批評について その2

>批評行為の必要性というのはシンプルな話で、それは前提として権力や既存体制への最低でも中立、できれば反対の立場を取るということで、

>これを間違えて、自分に親和的な概念を批評するのは、それは擁護であって批評(つまり批判的視点をもっての評価)ではなくなるのだから

>これは民主主義が前提として自由な言論を建前として持つ必要があることと同じで、構造上求められる一種の宿痾であるように思われる

>つまり、批評とはあくまで批評対象のバックボーンに対して、少なくとも論を展開する上では中立もしくは反対の立場を取らなければならない。

>そういう意味では、最初に出てきたボカロマゾとは既存の感傷マゾ論壇とボカロ文化に対する批判的見地や中立的立ち位置が明示されない以上、これは批評行為ではないと断ずることができる

>それは擁護、称賛、崇拝、賛美であって批評行為ではない

>こうした東浩紀フォロワーのオタク的批評は、恐らく批評的ジャーゴンの使用が批評というバックボーンを持つ以上、中立もしくは反対の立場を持つと考えてしまうのかもしれないが

>正確を期するならば、彼ら俗流批評のバックボーンとは得てしてオタク文化に親和的である以上、それは賛美の域を出ないだろう

>つまり、俗流批評(批評という語彙とは別枠のもの)の世界観の中に他の要素を持ち込んで、それらを補強することこそが俗流批評の目的であり、これは批評論壇における卓越化レースであると言える

>そのため、仮に我々が『真の批評』を標題として掲げて批評行為をおこなうのであれば、批評が批評対象のバックボーンから中立もしくは反対でなければ批評行為は批評としての価値を持たないというテーゼを明示する必要がある、という結論が導き出せる


 論壇の形成および論壇と自己の卓越化を第一義とする言説の生産を批評と呼ぶことができるだろうか、という修辞疑問として要約できることを文乃綴は上で言っている。対して批評と呼ばれるべきものがあるとすれば、それは批評の対象の分析を第一義とするものである。分析の態度が保守的か革新的か(?)はそれほど大きな問題ではない。ただ、できればこれまでにないものを提供した方がよい。これまでにない新しい要素を持った批評は特別なものとして読まれ、生き残るだろうから。

 俗流批評については、一つのパラダイムが既に形成されて、その中でのみ回っているな、という印象は受ける。「既存の観念体系(つまりパラダイム)の制度疲労が露になってくるときには、それが現在もなお有効と我々は信じうるかという点で吟味が必要とされるから、いわゆる批判的思考力、批判の力は大いに必要とされる」のだが、俗流批評は既存の観念体系をのみ用いているため、批評というより科学的な印象、細分化され形式化された言説の集合という印象を受ける。 あくまでも印象の問題であるからどうせ大したものではないとしても……。

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