■02: グラスホッパーマウス(1)

「ありがとう、ございました……」パトリシアが覇気のない声で言った。


 パトリシアは事務所階下のコーヒー豆ショップのカウンターに立っていた。

 黒いパンツと白のブラウス、茶色のエプロン。どう見てもバイトの高校生といった雰囲気。試飲用のコーヒーを淹れ、豆を量って袋に詰める、そういう仕事。客入りは少なく、その数少ない客もリピーターばかりだった。買う商品ははじめから決まっていて、パトリシアは店長に言われるとおり、豆を計量するだけだった。店に立ち始めてから三時間ほど経つが、焙煎機を眺めている時間のほうが多かった。



「愛想よくしろ、とは言わないけど、男のお客さんを睨みつけるのはやめてほしいな」店長が穏やかな調子で窘めた。


 店長は先日の女性店員だった。名前は蜂須賀凪子はちすかなぎこ。アップにしたコーヒー色の黒髪、穏やかで清楚な空気を纏っている。人に言えない仕事に就いているとは思えない印象を与える人物だが、「組織」の情報部に所属するエージェントだ。情報収集が主な任務で、パトリシアたちとは役割が異なる。形だけだが、この支部では一番偉い人員でもある。


「……すみません」渋々謝った。


 パトリシアは、服や髪の毛に染みつきつつあるコーヒーの匂いを嗅いだ。嫌いな匂いではないが、一日中浴び続けるのには抵抗がある。率直な話、パトリシアは自分が置かれている状況にいくらか不満を抱いていた。


「あまりこんなことは言いたくないんですけど、こんなことして何の意味があるんですか?」


 パトリシアの疑問は当然ともいえるものだった。書類仕事ならいざ知らず、コーヒーを淹れ、豆を売ることが「組織」の仕事に関係するとは思えない。言葉にこそしないでいたが、失敗の罰ではないか、と考えずにはいられなかった。初仕事の失態もそうだが、つい昨日の仕事でも敵と対峙した際に引き金を引くのを躊躇っただけでなく、効果のある射撃ができなかった。これは誰の目にも明らかな失敗だった。


「意味はないわ」蜂須賀がさらりと言った。


「……え?」気が抜けた。「――もっとこう、社会経験的なことを言われるかと思いました」


「それで納得できるなら、そう言うけれど。自分が思ってもいないことを言って何も知らない新人さんを丸め込むのは、不誠実じゃない?」


「それはそうかもですけど」


 だったらなんで、とパトリシアは口には出さず表情で尋ねた。


「敢えて言えば、あなたを本来の仕事から少し遠ざけて、クールダウンさせたいって気持ちはあるかもしれないわ、彩乃ちゃんはそう考えてる」


「先輩が……」しゅんとする。


「わたしはパトリシアさんみたいな可愛い子にお店に立ってほしかっただけなんだけどね~」のんびりとした調子で言った。


 蜂須賀の言葉に、パトリシアはムスっとした顔で見返した。可愛い、と言われたのは十年ぶりくらいで、どう反応していいのかわからなかった。

 そのパトリシアの様子を見て、蜂須賀は目を細くし点頭した。


 パトリシアは戸惑い、照れながらも尋ねた。「……あの、聞きたいことが他にも――」


「なーに?」


「えっと――」一瞬、言葉がつかえる。「……その、凪子さんは人を撃ったことはあるんですか?」


「ないわ」蜂須賀は腹を撫でた。服の下に拳銃を隠し持っている。


「殺したことは?」


「直接は、ないわね」含みのある返答。


「えっと、じゃあ――」


「わたしは元々は警察だったの」パトリシアの言葉を待たずに言った。


「公安とかですか?」


「いえ、普通の地域警察。いわゆるお巡りさん。色々あってここにいるわけ。だから、パトリシアさん、先に断っておくけど、あなたの望むようなアドバイスはできないと思うわ」それでもいいなら、と続けた。


 パトリシアは真面目な顔で頷いた。


「殺すことに、どうやったら慣れますか?」


「人を撃ったことない人にそれを聞きますか?」困ったような顔で小さく首を傾げた。


「なんでもいいから答えがほしいんです」パトリシアは続けて、それに凪子さんは殺せる人だと思うから、と小さく呟いた。


「そういうことなら……。そうね、一般人の意見としては、慣れる必要はない、むしろ慣れてはいけないと思う。でも、その罪を忘れるなとか、重く受け止めろ、背負っていけと言うつもりはないわ。あなたのアルバムを死者の顔で埋めるのは決していいことではなくて、本棚には限りがあるから、いつか溢れて壊れてしまう。仕事にあなたの心を必要以上に割くことはないの。これは、ウェットワークとか関係なくどんな仕事でもそう」


 真剣な面持ちで、パトリシアは蜂須賀の言葉を聞いている。


「結局は最適な距離感を探るしかない。そしてそれはあなたにしかわからない。抽象的で、無責任なことを言ったかもしれないけれど、こればかりはしょうがないわ。……あとは、そうね――、具体的なアドバイスとしては、お仕事を続けていきたいのなら、ストレスの発散方法を一つじゃなくていくつも用意することかしらね」


