■01: ウェットガール(2)

 東京都渋谷区、アンティーク調のファサードの三階建てビル――一階部分が石、二階以上はレンガ造りの外壁――蔦植物の這う、よく言えば趣のある建物を、少女は緊張した面持ちで見上げていた。


 少女――長めの金髪、黒いセーラー服、膝丈スカート、黒の手袋、濃色のニーソックス、サロモンのトレイルランニングシューズ、ミステリーランチのデイパック。全身黒ずくめに髪の金色とスカーフの赤が強いコントラスト。


 少女は一階部分に視線を戻した。

 店舗、ガレージ、上階へのエントランス。少女の目的地は、コーヒー豆専門店だった。サンセリフ体で〈BLACK BLADE’s Coffee〉とだけ書かれたガラス窓のドア、路上までコーヒーの匂いが漂う。


 やがて、意を決し、ドアを潜った。たちまち、表とは比べ物にならないコーヒーの香気が少女の全身を包んだ。人生初のコーヒーショップの空気に酔いそうになる。


「いらっしゃいませー」


 四畳半ほどの小さな店内。カウンターには、柔らかい雰囲気の女性店員がいた。他には客も従業員もいない。


「あの、本日配属された……」たどたどしく言った。


「ああ、新しい子ね、聞いてます。ちょっと待ってね」店員はそう言い、携帯端末を操作した。「……うん、いま連絡したから。すぐ迎えに来てくれると思うけど」


「ありがとうございます」小さく頭を下げる。


「せっかくだから、コーヒーでも、と思ったんだけど、そんな時間はないか――」


 女性店員が言い終えるや否や、店のドアが開いた。


「待たせたな」


 現れたのは、背の低い少女だった。

 三本線の青いトラックジャケット、ふわふわのロングスカート、ジャケットと同じブランドのアウトドアシューズ、ミルクティーブラウンの髪、はち切れんばかりの胸。


「藤・パトリシアだな?」


「はい」姿勢を正す。


猫澄ねこずみ侑加ゆうか、よろしく。詳しいことは上で話そう」


 店を出る二人に、女性店員は穏やかな笑みを浮かべ、手をひらひらと振った。


「この階段で上」コーヒーショップ横の階段を上る。「一応、その扉は閉めておいて」


 パトリシアは言われたとおり、中国格子風のドアを閉じた。階段の先で待つ猫澄へ尋ねる。


「さっきの店員さんは?」


「うん? あの人は一応同じチームではあるけど、実動部隊じゃないんだよね。情報部の人で、いまは店番が任務の一環。んで、実動部隊はもう一人いるんだけど……もう少しすれば帰ってくると思う。まったくいつまで遊び歩いてるんだか……」


 部屋の電子錠を解除する猫澄。その間に、パトリシアは辺りを見回した。プッシュプル式ハンドル、表面木張りの防弾仕様の玄関扉。ドアの上にはカメラが二台。ダミーカメラかもしれないが、厳重そうな様子に、パトリシアは組織の支部に来た実感が湧いた。


「さ、入って」


「はい」


 ドアを潜る。

 室内の様相はパトリシアの想像していた「支部」とは大きく異なっていた。一枚板のカウンター、カウンター上方のペンダントライト、棚の酒瓶やコーヒー豆、グラスにカップ類、ドリップ器具。ミッドセンチュリー調のテーブルとソファ、スツール。ウォーターサーバー、空気清浄機、テーブルの上の鮮やかな黄色の灰皿、マガジンラックの雑誌類。部屋の隅のPCデスクとバイス付作業台、ガンロッカー、上階へと続く無骨な金属製の階段がなければ、喫茶店かバーだと錯覚しそうな空間。


「ま、座って」猫澄がソファのほうへ案内する。


 パトリシアは頷いた。デイパックを置き、遠慮がちに灰色のソファーへ腰を下ろした。

 猫澄は、デスクから樹脂製のアタッシェケースを持ち、一人掛けソファーへ座った。足を組み、口を開く。


「ようこそ、渋谷特別支部に。歓迎するよ、人手があんまりないから盛大にとはいかないけど。現に一人いないし」


「いえ、よろしくお願いします」真面目な口調。


「どうも。ここがどういう支部かは聞いてるか?」


「はい。優秀なエージェントばかりのすごい特別なチームだと、プロフェッショナルだとか」


「照れるね」


「あと、女の人しかいないって――本当ですか?」


「配置は、な。拠点の一つだから他の課員もたまに来る、当然男も。キミのプロフィール確認させてもらってるから言うけど、そこは割り切って」


「はい……」深刻そうな顔をした。


「ま、それはさておき、として」


 猫澄は、灰皿を横へ除け、樹脂製アタッシェケースをテーブルへ置いた。ケースを開いて、中身をパトリシアへ見せる。モバイルバッテリーのような長方形の物体と、スマートフォン、スマートウォッチ、スマートグラス、コンタクトレンズの箱が入っていた。


