなことを書いた。しかし叙述の順序としては直前の肉体的成長から精神的なそれへという順序になっているのだが、語られる内容の時系列としては上のエピソードは中学三年の秋であり、第六節は同年の夏の初めになる。語りの順序を意識して読解しようとすれば、肉体から精神の成長……ということになり、結局はそれが無惨にも破壊されるという結末に往着するのだが。
*
中学三年の夏、語り手は読書感想文に全く手を付けることができなくなり、全てを母の手によって書かれることになった。恐らくその事情は高校一年、二年でも変わりなかった(変化が無いのでわざわざ語らなかったのだ)。六節の「もう私は高校生なのだ」という表現が浮くように思われるが、全体の構成を眺めるとそう解釈するのが最も通りが良い。
もとより覚え書きであり、時系列の錯綜や言い落とし、読みづらさに文句を言うことはできない。しかしこの「メモランダム」は最も語るべき核心部分、高校三年の読書感想文執筆のくだりを回避しているのではないか。こう解釈するのは、「私の人生のうち、もっとも感受性が豊かであったある時期」について語るという冒頭の言葉と矛盾しそうではある(いま書かれている部分を読めば、自分の感想というものを書けた中学生時分と、それもできなくなった三年生以降……という対比があると見える)。しかし多くを回想部に占められる本作は、同時に小説を書くにあたっての準備としての告白であり、私小説風になるにせよ、虚構性の高いものになるにせよ、語り手の書く小説はこれから書かれる。その主たる内容はこの高校三年時点の回想になりはしないか? 筆者はこれを待ち望むものである。
*
追記:Twitterより
>ひとつの下降の道行きとして挫折と依存状態が語り起こされた。いまひとつの、上昇の道行きとして、語り手の独力による一文章の完成までの経緯があるはずで、そこは未だ語られていない。「もう私は高校生なのだ、いい加減読書感想文位書けるぞ」という前段を受けた前振りの技巧は十二分に機能している。
>技巧面では大きな問題があるとは全く見えない、シャンとしているのだから、あとは書くだけですよ! と思われてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます