■01: ウェットガール(E)

 パトリシアは目を覚ました。見覚えのない部屋で、ソファに横になっていた。

 掛けられたブランケットを捲ると、服は脱がされ、下着のみになっていた。下着姿よりも、手術痕で飾られた綺麗とはいえない身体を見られたことのほうが、パトリシアには恥ずかしく思えた。


 身を起こし、辺りを見回す。場所は十五畳ほどの広さのリビングダイニング。様々なテイストの家具がまとまりなく置かれているが、傾向としては緑系統のカラーのものが多く見受けられる。少なくとも、昼間に訪れた支部ではない。


 どうしたものか、と少し不安に思うパトリシア。誰かいないかと、もう一度室内を見回す。

 ふいと、カラカラと音がし、戸が開いた。バルコニーから彩乃が姿を現した。


「起きたんだ、よかった」


 彩乃は、パトリシアの向かいのソファに座った。七分丈のパンツに、よくわからない珍妙なキャラクターイラストのシャツ、ボーダー柄のカーディガン、とラフな装い。


 チェリー風味の煙草の匂いがパトリシアの鼻に届いた。嗅ぎ慣れない匂いに、つい、犬のようにスンスンと嗅いでしまった。恥ずかしくなり、視線を落とす。


「服はいま、洗ってる。――ああ大丈夫、何もしてないよ」服は勝手に脱がしたけど、と続けた。


「いえ、すみません。お手数おかけしてしまって」


「いいって。それより荷物、事務所に置きっぱなしだったでしょ。いま猫澄に持ってきてもらってるから」


「すみません、ありがとうございます……」左右を見る。「あの、ここは?」


「わたしの家」


「え……」


 やってしまった、というふうにパトリシアの顔が固まった。頭から血の気が引いたように、熱が冷める。予想はできたが、いざ答えを告げられると、申し訳なさに胸が苦しくなる。


「泊まるところなかったんでしょ? 事務所に泊めるわけにもいかないし。ここなら部屋余ってるから」


「いえ、そこまでお世話になるわけには」


「部屋を見つけるまではここにいればいい。なんなら、お試しでもいいよ。相性がよければ、このまま一緒に住むってのもありじゃない? お金も浮くと思うけど」


「それは願ってもないことですけど……」


「ま、急いで決める必要はないことだ」笑いかける。「それはそうと何か飲む?」


 上目がちに頷くパトリシア。ソファに座り直し、ブランケットに包まる。

 彩乃は、ダイニングテーブル横の椅子の背に掛けられていたパーカーをパトリシアへ渡した。


「ご注文は?」


「えっと……」何が飲みたいか聞かれてもとっさに出てこない。


「コーヒー、ココア、紅茶とか、インスタントだけどね。冷たいのがよければ、ジュース類もあるけど」


「……ココアでお願いします」少し悩み、答えた。


「牛乳は?」


「たっぷりで、お願いします」


「よしよし。何か食べる? ケーキあるよ」


「ケーキ――」呟く。努めて無感情でいようとするも、欲しさ、嬉しさが滲む。甘いものはパトリシアの好物だった。


 パトリシアの態度を見て、パトリシアから見えない角度で、彩乃は微笑んだ。

 電気ケトルで湯を沸かしている間に、彩乃は冷蔵庫から菓子店の紙箱を取り出し、テーブルへ運んだ。


「好きなの選んで」加入祝いに用意しておいたものだと、言い添える。


 紙箱の中には色とりどりのケーキが並んでいた。苺が花弁を象る春らしいタルト、艶やかなチョコレートケーキ、食用バラと木苺で彩られたミルフィーユ、ピスタチオのケーキなどなど。甘い匂いがパトリシアの鼻腔を蕩かす。

 パトリシアは苺のタルト選んだ。その選択に、だろうな、と彩乃は優しい視線を送った。



 夜遅いブレイクタイムののち、

「さっきはどうしたの?」彩乃が何の気なしに尋ねた。


「あ、えと、急に気持ち悪くなって」バツが悪そうに、視線を落とす。食べ終わった後のトレーを見る。「初めて人を殺しました。それが思っていたよりもきつかったというか、実感が重かったというか、興奮しすぎたというか……。とにかく、ごめんなさい。先輩に迷惑かけてしまいました」


「いいって。仕事が失敗したってわけじゃないんだから」


「着任早々、失態と課題ができてしまいました。なんとか改善していきます」


(あのくらいは失態ではないと思うけど……)彩乃は内心、呟いた。

 きちんと「敵」に向かって引き金を引けただけで、お釣りが来るくらい上出来だ。十六かそこらの少女が「仕事」で人を殺めることは、高いストレスたりうる。十分に教育され、本人が身構えていたとしても。職業意識や使命感で精神負荷をコントロールするには、パトリシアは経験も目的意識も少なかった。

 とはいえ、そのうち慣れるなどと無責任で残酷なアドバイスもどきの戯言を彩乃は吐きたくはなかった。


「やる気があるのはいいことだ」しみじみと呟く。


 彩乃は窓を見た。パトリシアもつられて窓を見る。車のドアを閉める音が微かに聞こえた。

 すぐに、階下からドアを開け閉めする音と階段を駆け上がる音が聞こえてきた。


「はいはい、猫澄様が来ましたよー」ドアを開けるなり言う猫澄。


「ああ、ネコ、ありがとう」


 猫澄は、パトリシアのデイパックをダイニングチェアに座らせた。


「ありがとうございます」


「いいってことよ」


 パトリシアは、さっそくデイパックからピルケースとポーチを取り出した。


「あの、水道使っても?」


「いいよ。でも断らなくても平気、キミの家なんだから」


 控えめに頷き、パトリシアはキッチンに入り、ケースから錠剤を取り出した。


「なんだ、もう誑し込んだの? 手、早すぎ」小声で尋ねる。


「んなわけないだろ」即座に否定。


 テーブルの食器を見る猫澄。


「あ、ケーキ食っていい?」


「あんたの分はない」


「ひど、一緒に選んだじゃん」


「一緒に選んだ? 別のお店見にふらふらしてたでしょ……。まあいい、どうしても食べたいならパトちゃんに聞いて」


 彩乃と猫澄は、薬を飲んでいるパトリシアを見た。


 パトリシアは頷いた。「――いいですよ」


 立場的に断れるわけない、とでも言いたげな目をしていた。

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