「キミのITISアイティス


 ITIS――統合戦術思考系。「組織」のエージェントに支給される補助装備。モバイルバッテリーのような物体は、このITISの個人用母艦にあたる。母艦を介してITISネットワークと接続することで、支援を得られ、味方との素早い情報共有が可能となる。


 パトリシアの目が輝いた。これを手にすることで、晴れてエージェントになれる。「学校」に入寮した時点で、この道しか選択肢がなかったとはいえ、現場で活躍するエージェントは憧れだった。夢が一つ叶い、もう一つの夢が始まる。


「これが、わたしの……」興奮を抑え、猫澄を見る。


「いいよ、触って。初期設定済ませちゃいな」


「はい」



――

 パトリシアが端末の初期設定を終えた頃、玄関ドアが開いた。外出中だったもう一人のメンバー三日月みかげ彩乃あやのが帰ってきた。


 やっと帰ってきたのかと呆れ気味の猫澄。

 一方、パトリシアは帰還した先輩を興味深げな目で見ている。サイクルジャージとフードデリバリーサービスのバックパックという出で立ちに、想像が膨らんでいた。そして、パトリシアの想像はおおよそ当たっている。配達員に偽装して仕事をこなす、その光景をイメージして、一人静かに沸いた。


 彩乃は、二人を交互に見て口を開いた。


「おおー、キミが新人さん? いやー待ってたよー」


「いや、待ってたのはこっち。来るってわかってたんだから、迎えるくらいしてくれって」毒づく猫澄。


 猫澄の言葉を受け流し、パトリシアへ大手を広げる。「来てくれて嬉しいよー」


「ふ、藤・パトリシアです。よろしくお願いします」畏まって言う。


「三日月彩乃でーす。よろしくー」


 手を振る彩乃。階段のほうへ歩いていく。


「ネコ、ちょっとシャワー浴びてくるから」


「は? これから仕事だぞ。汚れるかもしれないのに風呂入る必要ある?」


「汗臭いままで新人ちゃんの隣にはいられないでしょ」


「それこそ、汗臭いか煙草臭いかしか変わんないだろ。臭いのは一緒」


「言ってろ」吐き捨て、パトリシアへ調子を変えて言う。「あぁ、ごめんねぇ、うるさくて。この子ちょっと口悪くて」


「いえ――」


「風評被害ですぅ。冤罪反対」


「はいはい」


 カンカンと、小気味よい音をさせて、彩乃は上階へと消えた。

 水面に風が吹いたかのような、一瞬のざわめきだった。静けさに気まずくなる。


「……コーヒーでも飲む?」


「あ、はい」



 二十分後。彩乃がシャワーを終え、戻ってきた。

 オフホワイトのソフトシェルジャケットにスポーツタイツ、ローカットのハイクシューズ。装いは変わったが、スポーツテイストな方向性に変化はない。トートバッグに銃やベルトなどを入れて提げている。


 彩乃はコップにクランベリージュースを注ぎ、飲み干すなり告げた。


「さっそくだけど、これからお仕事あるから」


「今日ですか?」


「そ、今日、いますぐ」


 後ろで、猫澄が「いやになっちゃうぜ」と小言を言っている。


「ホントは今日の夕方からはフリーだったんだけど」


「前日にいきなり予定が入るってのはよくあることだ、いやってわけじゃないが、もう少しなんとかならないものかねえ」


 大変ですね、とパトリシアは相槌を打った。

 彩乃はカウンターからテーブルのほうへ移動し、パトリシアへ問いかけた。


「銃は持ってる?」


「はい」


 パトリシアは立ち上がり、スカートを捲ると、内腿のガーターホルスターから小型の拳銃を引き抜いた。赤い下着と、太腿を横切る大きな傷痕がチラリとのぞいた。


「すご……」猫澄が零した。


「プロっぽいかなと思って」


 下着のことだ、言いそうになるのをグッと堪える猫澄。


「プロっぽいかはさておき、それ支給された365ね。悪いけど、今日のところは預からせてもらうよ」


「……はい」


 パトリシアは、彩乃が365と呼んだ拳銃――SIGP365から弾倉を抜き、スライドを引いた。装填済みの一発が飛び出る。その弾をキャッチし、弾倉に込める。それから、未装弾状態のP365と弾倉を彩乃へ渡した。