「なるほど……」


「何が言いたかったかというと、適度に不真面目にってこと」


 パトリシアは、もう一度、なるほど、と呟いた。



――

 コーヒーショップの上階、事務所では、


「下で新しい子に睨まれちゃったよ」バックパックを背負ったスーツ姿の男が楽しそうに言った。


「怪しいからじゃない?」


「あのくらいの年齢の子にしてみれば、父親以外の年齢としの離れたおっさんは不審者か――、悲しいが間違ってはいないな」そう言い笑った。


「それで不審者さんは何の用?」


 ああ悪い、と男はバッグから樹脂ケースを取り出し、テーブルへ置いた。


「頼まれていたものだ」


「ありがとう、助かるわ」


 彩乃はケースを開けた。

 中にはスマートフォンと通帳、運転免許証が入っていた。パトリシアに用意した一般回線で契約した市販の端末。免許証は二枚あり、一枚は実年齢のもので、普通二輪のみの免許。もう一枚は二十歳になるよう生年月日がずらされ、自動車と二輪が許可されている。住所表記は両方とも彩乃の自宅のものだ。


 活動するうえで必要になるものだった。表向きの身分は自分たちで用意する自由を認められている。裏を返せば、何も用意しないままでは日本国民ですらないということでもある。〝存在しない者〟とはいえ、完全な透明人間というわけにはいかない。


「新人はどうだ? うまくやれそうかな?」


「悪くないわ。むしろ最近じゃかなりいい。腕も、性格も」


「そうか、ならよかった。『学校』での成績だと本部の強襲部隊が適しているとの評価らしいが、コミュニケーションに難があるほどの男嫌いと本人の熱烈な希望を認めてここに配置したのは正解だったか」


「いまのところは」


 猫澄ねこずみがコーヒーを運んできた。男は頷き、カップを口に運んだ。俄かに顔を顰める。彩乃は、砂糖とミルクをこれでもかと投入している。それを横目に猫澄もカップに口をつけ、「まずっ」と呟いた。


「……ところでメールは届いているか?」


「何の?」


「先日の武器取引の件だ」


「いえ」首を振る。「ネコ、届いてる?」


 パソコンのメールフォルダをチェックする猫澄。「ああ、これか。さっき届いたみたいだ」


「詳細は読めばわかるが、ついでだから言っておこう。――先日の武器取引だが、証拠からは元締めを辿れるような目ぼしい情報は得られなかった。捕まえた奴も、本当に何も知らないただの雇われだった。八ヶ月前に退職した家電メーカーの営業マン、二年前に離婚、犯罪歴はなし、まあ普通の男だ。武装していた四人とは当日初めて会ったらしい。チンピラ共の身元は事前情報と差異なく確認できたが、ディーラー側の四人は確定できていない。まだ調査中だが、どこかの国の工作員ではないことはわかっている。そうであったなら、いくらかはラクだったんだが」一息吐く。「ひとまず、男たちの素性は置いておいて、問題はここからだ。取引予定だった武器だが、一箱以外は空だった」


「一箱以外ってことは、わたしが見たのだけが中身入りだったわけか」


「そうだ。証人は中身が銃であることは知らされていたが、空箱で嵩増しした虚偽の取引が行われることまでは知らされていなかった。そして、空箱が最初から空箱だったならそれで終わりなんだが、分析の結果、銃器と弾薬、プラスチック爆薬が入っていた可能性が高いことがわかった」


 2トントラック一台で運べる量の武器が行方知れずになっていることになる。容器や梱包材、緩衝材の類を差し引けば、武器弾薬の量はそれほど大量というわけでもない。しかし、それらが個人に出回るならまだしも、組織的に思想を以って運用されたとしたら惨事は免れない。それに取引は今回の一件だけとは限らない。この前にも後にも「組織」が情報を掴んでいない武器取引などいくらでもあるだろう。


「大変ね、忙しくなる」彩乃は他人事のように言った。「ああ、そうだ。同じ日に潰したヤクの売人とは関係ある?」


「なんとも言えない。やりとりを調べたが共通点は見つかっていない。まあ、アドレスや履歴はやろうと思えばどうにでもできるからな、その辺は情報部に頑張ってもらうとしよう。現状、背後にかなり大きな組織があるのは間違いないだろう。武器の流通を担当するチームが複数存在するような。場合によっては、傭兵紛いの連中が出てくるかもしれない」


「さすがにそこまでいくと、ウチらの仕事じゃないぜ」猫澄が横から言った。


 違いない、と彩乃は同意した。

 戦いは自分たちの本分ではない。するのは殺し合いではなく、殺しだ。


 男が、そういえば、と思い出したように尋ねる。「三日月みかげ、一昨日秋葉原に行ったかい?」


「いや。一昨日は渋谷から出てないよ。新人ちゃんの買い物があったから」


「そうか。じゃああれは似た人ってことか、見間違いか」


「世の中にはそっくりな人間が三人かそこらいるって話だしな」猫澄は物知り顔でしみじみと言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る