 彩乃は、改めて未装弾、未装填であることを確認し、頷いた。


「あとでP365これ、バレル交換するから。没収ってわけじゃないから安心して。うちのチームはバックアップ用の銃でもサプレッサー使えるようにしておこうって方針なの」


 彩乃は受け取った拳銃を持って作業台のほうへ。


「あと、これもローカルルールなんだけど、なるべく抜くまで一発目は送らないように。一番安全なのは薬室に弾を入れないことだから」


 自分たちは警察ではない、初弾を装填するわずかな時間すら許されない状況に置かれた時点で自分たちの負けなのだ、と言い足した。


 パトリシアは頷いた。


「でも、そこまで厳密じゃないし。絶対に撃つってわかってるときは、装填しておいても平気だから」


 そう言い、彩乃はP365を作業台に置き、入れ違いにいくつか装備を用意した。

 二挺の銃とベルト、そしてプレートキャリアをテーブルへ置く。


「今日はこれ使って」


 目を引く長物は9mmAR、MDP9。L字型のフォールディングストック、頬が接する部分にはテニスラケット用のグリップテープが巻かれている。アクセサリーは、GEMTECH製サプレッサーとSIGブランドのドットサイト、弾倉四本。都市迷彩が施され、銃本体のコンパクトさと併せて低視認性を演出。

 そして、ベレッタ製のストライカー式ピストルと角ばったサプレッサーオスプレイ9。ベルトに樹脂製ホルスター。

 残る装備は、ポーランドメーカーの軽量なプレートキャリア。拳銃弾対応の防弾プレートが挿入済み。サブマシンガン用のマガジンポーチがセットされている。


「あとで武器庫から気に入ったのを選んでいいからね。それか装備課に頼めば、好きなのを買ってもらえる」


 ただしMP7は除く、と付け加える。


 ほえー、と口を半開きのまま、彩乃の言葉を聞くパトリシア。プレートキャリアを手に取って重さを量るように上下に揺らした。


「普段は使わないんだけど、初日で新人ちゃんが死んだり、重傷――みたいなのはさすがにね」


 パトリシアはセーラー服の上からキャリアを被った。ぶかぶかとまではいかないが、かなり大きめ。


「やっぱ大きいか。パトちゃん細いからなあ」


 細かいサイズ合わせをしてあげる彩乃。それでもやはりパトリシアにはオーバーサイズ、彩乃や猫澄とは違うフィッティング上の問題が生じている。どうしようかと、首を傾げる。


「――パトちゃん?」パトリシアが尋ねた。


「嫌だった?」


「あ、いえ。パティよりはいいです」


「そう」


「じゃあ、わたしも先輩って呼んでいいですか」


「名前で呼んでもいいんだぜ」


「いまは先輩って呼びたいです」


「変な子」


 悩んだ末に彩乃は、腹にクッションを挟んで、プレートキャリアの上からベルトで締めて押さえることにした。


「ごめんだけど、今日のところはこれで勘弁ね」


 彩乃はパトリシアにウインドブレーカーを手渡し、現地到着まで装備を隠すように指示した。



――

「なに、もっと厳つい車を想像してた? ランクルとかGクラスとか」


 準備を終えた三人は、ビル一階部のガレージへ移動し、移動車両に乗り込もうとしていた。

 チームの車両を見たパトリシアは、少し残念そうな目をした。もっと重厚そうな防弾車を想像していたからだった。

 現実は、マツダの赤いクロスオーバーSUV。


「――えっと、はい」素直にがっかりしたことを告白。


「別に導入自体はできるけど、若い女の子が乗ってたら変な目立ち方するでしょ。あんまりごついと小回りも利かないし」


「なるほど」


 立ち話をする彩乃とパトリシアをよそに、猫澄はすでに後部座席へリュックサックとカメラ用のカーボン三脚を放り込んでいる。


「パトちゃんは前に座って」彩乃は助手席を指した。


 頷くパトリシア。乗り込み、シートベルトを締め、MDP9の入ったリュックサックを膝の上で抱いた。


「忘れ物はない?」助手席と後部座席を見、言った。


 猫澄は「ない」と一言。パトリシアは彩乃を見て、頷いた。


 彩乃の運転で、車はガレージを出発した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る